不動産屋は危険がいっぱい! ~廃墟なアパートの秘密の部屋~

ととりとわ

第1話 古い下町の不動産屋

 不動産屋には本当にいろんな客が来る。

 春から大学生だという前途洋々の若者から、親の介護で地元に帰ってこなければならなくなった独身男性。新しい家庭を築こうというラブラブカップル。はたまた、夫婦生活に疲れきって避難部屋を求める夫。

 この仕事に、怖い、うさんくさい、騙されそう、とかいう後ろ暗いイメージを抱く人も多いだろう。だけど、本当はそうじゃない。街の不動産屋は、いろんな人や物が詰まったビックリ箱、パンドラの箱? いやいや、心のオアシスなのだ!



その小さな店の入り口には、ペンキの禿げたトタンの看板が掛かっていた。

 わずか二間ほどの狭い間口。格子状になったガラスの引き戸には不動産物件の図面がべたべたと貼られている。その下には鳩のマークのステッカー。開け閉めのたびにガラガラと音を立てるので、「ここだけ時間が止まったみたいだね」と年配の人が足を止めて懐かしんでいく――。

 ここは七福不動産。東京下町の裏通りにひっそりとたたずむ、創業五十年の老舗不動産店だ。バブル崩壊によりバッタバッタと周りが倒れていくなか、賃貸物件の管理をメインにしていたお陰で生き残った。

 小さな店だが、長くやっているだけあって管理棟数は百を超える。ただし、店構えが古すぎてお客は少ない。今日も閑古鳥が鳴く店を、社長と女性社員のふたりだけで切り盛りしている。


 瀧川チハルはデスクに広げた図面を前に、瞼が下りそうになるのを必死に堪えていた。きちんとアイロンの当てられたシャツに、ピンストライプの黒色のスーツ。ふんわりと内巻きにしたカールが、肩口で優しく揺れる。一見デキる女に見えるが、胸ポケットからはマスコットのついたペンが覗いていた。それにチハルは……さっきから舟を漕いでいる。

 日当たりの良さに加えて、コチ、コチ、と一定のリズムを刻む柱時計の音がひたすら眠気を誘った。先代の形見だという歴史の遺物を、どうしても捨てられない社長が悪い。ランチタイム後のこの時間は、毎日格闘の日々だ。

 きゅ、きゅ、とチョークが黒板を擦る音に、チハルは半目で睨みつけていた図面から顔を上げた。音のした方に目を向けると、グレーのスーツを着た白髪混じりのオジサンがいる。白い万年汚れがこびりついた行動予定表に、彼は何かを書きつけていた。ひどい字だ。楔型文字を彷彿とさせる癖字は、勤め出して一年が経った頃にやっと読めるようになった。

 ――坂野様訪問、帰社予定……十五時……!?


「社長!」


 ばん、と勢いよく立ち上がった。その瞬間、事務イスが後ろにすっ飛び、スチール棚にぶち当たった。


「二時半に契約のお客さんが見えるって言ったじゃないですかー!」


 声を荒らげると、社長の黒磯はゆっくりと首だけを捩って振り向いた。指で掻いたのか、ひげがチョークで真っ白になっている。


「そりゃ知ってるけどさ。地主さんに呼ばれたら断れないよ。しかも中村さん、家賃が二か月入ってこないって怒っちゃってるし」

「ああ、そういえばサンビレッジに滞納してる部屋ありましたね。……あっ、でも、私じゃ賃貸契約できませんので、社長にいなくなられるのはやっぱり困ります」

「そうだね。君、宅建持ってないし」


 ぐっ。

 黒磯はわざとらしく目を見開き、しれっと言う。嫌味だ。短大を卒業してから四年間、毎年受けているのに未だに宅建――宅地建物取引士――の試験に合格しないチハルへの当てつけだ。

 宅地建物取引士の資格試験は年に一度秋に行われる。資格がないと不動産の営業ができないわけじゃないが、持っているといないとではやはり周りからの信用が違う。それに、契約の際に取り交わす重要事項説明書だけは、この宅建士でないと説明することができない。ゆえに、実質チハルでは契約することができないのだ。

 チハルだって、なにも怠けているわけじゃなかった。資格が欲しくないわけでもないし、勉強だってちゃんとしている。ただ、本番にちょっと弱いだけだ。

 しょぼくれてしまったチハルの元に黒磯はやってきた。


「過去問をひたすらやるんだよ」


 と言って、スチール棚から取り出した問題集をデスクに重ねていく。


「去年も結構やったんですけどねえ」

「何回?」

「うーん。民法、宅建業法、法令上の制限、その他通しで、三……回くらい……?」

 最後はごにょごにょと小さい声になった。

「問題を暗記するくらいやらなきゃ合格しないよ。図面の整理が終わったら勉強ね。契約のお客さんが来たら、取りあえず世間話で繋いでおいて」

「えっ、ちょっと待ってくださいよお」


 情けない声を上げるチハルの肩を軽く叩いて、黒磯は出掛けていった。



 ボーン、と柱時計が一度だけ鳴った。もう二時半だ。積み上げられた過去問集を横目で見ながら、チハルはため息を吐いた。

 店を訪れる客は黒磯宛ての方がもちろん多かった。しかし彼は鉄砲玉だ。帰社予定時刻なんて宛てにならないから、彼が戻るまでのあいだチハルが客の相手をする。そのお陰で会話術もだいぶ身に着いたが。


