たんぽぽのウソ
いわくらなつき
第1話
こんなはずではなかった。
そんな風に、ここ最近はいつも思う。
ぼんやりと見つめる先には羊雲の並ぶ青い空、の半分以上を覆う縁側の天井。
小学生の頃はもう少し綺麗に見えた天井も今ではすっかり黒ずんだように思う。
「……はぁ」
長い溜め息が口から勝手に零れていた。
下校後、自宅ではなく祖母の家に通うのが高校生となった僕の習慣だ。
少し前の自分ならば、溌溂と部活動に励んでいたであろう時間。一心不乱にクラリネットの練習をしていたはず。
そんな、最早幻想上の僕を、えらく懐かしく感じながら、頭の中で思い浮かべてみる。
そうしていると、視界には入らない場所から僕を呼ぶ声がした。
「みーちゃん」
まるで可愛らしい猫でも呼ぶような、そんな声。
呼ばれた愛称に僕は内心、イラッとした。
この家にひとり住む祖母は幼い頃、それも幼稚園や小学生であった頃の名残で、僕のことを〝みーちゃん〟と呼ぶ。
僕の〝実〟という名前、その頭文字の〝み〟で、みーちゃん。
可愛くも憎らしい愛称に僕は何か反応を示してやることもなく、寝転んだまま腕で視界を塞いだ。
こうすることで僕を呼ぶ祖母は菓子なり何なり、僕に食べさせようと持ってきた物を近くに置いて立ち去って行く。
話しかけようとしていたのならば、すんなり諦めて立ち去ってくれる。普段通りなら。
「ねえ、みーちゃん」
どうも今日の祖母は〝普段通り〟ではないらしい。
しかし残念なことに、僕は祖母の家に来ておきながら今日も祖母と愉快に話す気はない。そもそも話すことがない。
だって、学校では毎日毎日同じことの繰り返しで、変化もなく、誰かに話したくなるような楽しいことなどないだから。
そのまま知らん振りを決め込もうと寝返りを打ち、縁側の外へと体を向けた。
こうすると祖母には背中を向ける形となる。ここまですれば自分が話す気がない事をアピールできているはずだ。
「みーちゃん、何しているのよ」
ここでふと、おかしいな、と思った。
声のする方向が後方ではなく前方、それも屋内ではなく屋外から声がしている気がする。
ついでに〝みーちゃん〟と呼ぶ声がやけに若い。小学生高学年の妹よりも幼い声に聞こえる。
「ちょっと。聞いているんでしょ?返事してよ」
怒り出した声の主を目にしようと、腕を動かし隙間を作り、そこから覗き見る。
丁度縁側で寝転ぶ自分のまん前に女の子と思われる人物が立っている。視力が悪く、常時眼鏡をかける自分にははっきりとその姿を捉えることができない。
「…だれ?」
そう口にすると、縁側に立つ人物が笑ったような気配がした。
「ほら、しゃっきりして。ちゃーんと起きてよ、ね?」
上を向いていた僕の肘をペシペシ叩き、起きるように促してきた。
仕方がないのでのっそりした動きで僕はトレードマークと化した眼鏡をかけ、上体を起こす。
鮮明になった視界でとらえた人物は、私服姿の女の子だった。少し大人びた小学生か、幼さの残る中学生、といったところか。
その少女は骨折でもしているのか、痛々しげに左腕を吊っていた。
どこか見たことのある赤色のスカートに白いブラウス。妹の花と比べるとだいぶシンプルな服装をしている。
「花のお友達…かな?」
こんな年頃の女の子が自分に話しかけてくる理由はそれくらいしか思い浮かばなかった。だが、僕は妹の友達などひとりとして知らない。会ったことがない。
「違うわ。知らない女の名を出すなんて、失礼しちゃう」
自分が起きたことで少しは回復していたはずの彼女の機嫌は急降下。なかなか起き上がらない自分にイラついていた声よりも冷たさが格段に違う。
そんな声を聞き、反射的に「ごめんごめん」と平謝りするも、本当に誰なのか分からない。
東京のいとこに女の子はいないし、親戚に女の子が生まれたと聞いたが年齢的にここまで大きな子ではない。
「えーっと…ほんとに、どちらさま?」
自分がそう問いかけると、少女は間髪入れずに「たんぽぽ」と答えた。
「え?」
「たんぽぽ!」
未だに頭がしゃっきりとしない僕は「たんぽぽ?」とオウム返しで繰り返してしまう。
「だーかーらっ、たんぽぽっていうの!名前!」
とんだキラキラネームだなあ、と漠然と僕は思った。
〝ひまわり〟という名前のキャラクターなら妹と一緒にテレビを見ているとよく見かけたが、〝さくら〟だの〝つくし〟だの、名前としてよく耳にする無難な花の名ではない。
まあ、実という名に、妹が花という時点で僕らも何か言える立場ではない気もするが。
「かわいい名前だね」
祖母によく似ているといわれる笑顔を貼り付けた僕は少女から発せられる怒りを静めようと努める、が、どうやら失敗らしい。
「なぁにその顔。文句あるの?」
たんぽぽという名の少女は肩を過ぎる長さの髪を靡かせ、キッと睨みを効かせている。
年齢差のある相手に怖気づいた僕は「イエ、ナニモ」と片言に発する以外に返す言葉が見つけられなかった。
少女は軽い足取りで僕のすぐ隣に腰掛けてきた。そのまま何も言葉を発することもなく、さっきまでの怒りがストンと抜け落ちたかのように静かにしていた。
「えーっと…」
いったい、何から聞くべきだろうか。
どうやら妹の友達ではないようだし、僕の記憶が正しければこの少女とは面識がないはずだ。本当に誰なのか分からない。祖母しか呼ぶことのない〝みーちゃん〟という愛称で僕を呼んだのは何故なのだろうか。
それと、そう、彼女はどこからここへ入ってここに来たのだろう。
玄関の脇からは通って来られないし、裏口は基本閉まっている。入るとしたら家を囲む塀を乗り越えてくるしかない。それにこれは一種の不法侵入ではないだろうか?
「…何をしてるの?いや、しにきたの、かな?」
こちらから口を開かなければいつまでも続きそうな沈黙を破った。
「それと花の友達じゃないんなら、どっかで会ったっけ?悪いんだけど、覚えがなくって…」
不法侵入疑惑は一旦置いておき、一先ず聞きやすいところから質問を試みた。
女の子は僕に視線を移し、向き合う形を取った。
「みーちゃんのお友達よ」
少女はじっと、僕を見つめている。
「…お友達。」
「そう、お友達」
「僕と君が?」
「それ以外に誰がいるっていうのよ」
相変わらずのオウム返しに呆れつつ、少女は骨折している左腕に目をやった。
「なんだ、覚えてないんだ」
「……え?」
「あら、みーちゃん起きたの?」
僕は、目を覚ました。
あたりはすっかり夕焼け色に染まり、少ない洗濯物を取り込んでいた祖母がのんびりした口調で話しかけてくる。
「そろそろ家に帰るでしょう?夕飯のおかずに、それ、持って帰って食べなね」
無駄に大きなタッパーに、これでもかと詰められた野菜炒めが僕の横に置かれていた。僕はしゃっきりとしない頭で「うん」と空返事をしていた。
縁側の木目がきれいに頬に写っているらしく、口を覆い、頬を掻く指先に、小さな違和感があった。
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