夜明けの先へ向かって

田中りとます

夜明けの先へ向かって

その日は、いつも通りの時間に床についた。

いつも彼女は横で寝ていたが、いつもと違ったのは、その日彼女は家に帰ってきてからすぐに布団に飛び込んで、そのまま寝てしまった事ぐらいだ。


声を掛けても返事もせず、仕方ないから部屋を出て暫く耳をそばだてていたら啜り泣くような声が聞こえた気もしたけれど、それもいつの間にか聴こえなくなって、食事とシャワーを済ませて部屋に帰ってきたら、スヤスヤと穏やかな寝息を立てていた。


…いつも通りの時間に床についたつもりが、ふと携帯を見るといつもより1時間ほど早い時間だった。

普段と変わったことを何かしたかと考えを巡らせるが、それはすぐに思い当たった。

あぁ、今日は家に帰ってきてから彼女と話をしていないんだ、と。

隣で寝息を立てている彼女を見ながら、思考を巡らせる。

昨晩から今朝に掛けて、彼女は特にいつもと変わった様子は無かった。

何かがあったとしたら、恐らく…いや間違いなく今日の日中何かあったのだろう。

まぁ、明日落ち着いてから話を聞けばいいか…そう考えながら、ゆっくりと意識は落ちて行った。


*


耳元で声が聞こえた。

海の中にいるような、寝起きの不確かな感覚を全身で感じながら、ゆっくりと目を開く。

もう1度、声が聞こえた。

声のする方を向くと、目の前に彼女の顔があった。

「ねぇ、眠れない」

もう1度、今度は僕が起きた事を確認してから、ゆっくりと呟いた。

寝ぼけ眼を擦りながら体を起こし、窓の外に目を向ける。

景色も映らない、真っ暗闇。

こんなんじゃ時間も分からない、と、枕元においてある時計のライトを点ける。

パッと明るくなる画面に目を細めながら時間を確認すると、午前4時半……いつもより1時間早く寝た貯金は、きっちり支払われ、いつもより1時間早い起床時刻。


それも僕だけの話であって、彼女の普段の起床時刻は大体7時頃だ。

つまり、彼女にとっては2時間半もの早起き……まぁ、昨日の出来事を考えれば、当然と言えば当然の結果かも知れないけれど。

「ねぇ」

彼女はもう1度、今度は僕の肩を優しく揺すった。

「暑くて眠れないの」

そこで僕は、部屋の中が真夏の夜の熱気で満たされている事に気がついた。

あぁ、確かにこれじゃあ寝れないね。

彼女はこくり、と頷いた。

寝惚けているのか、それとも昨日彼女にあった『何か』がまだ引きずっているのか、彼女にしては控え目な反応だった。

いつもの彼女なら、声のボリュームももう2段階くらい大きいし、語尾には感嘆符が付きそうなものなのに。

昨日、何かあったの。と、僕は聞くしかなかった。

「……」

今は話したくない?

「……うん」

小さな声。僕はそれ以上聞くこともなく、暗い天井を見上げる事しか出来なかった。

そっと、左肩に彼女が寄りかかる重みを感じる。

そんな彼女の様子を見ながら……あぁ、前にもこんなことがあったな、と。

彼女がこの家にやって来た日の事を思い返し。

そして、思い返していて一つの提案に行き着いた。


外に出よう。

左肩に控えめに寄りかかる彼女の顔を見ながら、そう提案してみた。

この暗さでも、彼女がきょとんとした表情で僕の目を見ていることは分かった。

風に当たれば、寝れるかもしれないだろ?

見当違いなことは言ってはいないものの、それでもなお彼女は乗り気な様子では無かった。

とりあえず、部屋の明かりをつける。

蛍光灯の紐を引っ張ると、闇に包まれていた部屋はパッと明るくなり、途端に目を開くことが出来なくなった彼女は、布団へと顔を伏せた。

もっとも、目が眩んだのは僕も同じで、細く細く目を開きながら次第に明るさに目を慣らすと、彼女の腕を掴んだ。

さぁ、行こう。

「ま、待って!」

ようやく、彼女はいつもの声量で声を発した。

「着替える…から…」

涼んだら寝ないの?

