国際合コン忘年会(4)

「あの……」

「藍原さん」


 佳奈と川島が同時に口を開いたとき、耳慣れない言葉が二人を遮った。


チャム 안됐다アンデェッタ…」

「えっ、何?」


 佳奈が声のした方を向くと、朴がレンゲを握りしめたまま泣きそうに顔を歪めていた。


「……カワイソウ。佳奈サン、カワイソウ。勉強ものすごく大変だったノニ」

「あ、ものすごく、ってほどじゃ……。追い込みの時期に入る前に指定校推薦で決まっちゃったし、その」

「いっぱい、頑張ったのにネ……」


 慌てる佳奈の前で、朴は大粒の涙をこぼした。日本語を母語としない彼女には、「指定校推薦」という言葉が意味するところは分からないらしい。


「あの、朴さん、ごめんなさい。変な話しちゃって……」

「韓国の大学受験って日本よりよっぽど壮絶らしいから、ミヨンちゃんもきっと入試で相当苦労したんだよ」


 人目を気にせずに泣く朴の代わりに、蘭野が困り顔で答えた。キットが店員を呼び、タイ語で何か短く伝える。しばらくすると、赤紫色の小さな蘭の花が添えられた白いドリンクと新しいおしぼりがテーブルに運ばれてきた。


『ココナッツミルクだよ、ミヨン。これ、好きだったろ?』


 セクシー映画俳優に甘い声でなだめられると、朴は目に涙をためたままストローに口をつけた。

 ようやく大人しくなった彼女を見ながら、川島が遠慮がちに尋ねた。


「お家のほうは、……もう落ち着いたの?」

「母は、去年の終わりくらいから、ほとんど家で過ごせるようになりました。免疫の病気なので、完全には良くならないみたいなんですけど……」

「そっか。大事な時に、悪いことがいろいろ重なったんだね。誰かが悪いわけじゃないけど、そういうの、悔しいよね」


 低く力のこもった声に、佳奈は唇を引き結んで小さく頷いた。

 人前で、特に両親の前では、決して表に出すことのなかった思い。それが、川島の発した言葉とともに自分の中から吐き出され、霧散していくような気がした。急に胸の内がほっと軽くなると、野菜の飾り切りで華やかに盛りつけられたエスニック料理が、少しだけ滲んで見えた。


「高卒枠採用で渉外班にいるから、てっきり帰国子女とかそういう経歴のヒトなのかと思ってたけど……。そういう事情じゃ、今の仕事、結構辛くない? なんであの配置になっちゃったんだろね」


 川島は、眉をひそめながらトムヤンクンを小皿に取り分けると、そのひとつを佳奈の前に置いた。


「専門教育も受けてないのに、いきなり海外との連絡調整とか通訳とかやれって言われても、困るよね?」

「私はそういうのはほとんどやってないんです。日本語の通訳さんが入る会合の議事録取りをするくらいで……。もともと今の所には仮配置だって言われてます」

「そうなんだ。でも、もう年末だし、『仮』にしては長くない? あのフグっぽい班長さ、このまま藍原さんを渉外班で育てるつもりなんじゃないかなあ? もしかしたら、語学研修に行かせてもらえるかもよ」

「えっ、それは……」


 佳奈は目を見開き、ふるふると頭を横に振った。


「もしそうだったら、困ります」

「困るの? 何で?」

「飛行機の見える職場に行きたいから……」

「へ?」


 川島は一瞬固まると、大声で笑い出した。


「その気持ちは分かる。すごーく分かる。でもさ、語学でも何でも何か一つ専門性を持ってると、どこへ行っても重宝がられるし、顔も売れるよ。そうやって人脈を広げてから、希望のポストや仕事をより良い条件で掴むんだよ!」


 右手で物を握りしめるジェスチャーをした男装の麗人は、暗躍する女スパイのごとく、切れ長の目をギラリと光らせた。


「育ててくれるタイプの上司の下にいる時に、研修でもなんでも希望出して、どんどん行かせてもらいなよ。部内にも語学系の教育機関はあるし、私やランちゃんは民間の語学学校に通わせてもらったクチ。そういう人、同期にも後輩にもたくさんいるよ」

「でも……」


 佳奈は、自分と川島のやり取りをイケメン勢たち伝える蘭野の淀みない英語を聞きながら、しおれるように肩を落とした。


「私は、大学にまともに行けたのは合わせて一年くらいで、専門課程に入らないうちに退学だったので、とてもそういう研修を受けられるレベルじゃないと思います。今から何かやっても、とても川島さんや蘭野さんみたいにはなれないから……」

「そんなこと、ないと思うけどな」


 川島は小さく溜息をつくと、心配そうに佳奈を見ていたレオンとマイケルに英語で何か呟いた。その姿を、佳奈は眩しそうに眺めた。蘭野と同様、ネイティブ並みに流暢な英語を話す川島は、戦車に乗る夢こそ叶わずとも、十二分に格好良く、堂々として見えた。

