第三十三楽曲 決別

決別のプロローグは唯が語る

 メンバーにも大和さんにも言っていないことがある。実は、このツアーの中休みにあたるお盆に喧嘩をした。相手はお母さんで、自宅に帰った時だ。夜遅く、家に到着した私が小さく「ただいま」と言って玄関の框を上がると、2階からお母さんが駆け下りて来た。


 パンッ!


 一瞬何が起きたのかわからなかった。強制的に振られた首を戻すと、パジャマ姿のお母さんは鬼の形相で鼻息を荒くして立っていた。頬がジンジンと痛む。そこでやっと私は平手打ちをされたのだと理解した。

 ショックだった。一度も誰からも暴力を受けたことのない私は思考が止まったかと思う様な感覚で、呆然としてお母さんを見た。


「一体今までどこをほっつき歩いていたの!」


 次に浴びせられたのはお母さんからの怒声。お母さんには何も言わず、ツアーのため2週間家を空けたことに怒っているのだとわかった。所謂無断だ。しかし理解はできない。

 お母さんは私が軽音楽を始めたことで、家庭教育はお父さんに丸投げした。私は無口だったお父さんのことを今では尊敬していて、そのお父さんの許可はしっかり取ってからツアーに出掛けたのだ。体罰が必ずしもダメだとは思わない。しかし体罰を受けるだけの落ち度が私にはない。


 なんとかそこまで思考がまとまると、沸々と怒りが湧いてきた。そしてギロッとお母さんを睨んだ。自分でも珍しいと思う。これほどまでに人に対して怒りを向けるのは。

 しかしそれはお母さんの気を逆撫でしたようだ。お母さんはまたも腕を振り上げた。あぁ、またあの強烈なビンタがくるのか。私は目をギュッと瞑って歯を食いしばった。


「止めないか!」


 すると階段を駆け下りて来たお父さんがお母さんの腕を掴んだ。お父さんもパジャマ姿で、かなり慌てた様子が如実に表れている。私の両親は寝室が別の夫婦なので、お父さんはお母さんが凄い剣幕で自分の寝室を出たことに遅れて気づいたのだろう。


「何度も言ってるだろ? 唯は音楽活動の一環でツアーに出て、それは僕が許可したんだって」


 どうやらお父さんはしっかりお母さんに説明をしてくれていたようだ。しかしお母さんが理解を示さないのだとわかった。ここまで放任しておいてなんで今更……。

 すると階段の上から玄関ホールを見下ろすお姉ちゃんが視界に入った。お姉ちゃんにはもちろんツアーのことは話してあって、応援もしてくれていた。しかしそのお姉ちゃんは今、凄く悲しそうな顔をしている。それはお母さんに向けられたものだ。

 私は応援してくれているお父さんやお姉ちゃんに迷惑や心配をかけてしまって胸が痛んだ。しかし進んでしまったツアー。今更引き返すことなんてできない。


 その後、4人で家族会議だ。女子高生が夏休みに浮かれて2週間も家を空けるなんて非常識だ。――と言うのがお母さんの言い分だ。もちろん後半2週間のツアーも反対された。なんで今更関与してくるのか、私には全く理解できなかった。

 お母さんが言うには親だから当たり前だとのことだが、それならばなぜ家庭訪問は露骨に避けたのか。進路の話もあったのに、お母さんに先生との話を聞いてほしかったのに。私はその時と矛盾した現状が悔しくて仕方なかった。


 以後、話は平行線。お父さんもお姉ちゃんも話がややこしくなるので大和さんとの関係のことは伏せてくれた。尤もお父さんの勘違いなのだが。そしてそのお父さんとお姉ちゃんの応援があったので、私はお母さんの反対を押し切って再びツアーに出掛けた。


「行くなら2度と帰って来るな! 今後の生活の面倒もみない!」


 玄関を出た私の背中にはそんなお母さんの怒声がぶつけられた。とにかく集合場所のゴッドロックカフェに着くまでに、私はメンバーと大和さんのために表情を整えることだけを考えた。


 そして迎えたツアーの後半。今夜は神戸でのステージを終えて私達は安宿にいる。メンバー皆お風呂を済ませて、大和さんにドライヤーをやってもらって、その大和さんが今お風呂に行っている。

 いつもこのタイミングだ。私は毎日お父さんと電話をしている。それはこの日もそうで、私は宿泊室の外の廊下でスマートフォンを耳に当てていた。


『トラブルとかないか?』

「うん。大丈夫。大和さんが凄く気遣ってくれるから」

『そうか。それは安心だな』


 今は事実だがちょっと心苦しい。仙台でトラブルに巻き込まれた時も何もないと嘘を言ってお父さんに心配をかけなかった。あの時は警察沙汰になったわけだし、被害だろうと加害だろうと高校生の私に何かあれば、解放されることなく絶対家族に連絡が行っていた。大和さんは引率者の責任を問われただろう。思い出すだけでゾッとする。