「…多分…今夜はもう眠れない」

そっか。じゃあ、僕も着替えるよ。

元々1時間早く起きただけだったので、彼女が良いのなら、ここでもう起きてしまってもいいだろう。

そんなことを考えつつ、箪笥から着替えのつなぎを取り出して部屋を出ると、いつも通り洗面所へ向かい、そこで着替える。


少しずつ日常へと戻っている事に、安心感の様な、このほんの少しの非日常が終わってしまうことへの寂しさの様なものを感じながら、洗面所で着替えを終えた僕は蛇口を捻り、夏の熱気で少し温くなった水をすくうと顔に浴びせた。

2度目に水をすくうと、もう冷たくなっている。

今度は冷水を浴びせると、頬が引き締まった気がした。

これでようやく目が覚めた、と言った感じだ。


洗顔を終えると、彼女が部屋から出てきた。

白い半袖のワンピースに何もしていないセミロングの黒髪。夏はいつもこの格好だ。

が、いつも以上にボサボサになった髪の毛が微妙な違和感を感じさせる。

髪、それでいいの?

「うん。今日はもう、これでいい」

そっか。

彼女の手を取り、僕は玄関へと向かう。

古びた廊下が軋む音がやけに大きく、家の中に響いた。

扉を開けると、途端に家の中にさぁっと風が舞い込んだ。

夏の夜らしい、湿った風は、けれど肌に当たると優しく体温を奪っていく。

一歩外へ踏み出し、空を見上げた。

東の空はにわかに白みだし、あと1時間もすれば夜明けが訪れることを告げていた。

二歩踏み出すと、彼女の長い黒髪が風に当たってなびいた。

そこで僕らは一度止まって、また空を見上げた。


*


彼女が普段何をしているか、僕はよく知らない。

普段の僕は、彼女が起きてきた時間……朝の7時には家を出て、畑に向かう。

昼になって一度家にもどると、彼女の姿はなく、再び家を出て夕方に戻ってくると、やはりいない。

何時も僕が帰ってきてから1時間くらいして帰ってくる。

彼女は夕食の席について、今日あったことを話してくれる。

珍しい鳥を見た事、季節の花が咲いた事、歩いて2時間もかかる海で、珍しい貝殻を拾った事。

他愛も無い話。

こんな断片的な話しか聞かせてくれないものだから、僕は彼女が一日中外を出歩いているだけだとしか分からないけれど、それで良いと僕は思っていた。

なぜならーー


*


暫く空を見上げていた僕は、ふと思い付いたことを彼女に告げた。

海を見に行こう。

「…どうして?」

不思議そうな顔で、彼女が尋ね返してくる。

朝焼けが見たいんだ。

君と一緒に、という言葉を僕は何故か飲み込んで、彼女の返事を待った。

ほんの少し、彼女は視線をずらして考えた後に、僕の目を見て小さく頷いた。

「でも…畑はいいの?」

その質問に、僕はほんの一瞬詰まった。

今日はいいよ。

その返事に彼女は納得していない様子だったけれど、僕が良いと言ったからなのか、彼女はそれ以上何も言わなかった。


車のキーは、ポケットに入っていた。つなぎを着ると、どうしても普段の癖で手に取ってしまう。

手間が省けたな。

そう思いながら、家の横に停めてある軽トラックへと向かった。

僕が運転席へと乗り込むと、彼女は荷台へとよじ登って行くのが見えた。

危ないよ?

