にゃんげつき
シン
にゃんげつき
僕の名前は袁参。あだ名はえんちゃん。
どこにでもいる、ごくごく普通の公務員だ。
だけどこの前、不思議な体験をしたんだ。
あれは決して夢じゃない。だから、だれでもいい。この不思議な話を聞いてほしい。
あれは月の綺麗な夜のことだ。
僕はいつものように定時で上がり、同僚たちと安い酒を飲んでから、気持ちよく家に帰る途中だった。
その日はあんまりにも月が綺麗だったから、最寄りの駅で電車を降りて、普段は乗るバスを使わずに、都会から少しだけ離れたベッドタウンにある家まで、何の気なしに歩いていたんだ。
お世辞にも栄えているとは言えない街だからね、そこらへんに雑木林があるんだ。
暗いなかで側を通るのは少しだけ怖かったけど、酔いもあってか月を見ながら鼻唄を歌って通りがかったときのことだよ。
猫耳の美少女がいきなり林から飛び出してきたんだ。
もちろん驚いたさ。
だって、月明かりの下で目にしただけでも、とんでもない美少女だったからね。しかも猫耳。
僕がケモナーだったらイチコロだったろうね。
でも本当に驚いたのはそこからさ。
猫耳美少女は僕の顔を見るや、驚いたように体を硬直させて、脇をすり抜けて別の雑木林へ飛び込んで行ったんだ。
「あ、危ないところだったにゃー」
そして、30代のおっさんみたいな野太い声が雑木林から聞こえてきたんだ。
おっさんみたいな声で、語尾がにゃーって。
あの猫耳美少女があんなにも野太い声を出すのか、僕は自分の正気を疑ったよ。
でも僕は冷静だった。
その野太い声が、何年か前に失踪した友人の声に似ていると気がついたんだ。
「その声……まさか我が友、李張じゃないか?」
李張。あだ名はりっちょん。
今の勤務先で新卒同期として知り合ってから仲良くしてて、数年前に出張に出た際に行方不明になってしまった友人だ。
「そうだ。やはり、お前はえんちゃんかにゃ」
えんちゃん、りっちょん、僕らはお互いにそう呼び会うくらいに仲がよかった。
失踪したと思ったら、なんでこんなところで。
「りっちょん! どうしてこんなところに? その気持ち悪いしゃべり方はなんだ? いや、そもそもさっきの姿はどうなってるんだ?」
なぜ、失踪する前に相談してくれなかったのか。
あれから何をしていたのか。
聞きたいことはいろいろあった。
「質問は一つずつにしてほしいにゃ。そうだにゃ。ここでえんちゃんに会ったのも何かの縁。哀れな男の告白を聞いてほしいにゃ」
そうして、えんちゃん、李張は長い長い独白を始めたんだ。
哀れな男の話を聞いておくれよ。
李張はもともと、上昇思考の強い人間だった。
念願かなって公務員になってからも、資格取得や自主勉強などを欠かさない真面目なやつだったんだ。
だけどあるとき、何もかもが面倒になったらしい。
何のために自分は頑張っているのか? 自分は何を成すために生まれて来たのか? 何が望みなのか? ってね。
そうして、李張は一度公務員を辞めた。
辞めたというか、狡猾にも休職と病気療養扱いで数年間離れたんだ。
そして、前々から好んでいたライトノベルの作家を目指した。
文才はそこそこあったのか、密かに温めていた作品は書籍化し、ほどほどに売れたらしい。
そのときには、自分の道はこれだ、と思ったそうだ。
だが、あるときを境に全く文字が書けなくなってしまった。
「その時に書いていたのがちょうど、中年男がいきなり猫耳美少女に性転換転生して、青春を謳歌する学園ラブコメだったのにゃ。どうして書けないのか、俺は悩みに悩んだにゃ。でも答えは出なくて、一旦距離を置いて、手堅く稼ぎながら片手間で執筆しようとしたにゃ。だけど、戻った時には仕事は様変わりしていたにゃ」
そりゃそうだ。
