つばさ

果糖

1話完結

 雲一つ無い空はどこまでも蒼く、そして遠かった。

 どこまでも広がる蒼。

 そのなかを鳥たちは飛び回る。

 己の自由を誇るように。

 地べたを這うモノを嘲けるように。

 自由気ままに宙を舞う。


 あの空に行けたらいいのに。

 少女は空を見上げ、そうつぶやいた。


      1


舗装されているとは言い難いが、人通りがそれなりにあるせいだろうか、獣道とも呼べないような山道を一人の少女が歩いていた。

季節は秋の中頃。休日では無いし、学校が終わったような夕暮れ時でもない。少女は学校ではなく山の中を歩いていた。特に楽しい訳ではない。ただ有り余る時間が退屈で、暇を持て余して散歩をしているだけだった。

この山道は彼女のお気に入りだった。虫の鳴く声や木々が風で擦れる音を聞くのは楽しいし、たまに人が来ることがあっても、それは数日に一人くらいだからだ。

 人が辺りに居ないことを確認してから口笛を吹くと、あちこちから動物が出てきた。ウサギやリスなどといった動物たちが森の奥から現れる。彼らは少女が手なずけた動物たちだ。

少女は暇な時は良くここに来て、彼らに餌付けをしていた。普段は警戒心の強い野生動物たちもそのせいか、今や少女の前では御主人様に尻尾を振る飼い犬と同じだった。

 少女はポケットからクラッカーを取り出し、砕いて動物たちに食べさせる。特によく懐いているリスとなどは足下から彼女の肩に登り、そこが自分の定位置であるかのようにしてクラッカーを食べている。イタズラ好きの一匹が、彼女の首筋に鼻をすりつけた。

「こ、こら! くすぐったいでしょ!」

 少女は笑いながらリスを叱る。その言葉が通じたのかそうでないのか、リスは小さい手足を器用に動かして少女の頭に登った。

「もう……甘えんぼなんだから」

 いつもの事に叱る気も失せ、少女は落ち葉の上に腰を下ろした。秋の陽気は春に遠く及ばないまでも、なかなか心地良い。しばらくは動物たちに懐かれるままにしていたが、そのうち船をこぎ始める。

 いけない。

 そうは思うけど意志に反してまぶたは下がり始め、平たく言えば夢の世界まであと一歩という所だった。

 森には動物の鳴き声の他には、風のそよぐ音ぐらいしか無い。穏やかな静寂が森を包んでいた。


 ――その静寂が、一瞬で切り裂かれる。


 木々の枝が折れ、何かが空から墜ちてきた。敷き詰められた落ち葉の上に衝突し、がさがさ! と静寂を乱すに十分な音がした。

 夢うつつだった少女は音に驚き、びくりと体を震わせた。少女の驚きが伝播したのか、それとも音に驚いてか、少女の周りに集まっていた動物たちも森の奥へと逃げて行った。

(な、何なの!)

 驚いて音がした方に視線を向けたが、誰かが来たということは無かった。ただ何かが落ちてきたみたいに一カ所だけ落ち葉の絨毯がへこんでいた。

 不思議に思い、少女は近づいてみることにした。

(音の大きさからすると、やっぱり猫とかかな? でも猫って高いところから飛び降りても、すたって着地するよね? みんなが逃げたってことはもしかしたら凶暴な動物だったりしないかな? もしそうなら怖いな)