「大丈夫。立ったりしないよ」

ならいいけど……。

「外がいいの。風に当たりたくて」

…分かった。気を付けてね。

彼女はまた、小さく頷いた。

そういえば、彼女が車に乗るのはこれで2度目だった。

1度目は、忘れもしない、彼女がこの家に来た時。

あれから、随分と時間が経った。


*


彼女と最初に出会ったのは、冬になりかけている寒い日だった。

その日、雪が降る前にと薪を集め森へと入っていた僕は、森の中で倒れていた彼女に出会った。

凍えるような体温で意識を失っている彼女を慌てて抱き抱えて、森の外に止めてあった軽トラックに乗せて-この時は助手席だった-急いで家へと連れていった。

ここから病院までは、車で1時間以上は掛かってしまう。

とりあえず部屋を温めて、冬用の毛布を取り出して、彼女を布団へと寝かせて…彼女が目を覚ましたのは、それから数時間後の事だった。

目を覚ました彼女に、僕は色々と聞いた。

何処から来たのか、何をしていたのか、何があったのか。

彼女は、何も答えてくれなかった。

まだ落ち着いていないから仕方ない、とその時の僕は思って、それ以上深く問い詰めることはしなかった。

…この時の事に関しては、未だ彼女の口から聞けてはいないのだけれど。

仕方なく、最後に僕は一つだけ質問をした。

君の名前を教えてくれるかな?

「…私の名前はーー」


*


エンジンをかけると、それに呼応して車体が揺れた。

心地よい振動を感じながら、運転席側の窓を全開にすると、僕はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

バックミラーを見ると、後ろには小さな我が家とその外に広がる原っぱだけで、彼女の姿は見えなかった。

が、それでも彼女がそこにいる事は分かる…何となくそんな気がした。

砂利道をゆっくり進み、数分走って舗装された道へと出る。

アクセルを踏み込んで行くと、エンジンの唸る音が聞こえた。オンボロ軽トラックは少しずつスピードを上げていき、それに従って開いた窓から風が吹き込む。

道の両側にはどこまでも原っぱが広がり、目の前には地平線へと消えていく道路が一直線に伸びていて、広がる東の空は、先程より白くなっていた。

こんな時間に走っている車など一台もあるはずなく、僕は少しずつアクセルを踏み込んで行った。

サイドミラーに目をやると、荷台から頭を少しだけ出して東の空を見上げている彼女が見えた。

いい景色だろ!

彼女に聞こえるように、僕は叫んだ。

すると彼女は、昨晩から一度も見せなかった笑顔になって、大きく頷いた。

「うん!」

彼女の中にあったもやもやとした何かが、少しだけ晴れたようだ。

僕は、さらにアクセルを強く踏み込んだ。

少しずつ星空を飲み込んでいく夜明けの空に負けないように、彼女の中にある曇空を晴らすように、スピードを上げていく。

ヘッドライトの照らす道の先をあっという間に超える速さにまで加速して、そこでふとバックミラーに何かが写った。

後ろで座っていたはずの彼女はいつの間にか立ち上がって、危ないと言いかけた時ーー運転席まで聞こえるような大きな声で歌い始めた。

あぁ、吹っ切れたのか。

窓から吹き込む風に掻き消されない、力強い歌声は、僕が初めて聴いた彼女の歌で、美しい歌で、何処かで聴いたような覚えのある懐かしい歌だった。


気が付くと、白み出した空が徐々に橙色に染まり始めていた。

残り僅かな時間を精一杯輝こうと星々が煌めき、代わりに東の空から太陽が少しずつ顔を出そうとしていた。

窓から吹き込む風ですっかりカラカラになった喉を潤す為に、昨日から置きっぱなしになっていたペットボトルを手に取る。温くなった水を一気に流し込んで、空になったペットボトルを戻すと、あと少しの道のりを急ぐ為に、もう一段階だけ、アクセルを踏み込んだ。

頭の片隅に少しだけ残っていた畑のことは、彼女の歌によって吹き飛ばされた。

彼女の歌で、胸が高鳴る。

後悔なんてするもんか。今は、この時間の方が、彼女と過ごす一瞬一瞬の方が、遥かに大事だ。

彼女の歌声にのせて、或いは彼女の歌声がのって、車は走って行く。

海が微かに視界に映り始めた時、僕らを乗せた車は夜明けの光と正面衝突した。

昇る太陽、その光を目指して、僕らはさらに車を走らせた。


*


海岸線に吹く風は、原っぱで浴びたそれより少しだけ冷たかった。

車を降りた僕達は、2人でゆっくり全身に浜風と波の音を感じながら歩き、水平線の先から徐々に顔を出す太陽を眺め、そしてそのうちに見つけた大きな流木に腰を下ろした。

「私ね、死のうとしてたの」

突然、彼女がそんなことを呟いた。

ざざーん、ざざーん、と、波音が嫌にはっきりと耳に入る。

彼女が言っているのは、あの日の事だろう。

あの日、僕と彼女が出会った日の事だろう。

「苦しいのは嫌だから、高い崖とかを探して、森の中を歩いていたの。そしたら、すごく寒くて、怖くなってきて、一歩も動けなくなっちゃって…気がついたら、あなたの家にいたの」

