個室のある美容院

@y0u8ki

第1話♀チョコレートがやめられない

 日々淡々と仕事をこなす優香。入社きっかけは、引き抜きだった。

実力をかわれて入社したはずが、新しい会社のレベルは非常に低く、社員の意識も低かった。


 入社して1年は、優香も現状を変えようと必死だったが、端からみると全くなじめずにいた。


 優香はその仕事に誇りを持ち、常に仕事の事だけを考え自分の知識や技術、提案力を磨いてきた。入社して1年、優香は26歳となった。ウェディングプランナーとしては、まだまだこれからという現役の年齢だった。


 しかし、新しい職場では若い子の起用が激しく、仕事の仕方も甘い。

 まだ、知識も技術も学びたい優香は、ここでは成長の限界が見えていると退職を申し出た。


 しかし退職の許可は出なかった。接客をする職務から優香を外し店舗のマネジメント管理するメイン会社からの嘱託社員として在籍することとなった。


 強引にでも、自我を通して辞めてしまえばよかったのかもしれない。しかし、26歳という年齢が優香の意思を弱らせた。


 26歳で職場を変わって1年で退職するということ。

 もう、勢いだけで行動できる年齢ではなかったのだ。


 それから5年。職場の顔ぶれは随分と変わった。

 お局扱いをされることにも慣れてしまった。 


 最近の若い子は≪お局≫という言葉の意味さえも知らずに乱用してくる。

 <お局>という意味をはき違え、誉め言葉だと勘違いしている子までいる。


 優香はこの職場の全てが嫌いになっていた。

 始めのうちは、冗談めいた回答をしたり、真剣に上司と向き合ったりしていたが、次第とこの職場では全てが≪無意味≫だと感じ始めた。


 優香は事務をしながら、新人スタッフやオーナーの話を聞きながら(今さら…対応が遅いんだ)などと内心毒吐きながら、淡々と仕事をこなす。


『愛社精神』なんて微塵もない。

 クレームが出ようが、スタッフが困ろうが、優香には関係はない。


 ただ、優香にはプランナーとしての誇りとプライドがあった。

 安易に向き合っている、このスタッフ達に<プランナーの仕事>を語ってほしくない。


 語っているだけでイライラが止まらない。


 イライラすると、優香はチョコレートを一かけら口に入れ大好きなブラックコーヒーと共に胃の中へ流し込む。


 何故だか、一瞬イライラが治まる気がする。

 気づけば、日々チョコレートの量は増えこの頃は、就業中に板チョコレート2枚は簡単に消えている。



 チョコレートは≪麻薬≫だ。足らないセロトニン(幸せホルモン)を補ってくれる。



 優香はある日パソコンで≪チョコレート・やめられない≫と検索して愕然とした。目に飛び込んできた画面には〈チョコレート依存症〉と〈セロトニンを分泌〉と掛かれている。

 

 ―あぁ、今〈幸せが足らない〉んだ―


 何とも言えない感情が、体中を駆け巡る。


 私が満たされるためには、どれだけのチョコレートを消費しなければいけないのだろうか。


 ある日、優香は散歩途中に見つけた美容室に予約も無に足を踏み入れた。


 席は…満席のようだ。


 「予約してないので、また伺います」

 と言って店を出ようとした時、カウンターの女性が言った。


 「個室ならご用意が出来ます。どうぞ」

 「ありがとうございます」


 ―何も考えずに来ちゃった。軽く揃えてもらう程度でいいや―


 内心、そんな事を思っていた。


「しばらくお待ちください」と店員。大量のヘア雑誌を渡される。


 優香はその雑誌をパラパラとめくるが、何も頭に入ってこない。しばらく経つと一人の若い男性がやってきた。

 簡単な会話を交わし、作業はどんどんと進んでいく。エステシャンや美容師の中には施術中に仕事や、プライベートの話を根掘り葉掘り聞いてくる人が多い。接客に携わっていたころの優香自身もそうだった。


 ―こんな話を聞いてどうするんだろう―


 と仕事中、自分自身よく思っていたことだ。だからこそ優香は必ず、お客様から聞いたプライベート的なエピソードを含めた演出プランをその場で、二~三個は必ず提案をしてきた。無意味にプライベート的なことを聞かれることが好きではない優香自身だからこその接客スタイルだったのかもしれない。


 だが、この美容師は聞いてこない。どんな仕事をしているのか、休みの日はどんなことをしているのか…今まで、幾度となく問われてきた言わば、半分社交辞令のような質問ですら、してこない。


 ≪心地いい≫


 話をしなくてもいい、この空間が優香にとって最高に居心地が良かった。ハサミの音、ドライヤーの音…淡々と進む作業の音に酔いしれていると右耳の少し上の辺りから声がした


 「髪を触ってみて下さい。いかがですか」


 優香は“はっ”と髪に指を通した。


 「はい、ありがとうございます」

 優香はお店を後にした。


 その日の夜、湯船に浸かり美容室での不思議な時間の事を思い返していた。


 ―どうして、あの時間が忘れられないんだろう―


 不思議だった。会話をしたわけではないし前々からの知り合いだったわけでもない。優香はハサミやドライヤーの音を思い出しながら、また心を落ち着かせていた。


 翌朝、優香のいつもの日常が始まった。出勤し、当番で行うはずのお客様を迎える準備は整っていない。いつものように就業開始時刻の三〇分前には出勤し、事務所内と接客スペースの清掃をしていると、当番のはずの若いスタッフが出勤してくる。悪びれる様子もなく、席に着き携帯を触る…またか…

 

 そして、優香を呼ぶ声。

「会場内に飾る装飾品を探しておいてくれ」オーナーだ。

「…はい…」

 自分の感情は押し殺し、9割以上諦めを含めた返事をする。


 ―あぁ、それはプランナーの仕事の一部なんだけどな…。―


 いつもならば、午前中だけでゆうに板チョコ一枚が優香の胃の中へ溶けていた。だが、この日は何故だかチョコレートを口にしていない。


 その変わり、無性にハサミとドライヤーの音を思い出す。


 思い出すと、何故か心は軽くなっていく。


 取り繕うことなく、したくもない会話をすることのない空間。必要な時だけ言葉を交わし、愛想笑いをこしらえる事無く、プロが奏でるリズミカルな音だけが届く。


 嘘のない音。


 ―そうか私、無理しなくっていいんだ―

 

 あの個室のある美容院へ行ってから、優香は≪いい人≫と思われる努力をやめた。そして無理をしない≪自分自身を受け入れた≫

 

 そして、優香は年齢を気にして諦めていた転職を決意した。

 大好きなウェディングプランナーの仕事を、ありのままの優香で行える場所。


 プロとしての意識を持ち、背筋を伸ばし、今日も優香は、ブラックスーツに身を包み、最高の笑顔と万全の準備でお客様をお迎えする。


 新しい職場で優香は自分を高め、また四六時中、仕事の事を考えている。仲間にも恵まれ、もう迷いはない。

 

 優香の引き出しには、もうチョコレートは入っていない。

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