 パイロットにも自衛官にもなれず、大学生活すら諦めて、何もないまま今に至る自分とは、あまりにも違いすぎる……。


『カナサン』


 厳つそうな低い声に呼ばれて、佳奈は思わず「はいっ」と背筋を伸ばした。金髪碧眼のゲルマン軍人が、硬派な印象の顔をますます引き締めて佳奈の目をじっと見つめていた。


『人生を決めるのは過去じゃない。大事なのは、これからのチャレンジだ』

『おおーっ、いいこと言う! レオン、今の超キマってるじゃん!』

『だろ~』


 途端に表情を崩したレオンは、川島と軽く手を合わせた。他の面々が大仰に拍手をし、それぞれの母国語で一斉に何か喋り出す。賑やかなイケメン勢につられるように、佳奈も潤んだ目のまま笑みを浮かべた。


『あの、とても嬉しいです。こういうの、初めてで……』

『初めて?』

『お仕事の帰りにご飯を食べに行くのも、いろんな国の人たちとお話するのも、タイ料理も、それに……』


 心の内に抱えてきた思いを、出会って間もない「仕事仲間」に受け止めてもらったことも――。


 沸き起こる感情を伝えたいのに、それを表現できる言葉は、英語でも日本語でも見つからない。佳奈が言葉に詰まっていると、タイ人の店員が蘭の花の添えられた白いドリンクを持って来た。キットはそれを佳奈の前に置くように手で示した。


のココナッツミルクをどうぞ。元気がでるよ』


 ストローで一口吸うと、濃厚な甘さが口の中に広がった。自然と顔がほころんでくる。


『相変わらず絶妙なフォローだね、キットちゃん』


 セクシー映画俳優を肘でつついたアレッソは、『僕もカナサンに何か「初めて」をプレゼントしたいなあ』とイタリア語訛りで呟き、手を顎に当てて思案するポーズをとった。

 数秒後、青年天使の清らな笑みは遊び人のそれに変わった。


『カナサン、クラブ行ったことある?』

「く、くらぶ?」


 佳奈は目をしばたたかせて首を横に振った。暗いダンスフロアで人々がひしめき合うように踊る光景をテレビで見たことはあるが、実際にそのテの場所に入ったことはない。


「クラブ、いいね~。踊るの楽しいよ~。大音量が嫌いじゃなければ、ぜひぜひ」


 蘭野はいたずらっぽく口角を上げると、上半身をくねくねと動かした。丈の短いスカートを華麗に着こなす美脚の彼女は、いかにも派手なライトと激しいビートが似合いそうだ。


「でも、踊り方とか、全然知らないです」

「みんな、ぴょんぴょん跳ねてるかユラユラ横に揺れてるだけだって。どうせ暗いから見えないし」

「そ、そうなんですか……」


 未知の世界を覗いてみたいのは確かだが、青年天使や美脚モデルが好んで集うような場所に身長148.5㎝の童顔が紛れても、悪目立ちする予感しかしない。


 そんなことを考えていると、隣にいる朴に腕をつつかれた。


「佳奈サン。チャレンジ大事。レオンさんが言ったデショ」

「そ、そうだね」

「ワタシもクラブ行ったことないから、行きたい」

「えっ……」


 わずかに涙の跡を残す顔から飛び出た本音に佳奈が目を丸くすると、朴は恥ずかしそうに両手で口元を覆った。


「こういうの、『ギンジョー』ですネ」

「それ『便乗』だと思う……」


 思わず真面目に返してから、佳奈は小さく吹き出した。「아차アチャ」と声を発してますますはにかむ朴は、人懐っこい子供のように見えた。


のクラブ、行ってみる? 一時間ぐらい見物して帰っても全然大丈夫だから』

『行きたい!』


 アレッソの問いに佳奈と朴は同時に応えた。そして、助けを求めるように川島と蘭野を見た。


「私行く~。川島ちゃんは?」

「私も大丈……」


 苦笑しながら答えた川島は、途中で急に「あ」と真顔になった。


「藍原さん、今、身分証になるもの持ってる? クラブは未成年お断りだから、入り口で写真付きのID見せないと入れないよ。車の免許証とか、トシも分かるやつ」


 佳奈は顔を曇らせた。車の免許どころか、教習所に通ったことすらない。顔写真の入った身分証に相当するものと言えば――。

 ひとつだけ思いつき、鞄の中から紐のついたカードホルダーを取り出すと、川島に見せた。


「裏に生年月日も入ってます」

「……ってこれ、情本じょうほん(防衛情報本部)の身分証じゃん。これをクラブの入口で出すのは、マズイよ、たぶん……」



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