ウォーター・フロウ

「ちーいー」

「あらあずさ。どうしたの」

「あっ、ハルちゃん。ちーは?」

「上がってちょうだい」


 タッパーを手にやってきた大石家。インターホンを鳴らせば、呼んだのとは違う顔があたしを迎えてくれる。

 ちーのお兄さんは女装家で、ベティって名前で店に立ってたりコミュニティラジオで番組をやってたりする町の有名人。本名は大石千晴っていうから、あたしは昔からハルちゃんって呼んでる。

 ちーとあたし、伏見あずさは幼稚園とかからの付き合いの幼馴染み。当然、ハルちゃんとも。ちーと一緒だったのは高校まで。今はあたしが星ヶ丘、ちーは星大に進んだけど家には普通に遊びに行ってるし、付き合いは続いてる。


「ハルちゃんがいるんだったらお節介だったかな。これ、おかず」

「あら、いつも悪いわね。アタシもこれから出かけるからありがたくいただくわ」

「そう、ならよかった。ところで、ちーは?」

「ソファで寝てるわ」


 言われてリビングのソファを覗き込んでみると、ちーがクマのぬいぐるみを抱いて寝ている。あたしが来てるのにも多分気付いてないような感じ。

 ちーが昔から持ってるクマのぬいぐるみ。茶色くて、ふわふわしてて。スーツみたいな服を着てて。今では小脇に抱える感じだったけど、昔は本当に全身で抱くような感じだったっけ。って言うかちーも体は大きい方だもんね。


「起きないね」

「クマを抱いてる時はそっとしておくのが一番よ。言わないだけで、結構しんどいはずだから」

「やっぱり、溜めこんじゃってるのかな」

「10年もワガママ言わずに頑張ってるんだもの。本人も気付かないところでじわじわ蝕まれてるんだと思うわ。出来るだけ一緒にいるようにはしてたけど、どうしてもね」


 ちーが抱いているぬいぐるみは、お母さんから買ってもらった物。ちーとハルちゃんの両親は10年前に事故で亡くなってしまっている。あたしも良くしてもらっていたし、その話を聞いた時には2人以上にわんわん泣いて。

 それから、親戚の人に引き取られる予定だったのをちーが拒んでハルちゃんとの二人暮らしが始まった。あれから10年。今ではすっかり日常になってしまっているけれど、やっぱり、どこかで。


「……愛情の欠如」

「ええ、そうね。プールだけじゃ発散しきれない物。それを紐解く鍵よ。あずさ、アンタも知ってるでしょう? ちーがガムシャラに泳いでた頃のこと」

「うん。見てらんなかった」

「水だけがちーを受け入れてくれてた時期が、確かにあったのよ」


 全てを受け入れて、自分を抱いてくれるのは水だけ。誰も傷付けまい、誰にも迷惑をかけまいと浮かべる笑顔の影に潜む感情。拳を叩き付けても形を変え、飛沫が上がるだけ。溢れる涙も、行き場のない怒りの咆哮も、みんな水が隠してくれる。

 今では純粋に趣味としてプールに通っているけれど、それでもクマを抱くような時期だとあの頃のような泳ぎ方をしているかもしれない、とはハルちゃんの想像。


「ちーのタイプが年上なのもそういうところが影響してるのかしらねー」

「えっ!? ちーって、えっ、そうなの!?」

「あら、今までに紹介してくれた彼女はみんな年上よ」

「ウソ、聞いてない! 何人!?」

「アタシが知ってるのは2人よ」


 ずっと一緒だったのに! って言うかずっと好きなのに、何であたしはそういうことを知らないの!? 割と何でも話してくれてるんだと思ったけど、彼女の存在は知らなかった~!


「でも、恋愛って言うより母性を求めちゃってフラれるのよ」

「あ、わかる気がする」


 呑気な顔をして寝てるちーの頬を突っついてみる。やわらかい。つん。つんつん。


「うーん……」

「あっ、起きちゃうかな」

「でも、そろそろ起こさないと夜眠れなくなるわ。ちー、起きなさい!」

「うーん……兄さん、まだいたの…? わっ、びっくりした。あずさ、いつの間に来てたの?」

「さっき。ちー、今日夕飯一緒に食べよ」

「いいけど、あ、ダメだ、ボーっとする。クマ、どこ行った?」

「抱えてるじゃん右腕で」

「あ、ホントだ」


 それじゃあ行って来るわねと出かけるハルちゃんを、ちーと2人で見送って。これから始まる夕飯の支度。タッパーのおかずも有効活用。


「ねえ、ちーって年上の人がタイプだったんだ」

「ちょっ、何の話!?」

「今まで付き合った人の話、聞かせてよ」

「あずさにそういう話するの恥ずかしいもん、嫌だよ」

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