ダメ男の日記
まいたけ
第1話
3月最後の月曜日の夜。
ダラダラとベッドに寝転び、ぼんやりとまとめサイトを巡回していると壁のインターホンが鳴った。
やおら起き上がりやかましく鳴り響くチャイムを止めに受話器を上げると、聞き慣れた女の声が『よっ』と挨拶をしたので、俺は「おう」と返して受話器を置いた。
うんと背伸びをして壁掛け時計に目をやると、時刻は午後の10時過ぎ。
もうこんな時間か、と思いながら廊下に続く扉を開け、お腹をポリポリかきながらサンダルを踏んで玄関の扉を開けると、初春の夜風の中に驚いた顔が立っていた。
「おう、おかえり」
俺が早紀の目を見てそう言うと、早紀はうつむいて「ただいま」と一言呟き、おずおずと玄関の中に入って来た。
「遅かったじゃん」と言いながら俺が玄関の鍵を閉めると、突然、早紀が俺の身体にそっと抱きついてきた。
静かな玄関の隅っこで、俺は片足でサンダルを踏んだまま、その身体を抱きしめ返した。
「どうしたの」
そう問いながら撫でた黒髪は、洗いたてのシャンプーの香りがした。
何も応えないだろうな、と思いながらそのまま髪を撫で続ける。
すると、不意に早紀の頭が俺の胸から離れ、目を伏せた顔がためらうように俺にくちびるを寄せて来た。
なので、そのくちびるにちょんとくちびるを当て、早紀の顔を覗き込んでみる。
しかし早紀はずっと俺と目を合わせてくれないので、それを何度か繰り返していると、ついに何かを抗議するように早紀が大きく鼻息をついたので、そんな早紀を愛しく思った俺は改めてくちびるを重ねるなり思い切り早紀の中をかき回した。
すると早紀もそんな俺に負けないくらい、強引に俺の中に押し入ってきて、舌先を熱くかき回し始めた。
寒くて静かな玄関には、熱い水音と二人の吐息だけが響いていた。
早紀との出会いは、いや、再会は2年前の夏のことだった。
高校を卒業してすぐ入社した工具会社を3年半働いたのち突発的に辞めた俺は、とりあえずのつもりでコンビニバイトを始め、しかしなかなか再就職先が決まらないことに焦りながらも日銭を稼ぐためにダラダラとバイトを続けて1年が経とうとしていた頃、早紀と再会を果たしたのだ。
最初その姿を見た時は、単純に好みの顔してる子だな、と思った。
しょっちゅう来ることがわかってからは、その子が来た日は嬉しくなった。
その子が部屋着で来るようになってからは、意外と大きな胸のふくらみに否応なくドキドキしてしまった。
そして俺がお釣りを渡した時、ありがとうございます、と言って微笑んでくれた顔があまりにも可愛くて、その瞬間から俺は完全にその子を意識してしまった。
そんなある日、その子の公共料金の支払いを俺が担当した時に、そこに書いてある名前を見つけて、初めてその子が早紀なのだと発覚した。
『え。もしかして』と聞くと、やはりその子は倉嶋早紀だった。
俺が高校時代に付き合っていた元カノの、当時小学生だった妹なのである。
再会してからは、すぐに仲良くなって、すぐに一晩を明かすことになった。
けれど、そのまま交際を申し込もうとすると、それは早紀の方から断られた。
その頃早紀は高校を卒業したての浪人生で、今は勉強しなきゃいけないから、というのがその理由だった。
なんだ。そういうことならしょうがない。昔、見た時からしっかりしてる印象だったけど、やっぱりしっかりしてるんだな。だけど普通の女の子だから、たんにエッチなことに興味があっただけだったんだな。
そう思って素直に早紀を応援することにして、『でも。…良かったら友達になってください』と言う早紀の提案に大いに頷き、お互い友達同士として自分の生活に戻ることになった。
けれど2ヶ月も経たないうちに早紀はまたウチにやって来て、そのままエッチすることになった。
それからまた1ヶ月も経たないうちに俺ん家に来て、再びすぐさまエッチすることになった。
こんなに可愛くてスタイルもいい子とエッチできるのは嬉しい。けれどこの子、受験の方は大丈夫なのか。
俺は適当な高校に行って、大学受験はしたことがないからその辺の塩梅は全くわからない。だから早紀が『大丈夫だから』と言えば大丈夫なんだろうと思うし、『息抜きも必要だから』と言えば気兼ねなく早紀の身体を隅々までむさぼりまくった。
けれど結局、早紀はその年の受験に失敗してしまった。
そんなに頻繁に会っていたわけではなかったが、それでももしかしたら俺のせいなのでは、という確かな罪悪感を覚えた。
しかし早紀はそんな俺の顔を見て『いや、しゅんちゃんのせいじゃないから』と言って小さく笑った。
俺はその自己嫌悪にまみれた笑顔を見て、今年こそは大人として早紀の受験をきちんと応援しようと誓った。
だが。
だが、そうすることができなかったことが俺の心の弱さである。
早紀が二浪目に突入してからは月に一度くらい外で会ってご飯をおごってあげたのだが、その時見た早紀の身体は、会うたびに艶めかしく、いやらしい形なっていた。
初めて抱いた時よりも明らかに胸のふくらみは大きくなり、おしりは丸々と張り出して指先は長く細くなっている。