『お金は大丈夫か?』

「うん。貧乏だけど、倒れない程度にちゃんとやってるよ。美和ちゃんがお金の管理をしてくれてるから」

『そうか。しっかりした子だな』


 メンバーを褒めてもらえるのも嬉しい。いつもの定期連絡。そう思っていたのはここまでだ。突然、電話の向こうから言い争う声が聞こえた。


『あなた! 誰と話してるの!?』

『ちょ、なんだよ?』

『唯ね! 代わりなさい!』

『止めろって! 代わっても頭ごなしに怒るだけだろ!』

『怒るのなんて当たり前じゃない! ――唯!』


 その喧騒は突如私に向けられた。耳に当てたスマートフォンから聞こえるお母さんの強烈なトーンに、お父さんのスマートフォンはお母さんに奪われたのだとわかった。私はビクッとしたので、恐る恐る声を出す。


「な、なに……?」

『なにじゃないでしょ!』


 完全にヒステリックだ。スマートフォンは耳に当てるまでもなく、スピーカーフォンのように思える。私は口元にスマートフォンを近づけて話した。


『今どこなの!?』

「神戸だよ」

『神戸!?』


 行程を知らないお母さんの驚いた声がスマートフォンから漏れる。するとお母さんは予想だにしないことを言った。


『明日迎えに行くから待ってなさい!』

『は!?』

「え!?」


 私の声はなんとか聞こえたお父さんの驚いた声に混じった。


「なんで?」

『当たり前でしょ! 高校生が親の許可も取らずに旅行なんて』

「旅行って言っても遊びじゃない! それにお父さんの許可は取った!」


 ここまでくると私の言い方も荒くなる。自分にこんな気性が眠っていたなんて今でも信じられないが、できればメンバーには見せたくない。特に大和さんには見られたくない。


『私は許可していないでしょ!』

「お母さん、前にお父さんに言ったじゃない! 保護者の責任はみろって!」

『いちいち揚げ足を取るな!』


 なんて乱暴な言い方をするのだ。声は掠れてスマートフォンのスピーカーからはその声が割れてしまっている。


「お母さんは進路のことだって聞いてくれなかったじゃない!」

『そんな話、いつしてきたのよ!』

「お母さんがいつもそんな尖った態度だから話せなかったのよ! そのまま家庭訪問は終ったよ!」

『そういうことはちゃんと話しなさい!』


 あぁ、ダメだ。全然話にならない。支離滅裂。そしてお母さんはまた言うのだ。


『とにかく明日迎えに行くから!』

「明日は朝から博多に移動だよ……」

『博多!? いい加減にしなさい! とにかくこれだけ言っても旅行を続けるなら、博多まででも迎えに行くから!』


 そこで一方的に電話を切られた。博多までどれだけ距離があると思っているのか、来られるはずがない。それよりお父さんともう少し話したかった。残念だけど、お父さんには寝る前にラインを入れておこう。そして私だ。怒りが収まらない。表情を整えなくては。そう思ってとにかく私はこの場で何度も深く深呼吸をした。

 部屋に戻るとメンバーは座卓を囲んで夏休みの宿題をしていた。すると古都ちゃんも美和ちゃんものんちゃんも心配そうに私を見てくる。そしてその中の古都ちゃんが眉尻を垂らして声をかけてきた。


「ゆ、唯……?」


 しまった……、怒鳴り声をしっかり聞かれた。はっきりそう悟った。ただお風呂に行っている大和さんと出くわさなかったことだけは救いか。


「なんかあった?」

「ううん。何もないよ」


 美和ちゃんからの問い掛けに答えておいて自分に呆れる。完全に笑顔が引きつっているのが自覚できたし、声のトーンは低い。私がそんな様子なのでメンバーが心配そうな表情を引っ込めてくれるはずもなく、私はメンバーの視線を感じながら小型の冷蔵庫まで移動した。

 貧乏ツアーと言っても水分補給は大事なので、スーパーで安いパック飲料を買って常備している。メンバー共有だ。とにかく怒鳴ったことと怒りで喉が渇いていて、水分が欲しかった。


「ん?」


 すると冷蔵庫を開けた私の目に入ったのは飲みかけのペットボトルのコーラ。昨日まではなかったものだから誰かが買ったのだと思うけど、厳しい経済事情で趣向品が入っていることは珍しい。この時高ぶった感情の私はその炭酸飲料に惹かれた。爽快感が欲しかった。だから私は普段はしない行動に出た。

 誰の物かはわからないが、気心知れたメンバーだ。出費は痛いけど後で弁償すればいい。私はそのペットボトルを取り出すと、蓋を開けて煽った。


「唯!」


 すると美和ちゃんの張った声が聞こえた。あれ? コーラってこんな味だっけ? 頭がふわっとする。美和ちゃんはなんで慌てたのだろう?

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