一、二年離れるだけで人は入れ変わるし組織の体制も変わる。最近職場の受付ではAIが受け答えするようになったし、IT化がどんどん進んでる。
そこに戻ってきたんだ、李張には浦島太郎状態だろう。
「なんなんITって。俺、小説は書けるけど紙とペンが無いと資料の内容が覚えられないタイプなんだけどにゃ。htmlとかマクロとかすらよく分からないのに、どーすればいいってのにゃ」
四苦八苦しながらも仕事に取り組むが、休んでいた内に同期たちは年功序列で役職を得て給料が上がる。今までは同期だと思っていたやつらが今や上司だ。
自分は何をやっているのか。このまま仕事を続けてやっていけるのか、悶々と悩むうち、出張の出先の山道を運転ミスで飛び出し、ガードレールすらない崖を車ごと転げ落ちて行ってしまったそうだ。
「そんな……。りっちょんが失踪したあとは大変だったんだ。人員に空きは出るし、警察は毎日のように聴取に来るし、リースの公用車は無くなるし! 親御さんとかも泣いてたんだぞ!」
「すまないにゃ……。でも気がついたらいつの間にか俺は猫耳美少女に性転換転生していたのにゃ。この姿で帰ってどう説明するっていうのにゃ?」
確かに李張の言う通りだ。誰だって信じるはずがない。
僕だってその時は半信半疑だった。
「えんちゃん、いや。我が友、袁参。俺は常々、人生とは何か、何を成すために生まれて来たのか、と自問し思い悩んでいたにゃ。だけど、この猫耳美少女の姿になって、まだ見ぬ薔薇色の学園生活や同級生や転校生との胸キュン展開を妄想する間だけは、その悩みを忘れられるのにゃ」
そしてまた、正気に戻り、自分は何をやっているのかと反省する。自分は何を成すのか、何のために猫耳美少女に性転換転生したのかを思い悩むらしい。
「最近は、この猫耳美少女の体の方に意識が持っていかれてる時間が長いのにゃ。俺でいられる時間が少なくなり、語尾が変になるし、さっきも人とぶつかって運命の出会いを無理矢理構築するような行動に出ていたにゃ……」
もういっそ、俺という意識が完全に無くなれば、ただの猫耳美少女として生きられるのに。
そう言って李張は雑木林の中ですすり泣くのだった。
僕は何も言えなかった。
むしろ早くこの野太いおっさん声と意識が消え、ぴちぴち10代の猫耳美少女に存在が固定された方が世のためになるんじゃないかと本気で考えていたからだ。
「袁参。俺を哀れと思うなら、この事を何かしらの形で世に残してくれ。それが、ライトノベル作家を目指した男の存在証明だ……頼む」
憐れそうに言う李張の声は次第に可愛らしくなり、男の脳髄を刺激するような声色に変わっていった。
「あぁ。わかった。必ず文字にして残すと約束する」
「ありがとうにゃ。ありがとうにゃ……。それに、親には李張は死んだと伝えて欲しいにゃ。息子が失踪のまま、死ぬまで待ち続けるのは辛いだろうからにゃ。親孝行もろくにしない不出来の息子ですまないとも伝えて欲しいにゃ……」
「わかった。だがお前の親御さん、この間やっと事案が認められて保険金が入って泣いて喜んでたぞ。今ごろはハワイ旅行に行っているらしい。最後の親孝行になったな……」
「そうかにゃ」
親御さんも現金だが、その時は本当にうれしそうだった。
もしくは、悲しみを誤魔化すために遊び呆けている振りをしているのか。
ともかく、友の頼みだ。李張が枕元に現れたとか適当に話を作り伝えることにしたよ。
「あとは、俺の使っていたパソコンを物理的に破壊して、HDDを焼いてこの世から消し去って欲しいにゃ。頼みばっかりですまないにゃ」
「わかった。やってみよう。しかしいいのか? お前が書いた作品が残っているんじゃないか」