 半ば以上逃げ腰になりながらも、好奇心に負けて早紀は音のした場所に近づいていった。

「……あれ?」

 そこには一匹の小さなフクロウがいた。ケガをしているせいで、白い羽根が所々赤く染まっている。

「た、大変!」

 慌てて駆け寄りフクロウに触れる。非常に微かにだけど胸が上下していて息づかいがまだ感じられた。

まだ生きている。

 少女は一瞬だけ迷い、しかし血まみれのフクロウを抱き上げた。


 村からは大分離れた場所に一軒の動物医院があった。看板はペンキが剥げており、寂れた病院だという事が露骨に感じられた。

 少女はフクロウを抱えながら、体当たりするようにしてその建物の扉を開いた。

「おじいちゃん!!」

「どうした、早紀?」

 医院の待合室にあるソファにすわっていた白衣姿の老人が、本から眼をあげて早紀と呼ばれた少女の方を見る。それだけで老人――早紀の祖父は状況を把握した。

「すぐに診察室の方に」

「うん、わかった」


 診療台には白いフクロウが横になっている。白い羽根の上から、さらに白い包帯が巻かれていた。

「おじいちゃん、この子は大丈夫そう?」

「ああ」

幸いにも発見が早かったおかげで、フクロウは一命を取り留めた。羽根や肋骨などが折れていて危険な状態ではあったが、安静にしている限りは命に別状は無かった。

「……よかった」

 早紀は「ほっ」と安堵のため息を漏らした。診察室に祖父が入ってから一時間ほどが経っていて、その間は自分はただ待っているしかなかったからだ。

「よかったね、君」

 優しくフクロウをなでる。どうやら完全に寝ているようで、反応は全くない。

「……もう飛べるの?」

「無理だな。治るのにしばらくかかる」

「そう……どれくらいかかりそう?」

「3週間ぐらいだ」

「あ、結構早くなんとかなるんだ。よかったね」

「しかしフクロウか。この辺りにもまだいたとはな」

 祖父はフクロウの様子を見ながら、どこか感心した様子で口を開いた。それほどまでに、フクロウは今ではこの田舎でも珍しい動物だった。

「私も初めて見た。やっぱり珍しかったんだ、この子」

「絶滅危惧種だからな」

「ぜつめつきぐしゅ?」

「今にもいなくなってしまいそうだから、大切にしないといけない動物のことだ」

 祖父はかなり端折った説明をした。難しい話をしても、あまり意味は無いと思っての事だった。

「いくつ位なんだろう」

「1、2歳といった所か。羽根が白いのは幼鳥の証拠だからな」

「へ~。となると、まだ赤ちゃんなのかな」

「いや、鳥の寿命を考えるとお前と同じくらいだろう」

「え、そうなんだ!」

 たった1、2歳なのに自分と同じくらいだと言われ、少なからず早紀は驚く。

「……ねぇ、この子に名前つけてもいいかな? しばらくはウチで面倒を見るんでしょう?」

 祖父は少し考え込んで、小さく「好きにしなさい」と言った。

「う~ん、どんな名前が良いかな?」

 せっかく名前を付けるからには、立派な名前を付けてあげたかった。何か良い名前は無いだろうか、早紀はしばらく考え込んだ。

「花の名前はありきたりだし、単純に英語にするのもつまんないよね……」

 そういえば、と早紀は近くの本棚から一冊の本を取り出した。ローマ神話について書かれた本だ。

「確か、この辺に……あった!」

 早紀は歓声を上げながら、ページを指差した。神々の説明がされているページに、ミネルバという名があった。ローマ神話の工芸と知恵の女神様で、その従者がフクロウであったと書かれていた。

 ミネルバ。早紀は、そう何度か口の中でつぶやいた。言葉の響きに得心が行ったのか、満面の笑みを浮かべてミネルバと名付けられたフクロウの方を向いた。

「よし、あなたの名前はミネルバ! よろしくね!」


 そんな早紀を見て祖父は何かを言いかけ、結局は何も言わなかった。

 何も言えなかった。


   ***


 夜になる頃には、フクロウは意識を取り戻していた。起きたばかりの時は檻から出ようと暴れていたけれど、体力が尽きたのかもしくは傷が痛むのか、そのうち静かになった。

 そんなフクロウを早紀は、飽きもせずにずっと見つめていた。いつもの彼女の習慣である読書も、今日ばかりはフクロウの観察に負けているようだった。

「早紀、そろそろ寝なさい」

「ん~、もうちょっと~」

 祖父が早紀を咎めるが、早紀は生返事を返す。さっきからこの繰り返しが幾度となく繰り返されていた。時刻は22時を回った頃。もう早紀のような子供が起きている時間ではない。

