1-A 束縛のフェンリル その1
極寒の巨人の国『ヨトゥンヘイム』の辺境にあるダンジョンの奥深くに、神話時代に『神の長』を始めとした神々の手で消滅した、と、『ミズガルズ』の人々に信じられていた”それ”が、数万年もの間捉えられていた。
この世の生き物とは思われない世界樹の幹ほどもある四本の太く厳つい脚には魔法の紐『グレイブニル』が幾重にも絡みつき”それ”の自由を束縛していた。”それ”は力量から言えば『魔法の紐』を食いちぎったり引きちぎる事など造作も無かった。しかし、原初のドワーフ達の高度で複雑なルーンによって編みあげられたその紐は、食いちぎろうとすれば逃げ、引きちぎろうともがけば、自由に伸び縮みし、完全にその束縛のためだけに創りだされた任を全うしていた。紐は”それ”と血縁のものの身体から創りだされた一個の永久生物なのであった。
自身の、その世界の存在そのもののような脚を食い破り、戒めを解く事も幾度と無く試そうとした。しかし、その意図を察すな否や、”紐”は、今度は首の自由を奪うように地面からまとわりつき、まったく自由が利かなくなってしまうので、”それ”は長い年月とともにその試みを止めた。
人間ならば必ず必要となる複雑な詠唱を唱えなくとも、魔力を発する事の出来る”それ”は、彼のその『闇のルーン』による魔法で、紐を黒炎で燃やして消滅させたり、大広間やダンジョン全体を滅壊させることで戒めを解く事ももちろん試みた。しかし、神々にも匹敵するドワーフ達によって隅々まで考えつくされたこの紐は、脚にまとわりつくや、すぐにもその驚異的で神秘的な力を発揮し、”それ”の持っている攻撃的な、膨大な、世界を滅ぼしかねないほどの強力な闇の魔力を、他の全ての属性のルーンを複雑精緻に編みあげてリスペルする事ですべて無効化してしまう。その『魔法の縄』一つに、”それ”は文字通り手も足も出ないのであった。
これまで『イアールンヴィズの森』で自由に野山の動物や人間、時には巨人や神々を食い殺したり、嬲り殺したりしていた”それ”だったが、捉えられてから何万年と言う年月を一時として食物を口にしたことはなく、すでに生き物を殺すのを楽しんだり、神々を狩ったりするのがどういう感覚なのかも忘れてしまっていた。捉えられるまでの野放図でいたずらな悪意から”復讐”という二文字を抜き出したもののみが、”それ”の全身の存在を繋ぎ止める言葉だった。
《『テュール』め、たばかりおって、この戒めを解いたら真っ先に喰い殺してやる、『オーディーン』や『トール』は八つ裂きにして『鉄の森』の同族の餌にしてやる、紐を作ったドワーフどもはその存在ごと黒炎で消滅させてやる、『アースガルズ』自体粉々に破壊してやる、、、、》
それだけが”それ”の頭のなかに、ここ数千年幾度と無く繰り返しめぐっている呪詛であった。
”それ”が捉えられているダンジョンの部屋は3平方kmはあろうか、古くは巨人たちの王が、謁見を受けたり、神々への戦争の作戦を練る会議を行う大広間だったのであろう、朽ち果てたとは言っても、なお荘厳で勇壮で神話時代の巨人の栄光を感じさせた。しかし、いまでは『巨人の王』スリュムの座っていた大きな玉座を除けば、概ね破壊されてしまっていた。
巨人達は、その存在自体『神の長』や『紡ぎの神たち』によって無力化させられてしまい、天界『アースガルズ』の善なる神々の目につかぬように、大洋と毒の川に阻まれた遙か彼方の『ヨトゥンヘイム』か、ごく僅かに永遠の氷『ニヴルヘイム』や魔界『ニヴルヘル』にひっそりと過ごすか、『スルト』や『ロキ』のように封印されてしまっているのが落ちであった。
『オーディーン』による効果的な掃討作戦で巨人の勢力は概ね打ち破られ、そのため『運命の女神』ノルン達によって予言された『ラグナロク』は起こり得ないであろう、と『全なる神々』は考えていた。唯一、予言を成就させるのにかかせぬ存在”それ”を除けば。
打ち捨てられ廃墟となった極寒のダンジョンの奥深くの大広間に捉えられている全長1kmを超えるであろう漆黒で怜悧でそして獰猛な狼、神々の力を持ってしても殺すこと敵わない、今、現在もその復讐の牙を研いでいる獣こそが、『ラグナロク』にて『オーディーン』を飲み込んでしまうであろうと予言され恐れられていた、銀魔狼『フェンリル』であった。
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