ぬくもりへ急ぐ街に

カレンダー卿

セピア

 一週間身を粉にして働いたのだから、日曜日くらいは午後まで寝る事を許されてもいいはずだ。

 春の足音が日に日に大きく聞こえるようになってきた三月の半ば。広いとは言えないワンルームの、更に隅にあるベッドで俺は誰にも届かない主張を掲げる。社会人として労働を生活の大部分に据えてからもうすぐ二年、新人気分なんて言い訳は半年程前にシュレッダーにかけた。

 意識は有るが身体はまだ起きていないようで、俺はもう三十分程布団の温もりに包まれる幸せを享受していた。 カーテンが閉まっているとはいえその隙間からは柔らかな光が漏れ出している。名前も知らない鳥の鳴き声も聞こえ、今日が最近では珍しい晴天である事を伝えていた。忙しくて溜め込まざるを得なかった洗濯物をまとめて片付ける良い機会かもしれない。

 そうと決まれば早速起きよう、いやいやまだこの温もりから離れたくはない、そんな葛藤の中何も出来ずにいると、トントンと玄関のドアを叩く音が転がり込んできた。

「何か予定でもある日だったかな」

 枕元のスマートフォンは午前十一時過ぎを示している。誰からのメッセージも無い。

 実家からの差し入れか、何らかの勧誘だろうか。二ヶ月前、実家から大量の林檎が送られてきた事を思い出す。段ボール箱にぎっしりと詰め込まれたそれを消費するのは大変だった。結局半分くらいはスマートフォンとにらめっこして作ったジャムとして未だ冷蔵庫の中で眠っている。また何か送ってきたのだろうか。

 いや、それならインターホンを鳴らすだろう。俺は名残惜しくも起き上がり、パジャマ代わりのジャージ姿でドアの前に立つ。通っていた高校の名前が大きく背中に印刷されたそれは、関節に当たる部分の擦り切れ具合によって当時の使われ方を雄弁に語っていた。

 ドアスコープを覗くが誰もいない。部屋を間違えたか、それとも悪戯か。引き返して寝直そうかとも考えたが体を動かしたことで目が覚めてしまった。こうなっては仕方が無い。折角だから洗濯でもしようか、そう思いドアに背を向けた瞬間。

 トントン、と。またドアを叩く音が響いた。

 慌ててまたドアスコープを覗く。この早さならばドアの前にいるはずだ。

 しかし先程と同じく、視界に映るのは誰もいない廊下だけ。もしやホラーテイストなやつか?日曜の昼間に?引っ越し初日ぶりに一人暮らしの心細さを味わったが怖くてドアが開けられないのでは一生外に出られない。明日の出勤どころか今日の昼食すら外に出ないと始まらないのだ。

 意を決して恐る恐るドアノブを捻る。チェーンロックを掛けたドアの隙間からは誰もいない廊下が見えるだけだった。目下の心配である、『隙間から手が出てきて、それから彼の姿を見た者はいない』展開を回避しふうと息を吐く。

 しかし、さっきは随分と低い位置から聞こえたような。

「うわっ」

 足元に何か柔らかいものが触れる。咄嗟に足元を見れば、引っ掛けたサンダルの爪先あたりにほわほわとした光の玉。

「なんだこれ」

 よく見るために摘もうと腰を屈めると、当然視線が下がる。すると今まで死角で見えなかったものも見えるわけで。

「なんだ、これ」

 その光景に思わず同じ言葉を繰り返す。そこにあったのは、玄関前の廊下を埋め尽くすセピア色の光の玉達だった。




「どうすればいいんだ……」

 五分後、俺はベッドの上に胡座をかきながら途方に暮れていた。光の玉の大群は俺に用があるらしいし、近所迷惑になるかもしれないので取り敢えず自室に招いたのだが如何せん数が多い。この部屋は現在キャパシティオーバーを起こし、玄関へと続く通路全てがノスタルジックに光る状況となっている。