「いい加減にしないと体に悪い」

「あと少しだけ」

「……」

 黙って早紀の背後に近づき、祖父は彼女を抱き上げた。

「あわっ!」

「まったく、誰に似たのやら」

 軽々と早紀を抱えながら、寝室へと向かう。早紀に聞こえるように、祖父はわざとらしく大きくため息をついた。

「これじゃあ何の為にこっちに預けられたのか解らないだろうが」

「……ごめんなさい」

 早紀は肺の病気にかかっていた。もう手術は受けたけれどまだ完全には治っておらず、今でも時々発作が起きる。だから静養のために早紀は今年の夏から祖父のいる田舎に預けられていたのだった。

「ほら、いいからもう寝ろ」

「……はい」

 祖父から下ろしてもらい、早紀は自分の足で寝室に向かった。

 

     2


 山に甲高い口笛の音が響いた。けれど、いつもなら呼びかけに答えて集まってくる動物たちも、今日は何故か集まってこなかった。

「あれ? どうしたのかな?」

 もしかしたら聞こえなかったかもしれない。そう思い早紀はふたたび口笛を鳴らす。けれど、やっぱり動物たちが集まってくる気配はなかった。

(本当にどうしたんだろう?)

 こんなことは今までに一回もなかった。どうしたのかと考えを巡らせてみたけれど、早紀には答えが思いつかなかった。

「ま、いいっか。今日はミネルバがいるし」

 檻の鍵を外そうとして、外で鍵を開けてはいけないという祖父との約束を思い出して思い止まった。

「良い天気だね、ミネルバ」

 ミネルバは首を回して早紀の方を見た。なんだか首を傾げているようにも見える。とりあえず何もすることは無いので、早紀は落ち葉の上で横になった。落ち葉の絨毯は少しちくちくとするけれど、慣れてくるとこれはこれで気持ちがよかった。

(なんだか寂しいな)

 いつもは動物たちにかこまれているせいか、ミネルバとしか一緒にいないと何だかそんな風にも感じられた。

 フクロウは夜行性なので、昼間のミネルバの反応はあまり良くない。人間にとってみれば深夜に無理して起きているのと同じ事だから、当たり前と言えばそうだった。

 餌にあげるつもりだったお菓子が無駄になり、仕方ないのでバッグにしまった。早紀一人で食べるには量が多すぎるし、ミネルバはそもそもお菓子を食べたがらないからだ。

 今の時刻は正午を少し過ぎた位。早紀と同年代の子供は学校で授業を受けている時間だ。

「本当なら今は学校で授業を受けてる時間かな」

 早紀は前々から学校は休みがちだったけれど、引っ越してからは一度も学校には行ってなかった。

 理由は色々とある。学校で発作を起こしたら困る、学校の授業で習うことはつまらない、激しい運動は医者から禁止されている、今から学校に行っても時期的になじめないだろう。ただ、どれも本当の理由とは呼べなかった。その全てが正解であり、しかし決定的な理由とまでは言えない。

 それでもあえて理由を無理につけるなら、「不安である」の一言に尽きる。前の学校でも同じだった。病気がちな早紀はどこか周りと浮いていて、いじめられているという訳では無いにしても、どこか距離をとられていた。それに学校で発作が起きて、その時に誰もいなくて危険な状態になったこともあった。

 ただ後者については、今こうして人気が無いところで一人でいることの方が問題である。

 小さくため息をついて、早紀は起きあがった。餌として持ってきたお菓子をいくつか袋から出して砕いた。こうすれば、自分たちが居なくなった後に動物たちが食べるだろうと思ったからだ。