「いやでも、世間話で引っ張るにも限度があるって」


 ひとりごちて頭を抱えた。契約のお客さん遅れてくれないかな――チハルはただ祈るばかりである。

 ふと、デスクに影が差した気がして入り口を見れば。べたべたと貼られた店頭図面の向こうに人影がある。


「あれっ、もう来ちゃった……!」


 チハルは立ち上がり、頬をぴしゃりと叩いて店頭まで小走りに行った。やかましい音を立てながら引き戸を開けると、やっぱり契約の客だ。大学を卒業したばかりの紅顔の青年はうつむき加減でモジモジしている。


「佐々木さん、お待ちしておりました!」


 引きつり気味の笑顔を浮かべて、「どうぞ」と店内へ促す。けれど青年は下を向いたまま入り口のマットの上から動こうとしない。


「あの……契約の前にもう一度部屋を見せて貰ってもいいですか?」


 消え入るような小さな声。

 チハルの口元に、にいっ、と場違いなほどの笑みが広がった。これで社長が帰ってくるまで何を話そうかと気を揉まなくて済む。


「はい、喜んで!」


 と明るく返事をして、いそいそとご案内の準備をするのだった。



「はあぁ」


 一時間後。チハルは叱られた犬のような顔をしてデスクに突っ伏していた。

 ……終わった。何もかもが。社長の黒磯は帰社予定時刻を過ぎた今でも帰ってこないが、いっそこのまま今日は戻らなくてもいい。

 と、そこへ。

 ガラガラ、と引き戸が開く音がして、チハルはばね人形のように跳ね起きた。


「いらっしゃ――なんだ、久我さんか」

「なんだとは失礼だな」


 久我と呼ばれた男は、後ろ手に引き戸を閉めて店の中に入ってきた。

 艶のある黒髪に黒ぶちの眼鏡、細身のダークスーツを着こなす彼は、七福不動産の隣にビルを構える大手不動産会社、京和地所のエースだ。男らしいしっかりとした顎に、切れ長の二重を持つ精悍な顔立ち。パッと見イケメンなのでさぞかしモテると思うが、本人曰く、『中身が残念』なのだそうだ。

 背の高い彼が横切ると、この狭い店が小人の家のように見えた。久我は応接セットを通り越して、衝立の中の事務スペースへとずかずかと踏み込んできた。


「ストップ、ストップ! これより先、業者様の立ち入りは固くお断りしております」


 チハルはバリケードよろしく両手を前に突きだした。そこへ、久我が骨ばった大きな手を重ねてくる。ほんのりとあたたかい手のひらには、アタッシェケースでできたマメができている。


「慰めてやろうと思ったのに。何があった?」


 見上げた先にある眼鏡の奥の瞳が、優しく弧を描いた。とたんに胸の奥がムズムズして、頬がほのかに熱を持つ。付き合いのある業者のなかでも、七福不動産を一番多く訪れるのが久我だ。男性ばかりの職場で女っ気がないから、とかこつけてはやってくるが、本当はどう思っているのか、チハルにも気になるところだった。


「さっき契約に来たお客さんにキャンセルされたんです。手続きの前にもう一度部屋を確認したいって言うから案内したら、やっぱり気になるところがあるって。あー、どうしよう。これじゃ今月のお給料分も稼いでないですよ……」

「そういう客いるよね。勢いで申し込みしたけど、契約までのあいだに気持ちがグラついちゃう人。ま、そういうこともあるさ」と言って、がっくりと項垂れるチハルの肩に久我は手を掛けた。「ああ、今日はいい日だなあ。落ち込んでる君に手を差し伸べることができるなんて」

「は?」


 チハルが睨みつけると、久我はニッ、と微笑んだ。横に広がった薄い唇から、白い歯が零れた。


「チハルちゃん、君にお客さんを紹介してもいい? アパートを何棟か持ってる地主さんなんだけど、これまで自分で管理していた物件を任せられる業者を探してるんだって」

「えっ、本当ですか!?」

「うん。土地を売ってくれたお客さんなんだけど、うちは賃貸も管理もやってないから、七福さんを紹介してみた」


 泥沼に嵌っていた気持ちがスポーンと勢いよく飛び出した。アパートの管理を任せたいですって? しかも何棟も! 物件が増えれば毎月の管理手数料が増えるし、空室が出れば仲介手数料も手に入る。何より、社長が大喜びするだろう。きっと今日のキャンセルもこれで帳消しだ、ヤッター!

 チハルはくりくりした瞳を輝かせて、久我の手を両手で握った。


「久我さん、ありがとうございます! で、その地主さん、京和地所さんにいらしてるんですか?」

「いや、さっき七福さんで待ち合わせって言ったからそろそろ来るんじゃない? ……あ、来た来た」


 久我は衝立の中から飛び出して小走りに入り口へと向かった。その背中を、チハルも慌てて追いかける。急な話だからお茶菓子すら用意していない。まったく、こんな時に限って社長はいないんだから!

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