「いんや、書いていたのは携帯電話の執筆ソフトでにゃよ。俺の書いた百万文字の猫耳美少女学園ラブコメは事故の時に焼失したにゃ。だからもう心残りはないゃ。でもHDDには見せられない物がたくさんあるから親が幻滅する前に処分をよろしくにゃ」
大役を任されてしまった。
親バレ、しかもひっそりと秘めるべき部分の。なんという恐ろしいことだろうか。
親御さんは機械に疎い世代だろうし、李張もフォルダの中に紛れ混ませたりして隠してはいるだろうが、安心は出来ないだろう。
話をするついでに速やかに回収し、この世から消し去らねばいけない。
「わかった。任せろ。他に頼みたい事はないか?」
僕が問えば、李張はいくらか意識を取り戻したのか、しっかりとした口調でで最後の頼みを告げた。
「ありがとう、最後にもうひとつだけ頼みがある。我が友、袁参。もうすぐ俺の意識は消え、この体は完全に猫耳美少女のものとなるだろう。
君にはこの哀れな姿を見せたくはない。しばらくはこの道を通らないでくれ。そして二度と俺と会おうとも思わないでくれ。
忌まわしきこの体は夜道を歩く男にぶつかり、好みのタイプであれば運命の出会い扱いにして、そのままお持ち帰りされようというメス猫の思考回路なのだ」
なんてことだろうか。ということは、李張はともかくこの猫耳美少女にとって、僕はお持ち帰りされてもいいぐらいの運命の相手ってわけだ。
いやでも、中身が野太いおっさんだという事を知っているから、微妙な気分だ。
意識が完全に消えても、姿を見せたくは無いという李張の言い分も分かる。
僕が黙ってなんとも言えない表情をしていると、了承と取ったのか李張は言葉を続けた。
「だから、会おうという気持ちをなくすために、是非俺の醜い姿を見ておいてもらいたい。この道を真っ直ぐ進み、あの曲がり角まで行ったら、一度だけ振り返り俺の姿を見てくれ。そうしたら、さよならだ」
「あぁ……。わかった」
「何から何までありがとう。袁参。俺の意識が消える前に会えたのがお前でよかった……。思えば俺は、心が弱かったんだ。現実から逃げようとして、ありもしない妄想を繰り返していた。だから死ぬこともできず、この猫耳美少女に性転換転生という罰を与えられているんだ。この姿は俺の醜い心、弱い心の写し鏡だ。外身は美少女だが、中身はただの野太いおっさんだ。これが俺の業なんだ」
「李張………」
「ありがとう。我が友。さぁ、行ってくれ」
それきり李張は大声を上げて泣き始め、僕の問いかけにも答える事はなかった。
僕は諦めて歩きだした。そしてしばらく進み、曲がり角に着いたら言われたとおりに振り返って、先ほどの雑木林の付近を眺めた。
たちまち、一人の猫耳美少女が林の茂みから道の上に躍り出たのを僕は見た。
「恋が! 恋がしたいにゃー! 運命の出会いは、あたしの王子様はどこかにゃー!」
猫耳美少女は既に白く光を失った月を仰いで、二声三声好き勝手に叫んだかと思うと、またもとの雑木林に躍り入って、再びその姿を表すことはなかった。
……最後まで読んでくれてありがとう。
この物語を少しでも記憶に残してくれたら、夢破れて社会復帰もできず、妄想の産物に成り代わってしまった哀れな男の存在証明となるだろう。
最後に何か聞きたい事はあるかな?
え? その雑木林の場所はどこかって?
あぁ、もしかしてあの猫耳美少女に会いたいのかな。
でも残念。次の日の夜には僕が通りがかって、運命の出会いってやつ、お持ち帰りってやつをしちゃったんだ。
今は二人で仲良く暮らしてるよ。
我が生涯の友、りっちゃんとね。
ごめんね?
にゃんげつき シン @Shinkspearl
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