「ただいま」

「お帰り」

 早紀が診療所の扉を開けると、祖父の声は診察室の中から聞こえた。どうやら今は診察中のようだった。

患者とは顔を合わせないように、早紀はすぐに自室へ向かった。鉢合わせしてしまうと、大抵は面倒なことになるからだ。

ミネルバの籠を窓に置き、早紀は本棚から本を取り出した。娯楽本ではなく参考書だ。体が弱いから学校以外で勉強しなくてはいけないので、そのための通信教育教材だった。

ベッドの上では他にすることがないからと続けていたら、すでに教材のレベルは彼女の学年を優に超えていた。これもまた学校に行く理由を見いだせない原因となっていた。

 彼女は聡い子であった。しかし、幼かった。学校の勉強の先に何があるのか、そこまでは考えが至らなかった。このことが、彼女の祖父にとっては悩みの種でもあった。


小さいノックの音が聞こえ、早紀は扉の方に眼を向ける。そこには飲み物と菓子を盆に乗せた祖父がいた。

「そろそろ頃合いだろう。一息ついたらどうだ」

「うん」

 早紀はそれまで取りかかっていたテキストから顔を上げ、机の上を軽く片付けた。

「今日はミネルバの散歩でも行ってきたのか?」

「うん。でも、みんなは出てきてくれなかった」

「みんな?」

「ウサギさんとか、リスさんとか」

 ああ、と祖父は頷く。理由を教えてやるべきか、それとも黙っているべきか迷う。

「でもミネルバと一緒だったから、寂しくはなかったよ!」

 あわてて取り繕うようにして早紀が口を開く。まったく、聡い子だ。祖父は大分伸びてきた無精ヒゲをなでた。

「それと、フクロウさんも見かけなかったの。ミネルバが一緒だから、もしかしたら出てくるかもって思ってたんだけど……」

「フクロウは夜行性だから昼間は寝てる」

「そうなんだ。じゃあ夜に行けば会えるのかな?」

「かもな」

 といっても人前に出てくることは無いだろう、という言葉を祖父は飲み込んだ。こういうときは、やはり自分がただの孫に甘い老人だと思い知らされる。

「あと、帰ってくる途中に学校の人と会いそうになった」

「先生か?」

 ふるふると早紀は首を横に振るった。となると、生徒の方か。大体の状況はわかっているが、一応祖父は早紀に尋ねる。

「で、どうしたんだ?」

「しばらく隠れて、どこかに行ってから帰ってきた」

「そうか」


結局、どうしても一番言うべき事が口に出せない。それが目下の祖父の頭を悩ませている問題であった。


「そろそろ夕食を作りたいんだが、手伝ってくれないか?」

「うん!」

 ミネルバはそんな祖父の悩みを知ってか知らずか、ホウ、と鳴いた。


***


 その夜、祖父は早紀が寝静まった後にミネルバが檻から出て外に飛んでいくのを見た。

 足を忍ばせ、そっと早紀の部屋に入る。案の定、檻の鍵が外れていた。嫌な予感がしてしばらく早紀の部屋に留まった。

 一時間位すると、ミネルバが何かを咥えて部屋に戻ってきた。すぐさま檻に入れて、診察室まで運ぶ。

 電気をつけると、ミネルバが咥えている物の姿が解った。

 既に事切れたハムスター。毛並みが良く、ペットとして大切に扱われていたのが良く解った。嫌というほどに。

 自分が治療を行った患畜のことを忘れるほど祖父はボケてはいなかった。

 簡単にミネルバの診察を行う。骨折はほぼ治り、羽根も長距離を飛ばない限りは問題は無さそうだった。これならば一週間もしないうちに完全に治るだろう。

「ミネルバ……」

 白きフクロウの口元は、獲物の血で紅く染まっていた。

 

      3


 家で参考書を読むのにも疲れてきて、早紀はいつものように山道に散歩に出かけた。手にはミネルバの檻もある。祖父からはあまり連れ回さないように言われてはいるけれど、それでもミネルバと一緒に居たかったからだ。

