第4話 ポートン
まさか用意された車がトラバントだとは思わなかった。今は幻東独のこれまた幻の大衆車、一同頭を抱えてこんな博物館展示品が用意された意図を図りかねたが、ヤケ起こして海辺街ポートンへ乗り込めば、不思議と溶け込んだ。80年代パラマウント映画に取り残されたみたいに、猥雑と喧騒がネオンに香るこの街では、古い車が多かった。しかし小柄な車体に、チャルの頭はつっかえる。
「ごめんね、運転二人に任せっきりで」
後席三分の二を占有するチャルが曲げた膝を抱えていた。前席は前席で、大きな尻が二つひしめき合っている。シャーリーは元より、ジェフも割合尻が大きかった。
「しょーがないわよ、こんな車なんだし。それよりジェフのお尻もうちょっと小さくならない?」
「テメエよりは小せえよ。そろそろ運転代われ」
「陽が落ちたらね」
狭い車内から逃れようとするシャーリーは、窓を開けて縁に身をもたげた。抑える帽子の庇の端から、数軒のマンモスホテルと下界に広がるモーテルの群、いずれも外壁の汚れ甚だしく、典型的な寂れたリゾート地。しかし背後にそびえる山脈の中腹に白い豪邸が賑やかに、更にその奥、ビルトン城が夕陽の茜に染まっていた。猫耳娘と摩訶不思議な研究はとても繋ぎきれない風景で、溜息が出る。
「いいホテルとったの?」
「まさか。シーツに染が付いてそうなモーテル」
「わーやらしー。でも汚いのはやあよ」
「シャーリーもジェフも、やらしいことはしばらくナシだよ」
「んークオラちゃんに出逢えた場合を除く」
「色ボケ」
「どうせジェフもでしょ」
隣を走るオープンカーが軟派男共を満載し排気ガスに口笛が混じる。当然シャーリーを目撃してのことだった。彼女は彼女で陽気に手を振ってみせて、唇鳴らすのが悪い癖。
「珍しいクルマ乗ってんなぁ、そのデカパイじゃ狭くねえか」
「つかえてんのはおしりの方よ。煙草持ってる?」
「あるよ。寄せるぞ」
煙草差し出す手が車体ごと近づいてくる。「そっちの彼氏二人はいるのかよ」と、ジェフとチャルのことも認識していて、ジェフだけは黙って受け取った。シャーリーが差し出す煙草の火種に先を近づけ、淡く煙が昇る。
「あっ」
「なに?」
ジェフは着火したばかりの煙草を道路に吐き捨てると車線変更しスピードを上げた。急に相手の車から離され戸惑うシャーリーの口元から煙草をもぎ取ると、ドアに火種を摺り付け返した。
「なによ急に」
「ヤク交じりだぞこのモク。危うくラリるとこだった。役には立つかもしれんから取っとけ。間違っても喫うなよ」
「麻薬!」
チャルは驚き仰け反ろうとして頭をぶった。シャーリーは、驚きこそしないが目を丸く問い詰めた。
「どうしてジェフは分かったのよ。まさかやってた?」
「似た香りを嗅いだことがある、俺がやってたんじゃねえよ。戦争の時壕内でやってた奴がいた、その臭いだ」
「この前のおとぎ話?」
「もっと前。お前たちと会う前のだよ」
「あーそうやって遠い目する」
戦時を思い出すといつも遠い目をする。加えて今日は、些か鼻腔が広がっていた。
暗い壕の中で奥の方、垢塗れの汚い顔で謎のパイプ咥える奴らから声を掛けられる。酔っ払ったような声だった。吹かした煙が漂って、煙草じゃないと香りで気づいた。どこから手に入れたのか、ヤクなのだろうとなんとなく思って、別にやってもよかったのだが歩哨に出るため断った。迫撃砲で壕が吹っ飛んだのはものの数分しない内である。慌てて帰ってみると、土塊の中から立ち上る煙に、ヤクの香りが混じっていた。以来、隊内で秘匿してあった麻薬は全て失われたのか嗅ぐことはなかったが、一つの香りが記憶として、ジェフの脳裏に深く刻まれていた。
「あいつら、
「え、なに?」
「なんでもねえよ。そら、もうすぐ宿だ」
薄汚いホテルに着く。外壁の汚れ甚だしく、瘡蓋のような塗膜がめくれて落ちていた。ヒビだらけのアスファルト駐車場に佇むトラバントは上手いこと溶け込んで、ベルリンの壁崩壊に立ち会いました、なんて顔をしている。部屋の煙草臭さも、禁煙の現代とはまるで乖離して内壁の黄ばみから漂っていた。
「これじゃあクオラちゃんと逢ったって、ヤる気起きないわねえ」
ギシつく窓を開けながらシャーリーは嘆いた。ついでに枕元にあったコンドームも、未開封だがゴミ箱に落としてベッドに寝転がる。すると、他の二人は慌ててマットレスにダイヴした。
「なにすんのよ!」
「テメーベッドを占有しようったってそうはいかねえぞ、この部屋に寝具はダブルが一つ!」
「このベッド僕の!絶対に譲れない!」
「待ってよ、ダブルなんだから二人は寝れるわ。てことは、チャルとジェフのどっちかは私と寝れるってわけ」
「ワケじゃねえよ腐れタコ、てめえが優先に寝ること前提にすんじゃねえ!」
「タコってなによこの顔面陰毛星人!」
「あーあー品性下劣!」
「ふんっ」
指差し合って罵倒するジェフとシャーリーの隙を突き、チャルは素早くベッド片側に横たわり固まった。手足をキュッと丸めて岩の如く、文字通り岩になってビクともしない。
「ずりいんだよチャル!」
「そーよ固まってないで動きなさいよ!」
