11

 店内へと一歩踏み出すと、レオンハルトは明後日の方角を向いたまませせら笑いを浮かべた。


「なんだ、今度はそっちから出向いてきたのか。ここには死体すらないが、何しに来たんだ」


 男が拠点にしていたはずの店は商品棚もカウンターも何もかもが持ち出され、木材の壁で囲まれた部屋には銀色のデスクがぽつんとあるばかりになっていた。机上に置かれたライトの配線はどこにもつながっていない。


 椅子すらなくデスクの端に腰かけた男は、窓から射し込む光の筋を見ていた。遮るものがなくなった部屋で、昼の光はまっすぐと男の顔にまで届いている。そうしていると引き伸ばしたような瞳の水色がさらに薄く見え、人外じみていた。


「ああ、まさか殺しに来たのか?」

「違う。話をつけに来た」


 日光を浴びた瞳孔が微かに動く。


「あの子を返せ。あるべき場所に。待っている人間がいる」


 あの男と直接話をつけに行くというと、クラウスはやめてくれと首を振った。


「そんなことをして、あの少年の代わりに何かを差し出せといわれたらどうするつもりですか」

「さあな」


 死んでみせろといわれたなら死んでみせてやるくらいの覚悟で来たが、生気の抜け落ちたやつの顔を見たらその気も失せた。


「話し合い? ハハ、おまえらしい気弱なやり方だな」


 男の口許が凶悪に歪む。


「おまえ、あの少年のためならいくら出せる?」

「勘違いするなよ、おまえに差し出すものなど何もない」


 光に照らし出されている男を、暗がりの中から見据える。


「だがあの少年のためなら何もかも差し出せる。おまえだってそうなんだろう」


 そのせいでおまえはあの子を殺すことができずにいるんだ。そう告げると目の前の男は押し黙った。身じろぎした拍子に彼の右手が銀色に光る。手持ちぶさたにナイフか何かを握っているのかもしれない。


 落ち着きなく片手で銀色を弄り、何かをいいかけ、何度も躊躇うように息を吸っては吐き出すを繰り返したあと、レオンハルトはこちらを向いた。ようやく目が合ったと思う。迷い、惑い、縋るような目付きだった。


「おまえにだけは、渡したくない」

「彼はそもそも俺の者じゃない」

「ならどうしておまえがあの子を取り返しにくるんだ」


 吐き捨てるような言葉尻にも、色素の薄い瞳にも憎悪が混じる。それを見ても憐れみの気持ちしか湧かなかった。


 あの子がほしいと男の全身が叫んでいる。けれどあれは、闇とは無縁の光の子だ。おまえのところまで堕ちてくるわけがないのに。堕ちてほしくもないくせに。そのまばゆさに惹かれておきながら受け入れられない様子はひどく滑稽だった。


「だれかがあの子を取り返しに来るのは、他に帰るべき場所があるからだ。それは俺の元でもない」


 がらんどうの部屋で、ひとりだけ光に焼かれるようにして浮き上がっている男へと近づく。


「そもそも俺たちとは住む世界の違う子供だ。だから元の場所へ返せといっている」


 恋人同士が見つめ合うほどの距離まで近づいて、彼の右手に握られていたものがハーモニカであることに気がついた。


「おまえ、あの子のためならなんだって差し出せるだろ?」


 その似合わない金属の代物はきっと少年へのプレゼントだった。自分の代わりに、音楽を学ぶ彼のそばに長くずっといられるものをと考えたのだろうが、まったく反吐が出そうなほど思考が似ている。


「あの子には二度と会わない。俺も、おまえもだ」


 こちらを見やった男はわずかな希望を求めるかのような、愚かな顔をしていた。そんな愚かな男に、憐れむように、断罪するように告げた。


「あの子には二度と関わらない。それがあの子の幸福のために、俺たち二人があげられる最大のものだ」

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