僕はただ、水平線の先を眺めていた。彼女になんて言葉をかけたらいいか、考えながら、

「あなたの家に来てからも、しばらくはずっとそんな事ばかり考えてた。どうやって死のうって。でも、あなた過ごす内に、あの家で過ごす内に、少しずつ、少しずつそれが無くなってきて…」

言葉に迷いながら話す彼女に、小さく相槌を打つ。

「あなたは私が何をしても、何をしなくても、何も言わないから、最初は何とも思ってないのかなって…思ったんだけど、だんだんあなたが私のことを待っていてくれてるんだって、分かって」

「話さなきゃって、思って…どうやって話したらいいか考えてたら頭の中がぐちゃぐちゃになって…あぁ、私はやっぱりダメだなぁって、落ち込んじゃったの」

「それで、私…もうあの家を出ていこうと、思うんだ」

何て事は無い、昨晩の彼女はただ自己嫌悪に陥っていただけだった。

…いや、「ただの自己嫌悪」なんてものではないのかも知れない。

彼女が悩んで悩んで悩み抜いた末に陥ったのだから。

その末に、あの家を出るという結論に達してしまったのだから。

…それに、僕はなんて言ってあげれば…。

水平線から徐々に昇ってくる太陽を眺めながら、僕は考えて…行き着いたのはシンプルな答えだった。

「君は駄目なんかじゃないよ」

いつの間にか涙を零していた彼女は、パッと顔を上げた。

「死のうと思うほど嫌なことがあっても、1度は人生を諦めようとしても、ちゃんとこうして生きてる。そのことを僕に伝えようと、一生懸命考えてくれた。今は、それで十分さ」

そう。

シンプルに励ます事しか、今の僕には出来なかった。

「あと…さ」

でも、僕はそれに少しだけ、付け足す事にした。

軽トラックで海へ向かって、夜明けへと全速力で飛ばした時に感じた想いを。

「こうして2人でいるとね…何というか…落ち着く…ううん、楽しい…」

ピッタリと当てはまる言葉を探す。

何よりも僕が感じた感情を、最も良く表す言葉を。

「…幸せなんだ。きっと、この感情は幸せってことだと思うんだ」

だから。

「もう少しだけ、一緒に暮らしてくれないかな?」

彼女が前向きな気持ちであの家を出て行くと言うのであれば、僕は止めはしないだろう。

けれど、今のまま彼女を送り出したらきっと前と同じことになる。そう思った。

それに、僕が彼女と一緒に暮らしたい、と言うのは、僕の本心だ。

彼女の顔を見ると、彼女はぽろぽろと涙を零して、嗚咽を堪えて、泣いていた。

「…一緒に、居ていいの?」

「ああ」

「……っ」

声にならない声は、彼女の心を塞き止める防波堤が決壊した合図だった。


*


わんわんと泣きだし彼女は僕の胸へと飛び込み、そこから彼女が泣き止むまでは、太陽が登りきって更に少し時間を要した。

ようやく彼女が泣き止んだ時、時間は正確には分からなかったけれど…恐らく朝の8時にはなろうとしていた頃だった。

帰ろっか。

いつもの調子で、僕は彼女に聞いた。

彼女がこくり、と小さく頷く。

砂浜を、来た時につけた足跡を辿りながら歩いて行く。

じりじりとした暑さが襲いかかり始めた頃、ようやく僕達は軽トラックへと辿り着いた。

彼女は今度は助手席へと乗り込んで、僕はエンジンをかけると車を出した。


来た道を引き返しながら、僕らの今までを辿りながら。

そして、その先へと続く明日へと、未来へと向かってーー2人で暮らす家へと向かってーー僕らは走り続けた。


fin.

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