「やだよ、僕は絶対譲らないからね。あとは二人どっちか、このベッドに残れた方がここで寝れるってわけ」
「あーもう仕方ないわね。ジェフ、勝負よ。この前みたいに身体で決着つけましょう」
「あーいいとも。今度ばかりは引き分けじゃねえ、腰ブッ砕いてやる」
「鞄にゴムあるから取って」
「ほいよ」
それがいけなかった。シャーリーの鞄は入口のラックに掛けられていて、ジェフは何の気なしにベッドを降りてしまった。彼は鞄に手を突っ込んで弄り探したが見つからず、「おい、どっか鞄のポケットにでも入ってんのか」ベッドに振り返って尋ねた。シャーリーは横になり高々と拳を上げている。
「汚ねえ!」
「はーい残念でした。ベッドは私とチャルで満員でーす」
「降りろ!降りてそんでもって脱げ!」
「やらしいことはなしだよ、ジェフ」
「そうそう、やらしいことはなしなんだから。あ、でもせっかく枕二つ並べるダブルベッドなんだから、チャル、しちゃう?」
「遠慮するよ」
「俺はどこに寝ろってんだよ」
「ほら」
ベッドの二人が指差す先に鎮座する一人用ソファ。一人分の尻しか面積はないからとても寝れた代物ではない。騙されるだけでは癪にさわる、ジェフはソファに深く腰掛け一計を案じた。冷静を取り繕ってスマートフォン弄りしばらくすると伸びをした。余裕そうなしたり顔で煙草をくわえる姿にシャーリーは嘲った。
「あら、諦めちゃったの。つまんなーい」
「ジェフ、僕らが休めたら交替してあげるから」
「施しはいらん。自分でどうにかするさ」
「へーえ、そのソファをベッドに改造しようとでもいうの?」
「まあ待ってろ。俺は頭がいいんだ」
「スケベなことしか考えてないくせに」
数十分程経って呼鈴が鳴った。先程ベッドを勝ち取った高揚感も消え、シャーリーもチャルもゴロゴロとマットレスを堪能していた頃だった。ジェフはなぜか丸テーブルを入口付近に移動させる。
「何かしら、掃除?」
「それはないよ。でも電話でルームサービスも頼んでないし」
「ルームサービス!そういえばお腹も空いたわね」
「お昼食べ損ねたもんね」
二人はガバと跳ね起きた。ルームサービスを頼んでいないとすれば、呼鈴が鳴る可能性はただ一つ、デリバリーの食事。
危惧した通り、開けられた玄関から漂ってくる匂いはハンバーガーフライドチキンスパゲッティハッシュドポテトコーンスープが人数分、ビッグサイズのピザ一枚、それにビールとコーラの缶がトドメだった。ジェフは両腕にどっさり抱えるとテーブルに置いた。二人の手からは届かない距離だった。
「汚い!ジェフきたない!」
「卑怯だよ!そんなにたくさんの食べ物を頼むなんて!」
「いい店だよなまったく。近くにあるしジャンキーなもんばっか置いてあんだから。食わねえのか?じゃお先にいただきます」
ジェフはハンバーガーとピザをコーラで流し込み、フライドチキンやハッシュドポテトはビールのツマミ、コーンスープで胃を落ち着かせるとスパゲッティで〆た。二人分、唾を吞み下す音がジェフの優越感を絶頂させた。
「あーうまかった。どうした、お前らのもちゃんとあるぜ。冷めきる前に食ったらどうだ」
「こっち寄せてよ!届かないじゃない!」
「そうだそうだ!」
「腹が張ってテーブル持てねえや。そっから降りて食いに来やいいじゃん。簡単なことさ」
「うー!」
我慢しきれなくなったチャルがまずベッドから飛び降りた。その隙を狙いジェフが首尾よくマットレスに躍り上がりポジションチェンジ、取り残されたチャルは順調に腹を満たしていった。
「とまあこんな具合だ。シャーリー、ゴムはあった。腹がくちくなりゃ、お次は」
「私はお腹空いてんのよこのヘンタイ!あんたのせいで!あんたのせいで!」
バリバリと顔面中ひっかかれてジェフはダウンする。シャーリーも辛抱堪らんとベッドを飛び降りた。
その後は、チャルがベッドに戻りジェフがトイレで寝床を離れ、シャーリーがシャワーを浴びに毛布から出た。順繰りに何かしらの用事でベッドを離れ、どうしようもないから予備の毛布数枚と枕を床に直に置いて誰かの寝所と為す。
ベッドのジェフは再び目を覚ました。あの馬食から数時間経ち、食い過ぎにアルコールも混じって胸焼けしてくる。トイレに立ったついでにシャワーと歯磨きを済ませ、本格的な睡眠に入ろうとした。戻るとシャーリーとチャルは仲良くベッドに収まっていた。
「あーあ、誰かが起きるの待っててもしょうがねえしな」
チャルの温もりがまだ残る床の毛布に身をくるんだ。ベッドへの執着も薄れてすぐにまどろんでくる。寧ろベッド争奪戦によって疲れていた。
痛む頭を横にもたげて窓に向けられる視界は刻々と狭まってくる。やたら巨大に見える月も眩しさを感じなくなっていた。
夢か現かもう判らない境界線を渡る時、獣耳の影を見た。ずっと遠くにあるようでも目の前にあるようにも感じた。
「にゃお」
ジェフは自分で言ったつもりだった。しかし、音は少女の声となって脳内に響いた。
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