 口笛を吹いてみても動物たちは出てこなかった。もうミネルバがいると動物たちが近づいてこない事には気づいていたけど、それは早紀にとって動物たちとミネルバが一緒にいられないように感じられて嫌だった。

 いつものように早紀は落ち葉の上に横になる。とたんに眠気が襲ってきた。頭を振り眠気を抑える。いくら日差しが暖かいとはいっても、夕方になればさすがに冷えてくる。

 森の中を目的もなくただ歩き回る。早紀がミネルバと出会った時と比べると落ち葉もさらに増えていて、木々にはほとんど葉が残っていていなかった。

(どうしてみんなはミネルバに近寄って来ないのかな?)

 最近、早紀がずっと考えているのはその事についてだった。ざっとフクロウについては調べていて、フクロウが肉食だということは解っている。けれど、それだけが理由じゃないと早紀は思っていた。いつも集まってくる動物たちの中には犬もいた。犬も肉は食べるけれど、動物たちが犬を避けていたりはしなかった。

 なら、どうしてだろう? いくら考えても早紀には解らなかった。

「ん~」

 勉強で疲れた頭がさらに疲れてきた。再び眠気が襲いかかってくる。

 今度は抗うことが出来なかった


早紀が跳ね起きると、いつの間にか日は傾き空は夕暮れに紅く染まっていた。

(いけない、お祖父ちゃんが心配してるかも)

 慌てて立ち上がり帰路を急ごうとする。が、

「っ!」

 山道から聞こえてくる話し声に、早紀はびくりと体を震わせた。とっさに身を隠す。

「今日――行―ない?」

「えー、それより―――のほうが」

 息を殺して、身を縮める。

(忘れてた、もう下校の時刻だった)

 見つかりたくない。早紀は落ち葉に深く深く体を沈めた。声が段々と近づいてくる。

(お願い! 気づかないで!)

 しばらくすると、声は遠ざかっていった。

「ふぅ……」

 早紀は緊張感が解け、肩の力を抜いた。

「……なにやってるんだろ、あたし……」

 どうして隠れなくちゃいけなかったのか、早紀は自分でもよく解っていなかった。顔を合わせたくらいで何か不都合があるのか? 大人だったら説教をするかもしれない。同年代の子供ならせいぜい挨拶をするかしないか、あるいはただ普通に通り過ぎるだけか。

 自己嫌悪で早紀は胸に嫌な痛みを覚えた。

「ねぇ、どうしたら良いと思う。ミネルバ」

 ミネルバは、いつもの様に首を傾げるだけだった。

「そうだよね、ミネルバには関係無いことだよね」

 ぼふ、と早紀は枯れ葉の上に寝転がる。空はどこまでも蒼く、じっと見ていると吸い込まれてしまいそうだった。

「あの空に行けたなら、ミネルバみたいに自由になれるのかな……何も気にしなくて済むように……何かに悩まなくても……」

 自分のしていることが逃げ以外の何でもないことは早紀にもわかっていた。だからついさっきも、ああして隠れた。本気で学校に行くことを必要ないと割り切れているなら、堂々としていられるはずだった。

 胸が締め付けられるように痛い。早紀は体を丸めて痛みに耐える。

(しまった!)

 気がついたときにはもう既に遅かった。

「ごほっ! ごほっ!」

 一度咳が出ると止まらなくなる。自然気胸。それが早紀のかかっている病名だった。肺の空気を吐き出し尽くしても、さらに息を吐き出せと咳が止まらない。

「――っ!! ――っ!!」

 声の無い咳が口から漏れる。早紀の意識は次第に暗闇に飲まれていった。

 