 どうしたものかと思案しながら悩みの種を観察する。大きさは手のひらに乗る程度、子供の頃クジで当てた大きなスーパーボールを彷彿とさせた。今はそれぞれ割と自由に動いている。俺はその中でも活発に飛び跳ねている一つを捕まえた。手に収まった瞬間大人しくなるそれを目の前に持ってくるとどこか土の匂いがしたような気がして、汚れたまま部屋をうろうろされたら大変と色々な角度から見てみる。

「あれ、何か書いてあるぞ」

 それは長い年月で薄れてしまったサインペンの文字のようだった。小学生くらいの子が書くような拙い筆跡で『サッカーせんしゅ』と書いてある。

「サッカー選手?だから跳ね回ってたって事か?」

 もしかしたら他のにも何か書いてあるかもしれない、そう思い『サッカーせんしゅ』を左手で摘まんだまま手あたり次第調べてみたらみたら案の定だった。一つ一つに『コックさん』だの『社長』だのと書かれている。筆跡も何が書いてあるか読むのに苦労したミミズののたうったようなものから、漢字混じりの割としっかりしたものまで様々だ。

「変なの」俺はベッドに寝転がる。衝撃でいくつかが宙に弾んだ後慌ててベッドから逃げて行った。「こいつが何の社長だってんだ」

 また色の濃さもそれぞれ少し違う。セピアが濃いものほど、俺にはなんだか懐かしいもののように感じるのだ。

「どうして懐かしいなんて感じるんだろう。なあ、お前ら」

 光の玉達は何も言わずぽわぽわとこちらに寄って来るだけ。

「サッカー選手、コック、社長」目を閉じて何度か呟いてみる。「何だったかな」

 懐かしいと感じる理由があるはずなのだ。しかし後少しのところで思い出せない。そうしている内に先程までの眠気がまた襲ってきて、俺はまたうとうとと――――



 ――――えっとね、サッカーせんしゅ!



 目を見開いて飛び起きる。

「まさか」

 俺は『サッカーせんしゅ』を手放すと、最も色の薄いものを探して摘み上げる。抵抗もせず持ち上げられたそれにはしっかりとした書体で『公務員』と書かれていた。

「やっぱり」見覚えのありすぎる筆跡を指でなぞる。「これははっきりと読める。そうだよな、だってこいつは三年前だ」

 薄々勘づいてはいた。正確には『サッカーせんしゅ』を捕まえた時に、どこか懐かしい土の匂いを感じた時から。

「俺の、将来の夢」

 それは俺が今まで夢見てきた職業だった。誕生日に連れて行って貰ったレストランでの料理に感動してコックを目指した事、小学生の時サッカークラブに所属して、当時は本気でプロを目指していた事。

 今度は最も色の濃いものを手のひらに乗せる。日本語かどうかも怪しい文字を、一文字一文字推理していく。それはきっと最初の夢、俺という人間が一番に憧れたもの。

「『うるとらまん』」

 はっと部屋を見る。床をセピアで染めたその全てが、無い目で俺を見ているような気がした。

「俺を叱りに来たのか?」そう話しかける。「お前達のどれも選べなかった事を怒ってるのか?」

 将来の夢だったもの達は何も言わない。ただ、それらは元々俺だったのだ。何を言いたいかくらい大体伝わってくる。勿論、俺に文句を言いに来た訳では無い事も。

「そうか、元気付けに来てくれたんだな」

 子供の頃なりたかったものにはなれなかったけど、それを夢見た過去の自分で今の俺はできている。膝元のセピアを撫でながら言う。

「ありがとう、俺は大丈夫だから。夢見たものではないけど、これはこれで楽しくやってるよ」

 すると光の玉は次々と玄関へ転がって行く。用事は済んだらしい。

 玄関のドアを開けてやり、ぞろぞろと出て行く過去の自分達を見送る。彼らはどこから来て、どこへ帰っていくのか。少しだけ気になったけれど、追いかけたら二度と会えないように思えたので玄関から見える範囲で。最後の玉が曲がり角の向こうへ消えた後俺はジャージを着替え、昼食と、ついでに夕食の買い出しに出かける準備を始めた。夕食はカレーを作ろう。小さい頃の大好物を。

「もしこれから先悩むような事があったら、その時はまたよろしくな」

 一人になった部屋で呟いた言葉は、誰にも聞かれることなく日曜日の日差しに溶けていった。

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