 完全に気絶する前に誰かの声が聞こえたような気がしたが、早紀はそれが誰の声なのか解らなかった。


      ***


「起きたか」

「……あれ?」

 目覚めると、早紀は自分がベッドに横になっているのがわかった。

「どこまで覚えている」

「確か、山道で発作が起きて……」

「まったく、何のために静養に来てると思ってるんだ。お前に何かがあったらお前の両親に申し訳が立たないだろう」

 祖父は大きくため息をついた。優しく早紀の頭をなでる。

「ごめんなさい……」

「食欲はあるか? 用意はしてあるが」

「ううん、今日はいい……」

「そうか……」

 しばらく沈黙が続く。言いたいことがあるのに言えない。そんな感じだった。

「なぁ、早紀――」

「……おじいちゃんは、私が学校に行った方が良いと思う?」

 何か祖父が言いかけたのを遮り、早紀が言葉を紡ぐ。

「……わかってるよ。自分がただ逃げているだけだっていうこと。学校なんてつまらないとか、必要ないとか、そんなこと全部言い訳でしかないないって……でもしょうがないじゃない、怖いんだから……」

「……」

 話ながら、ぼろぼろと涙をこぼす。涙はなかなか止まりそうに無かった。

 しばらくして早紀が落ち着いてから、祖父はゆっくりとした手つきで茶を淹れた。無言のまま早紀はそれを啜る。

「なぁ、早紀。お前をここまで誰が運んできたか解るか?」

「おじいちゃんじゃないの?」

「違う、お前の同級生だ。どうやら向こうは早紀のことを知っていたみたいだな。ここまで運んできてくれた」

 祖父も茶を啜った。熱さに顔をしかめ、カップをテーブルに置く。

「……ミネルバみたいに自由になりたいな。そうすれば、こんなに悩まなくても良いのに……」

「早紀はミネルバが羨ましいのか?」

「うん」

 迷いの無い即答だった。

「そうか……」

 祖父は早紀の部屋を後にした。


 早紀は祖父が居なくなってから、枕に顔を押しつけて声を殺しながら泣いた。


      ***


 早紀が真夜中に目が覚めると、いつの間にかミネルバの檻が部屋から消えていることに気がついた。

(お祖父ちゃんが持ってったのかな?)

 もしそうなら診察室だろう。そう考えて早紀は診察室に向かった。予想通りに祖父がミネルバを檻から出して診察しているのが見えた。

「おじいちゃん」

「早紀か。どうした?」

「なんとなく目が醒めちゃって」

「ちょっと待て。もう少しで診察が終わる」

「うん」

 しばらくして祖父は檻にミネルバを戻した。元気が良く、檻に戻るときに少し暴れたりした。

「もうほとんど治っているな。これならもう自然に放しても良さそうだ」

「放す……」

 祖父の言葉を聞き、早紀はうつむいた。早紀はてっきりミネルバを飼うものだと思っていたからだ。

 祖父が話していた絶滅危惧種という言葉を早紀は思い出した。変に手を出すことは良くないことだって解っている。でも言わずにはいられなかった。

「ねぇ、おじいちゃん。ミネルバを飼うことって出来ないかな……」

「飼いたいのか?」

 しばらくの逡巡の後、早紀は首を縦に振った。

「そうか。じゃあその前に一つ手術をしないとな」

「手術?」


「ああ。ミネルバの羽根を切る」


「……え?」

 早紀はしばらく、祖父が何を言ったのか解らなかった。祖父の言葉を何度も頭の中で繰り返す。

「……どう……して?」

 酷く混乱しながらも、それだけを口にする。

「人と一緒に生きるとは空に飛ばなくなるということだからだ」

「で、でも!」

「飼いたいと言ったのは早紀だ。勝手に外を飛ぶようになれば、森の中とは違って犬や猫に襲われる危険がある。屋内で飛んで何かにぶつかり、それで骨を折ってしまうこともある。だから切らないといけない」

「ダメ!」

 早紀はミネルバの籠を抱え走りだし、診察室の隅に座り込んだ。祖父に背を向け、ミネルバを守るような体勢になる。

「……早紀、安全とはそういうことなんだ。自由を引き替えにしてようやく手に入る」

「でも、ミネルバが飛べなくなるなんてそんなの嫌だ!」

「檻にこもっているミネルバと早紀で何が違うんだ」

「私は…・・・私は・・・・・・」

「早紀、選ぶんだ。ミネルバに自由を与えるか、それとも自由を奪い安全を与えるのか」

 祖父は珍しく机からタバコを取り出し、火を点けた。早紀が来てからというものの、タバコは机の中に入れっぱなしだった。幸いにもタバコが湿気っているということは無かった。

 タバコが一本燃え尽きる頃には早紀は落ち着きを取り戻していた。

「答えは決まったか?」

「酷いよ、おじいちゃん。わかってるくせに」

「まぁ、な」

 早紀は息を吸って、ため息をつくように言葉を吐き出した。

「ミネルバを放そう」


      ***


 早紀が寝室に戻ってから、祖父はポケットから動物の死骸を取り出した。これがもう一つのミネルバがここに居られない理由だ。

 ただ、これは早紀が知る必要は無いことだ。

(墓を作ってやらないとな)

 祖父は早紀に気づかれないように外に出た。


 別れの日は、その数日後に決まった。     


      4


 丘から見える夜空は、夜色の天幕に様々な色の宝石を散りばめたようだった。

 風はなく、不思議と虫の声さえ聞こえない。

「早紀」

「うん」

 祖父の差し出す鉄の檻を早紀は受け取った。ずしりと重く、危うく地面に落としそうになる。

「さよなら、ミネルバ」

 檻の扉が開く。

ミネルバは、白く大きな羽を広げて夜の空へと飛び込んでいった。

早紀のことを振り返ることなく。もはやミネルバの眼には夜空しか映ってはいない。

力強く、ただ空を目指して。

 そんなミネルバを、早紀はただじっと見つめていた。


「早紀」

 ポン、と祖父が早紀の頭に手を乗せた。

「私は、ミネルバを飼うのが間違いだとは思っていなかった」

「え?」

 早紀は祖父の意外な答えに驚き、彼を見上げた。

「ミネルバは確かに自由なのかもしれない。しかし、フクロウが生きられる場所はもう少ない。もしかしたらミネルバは明日には死んでいるかも知れない。だが――」

「わかってるよ、おじいちゃん」

 それは早紀にも解っていることだった。

「少なくても、飼っていれば死ななくて済むんでしょ?」

「……その通りだ。私はあんな事を言ったが、ミネルバが自由に空を飛びたいか、それとも籠の中で安全な一生を送ったほうがいいのか、それは解らない。もしかしたら――」

「でも」

 少女は祖父の言葉を遮り、言葉を紡ぐ。それは、祈るように。

「ミネルバはもう空しか見てない。だってミネルバは翼があるんだから。翼は飛ぶためにある。そう言ったのはおじいちゃんでしょう」

 くるり、とミネルバの飛んでいった方角とは逆に早紀が向き直る。

「おじいちゃん、そろそろ帰ろう」

「いいのか?」

 ミネルバの飛ぶ姿はまだ丘から見ることが出来る。まだ見送る事が出来た。

 けれど、早紀は首を横に振った。

「ミネルバは自分の居場所に帰っていった。だったら私も自分の居場所に帰らないと」

「……そうか」

 言葉に込められたのは、精一杯の勇気。

 昨日までの自分と別れを告げるための、決意の言葉。

「明日から、学校に行く」

「……そうか」

「体も頑張って治す。友達もたくさん作る」

「……そうか」

「――だから――だから――」

 祖父は夜空を見上げた。きっとミネルバも見ている空を。無言で早紀を抱き寄せる。顔は見ないように、視線は夜空に向けられたままで。

 押し殺した鳴き声が聞こえる。

祖父は、ただ優しく早紀の背中をなでた。

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