早紀自身もその自覚はあるようで、俺が思わずそのふくらみに目を落としてジッと見つめたりしてしまうと、急に無言になって髪を耳にかけ、しれっと谷間を深めたりする早紀の所作にどうしようもなく興奮してしまった。
そして這々の体で一人の自宅に帰ったあとは、早紀のことを思い出して何回も何回も一人でしてしまう日々だった。
しかしそんな日々も長くは続かず、結局、夏期講習が始まったくらいの時期から再び、会うたびにエッチをするようになった。
それは1ヶ月間しなかった時もあった。
けれど1日会えないだけですぐに会いたくなった時もあった。
そして週1回の息抜きという名目で毎週欠かさず会った時もあった。
やはり早紀は今年度の受験にも失敗してしまった。
そして俺も、今年に入った辺りから早紀の雰囲気を見て何となくそうなるような気がしていた。
『ねえ』
『ん?』
『わたしってダメなやつだよね』
2月の終わり、早紀がそんなことを言った日があった。
『なんでだよ』
『だってさ。しゅんちゃんは高校卒業してちゃんと働いてさ。今だってちゃんと働いて生活してるじゃん』
『…』
『わたしはさ。自分でやるって言ったことも全然できないし。…ましてや今年から働いてる自分の姿なんて全然想像つかないし』
早紀には言ってなかったが、実は、俺は今年から無職の生活をしていた。
時給アップのために昨年、2年間働いていたコンビニを辞め、9月から働き始めたホテルマンのバイトを年末いっぱいで辞めてしまったのだ。
年が明けてすぐの頃は、またすぐバイトなんて見つかるだろうと思って余裕ぶっこいていたのだが、せっかく辞めたホテルマンのバイト以上の給料の仕事を選り好みしていたら、面接にことごとく落ちてしまった。そしてそれは今月になっても続いているため、今は就職していた時の貯金を切り崩して生活 をしている。
『…まじで?』
『まじで』
それを正直に話した直後、二人の間に大きな溝ができてしまった気がした。
しかし俺の心の中には確かに、その溝がどんどん拡がることを望んでいる自分がいた。
早紀は言った。
『ダメなやつじゃん』
『…そうだな』
もはや俺からこの関係を終わらせることはできなくなっていた。
こんなにも可愛くてタイプで、素直で優しくてダメでエッチな女の子を自分から手放すなんて到底無理な所業だと自覚していた。
不意に、ふふん、と早紀が笑ったので俺は驚いて振り向いた。
すると早紀はいつか見た自己嫌悪にまみれた笑顔を俺に向けて言った。
『じゃあ一緒じゃん』
『…』
『わたしたち、ダメなやつじゃん』
拡がった溝が急速に埋まっていくような気がした。
しかし本当は、拡がった溝の向こうから早紀が呼びかけてくれているだけなのだと思い直した。
『ねえ』
『うん?』
『今、何考えてるか当ててあげよっか』
『うん』
目を伏せていた早紀はチラリと俺を見るなり、再び目を伏せて言った。
『もう会わない方がいいと思ってるでしょ』
俺は素直な気持ちで早紀のうつむいた前髪を見つめながら応えた。
『そうだな』
それから早紀は、俺に送られることもなく夜明けの町を一人で帰った。
しかしそれから1ヶ月も経っていない昨夜の午後10時過ぎ。『会いたい』と一つ連絡をよこすなり早紀は再び俺の家に来てしまったのである。
この堕落した生活の終止符を、いったいどちらが打つのだろうか。
火曜日の午前4時頃。トイレに起きた俺は暗い部屋の壁にもたれて、寝乱れた早紀の細い足首を見つめながら、ずっとそんなことを考えていた。
閉じたまぶたに眩しさを感じて、大きく息を吐きながら寝返りを打った。
ぼんやりとまぶたを開くと見慣れた白壁。
ベッドに伸ばした左腕には一人分のスペースが空いていた。
そこに寝ていたはずの人影を探して横たわる身体をぐるりと回す。
するとベッドサイドにもたれて携帯を眺めている早紀の横顔がそこにあったので、俺は安心して毛布を抱き寄せた。
「起きたの?」
俺が目をパチパチさせながらそう聞くと、早紀はチラリと俺を見るなり再び携帯に目を落として応えた。
「んー。今さっき」
「あ、そう」
眠気の浅瀬にたゆたいながら、俺は早紀の姿を眺めた。
肩まで伸びた黒髪をバレッタで留めて、真っ白なうなじではほやほやとした産毛が陽光を浴びて煌めいている。
薄く開いたくちびるの上から落ちる視線は真剣そのもので、その長いまつ毛の先にいったい何を見つめているのだろうか。
うなじの上に直接、部屋着の灰色パーカーを着ているようで、甘く開かれたジッパーから覗く胸元の白さは否応なく悩ましい。
そしてそのパーカーの裾から伸びるムチムチと張りつめた太ももは、女の子座りの形に丸く折れ曲り、カーテンの隙間から落ちる細い陽光が横断するふくらはぎや太ももの表面は、しっとりと光を吸収して放出するようにほんのりと輝いていた。
やおら起き上がった俺は、早紀の華奢な背中をやんわりと抱きしめて言った。
「おはよー」
すると早紀は鼻息でちょっと笑って、小さな左手で俺の左腕に触れながら応えた。
「おはよー。…てかもう1時過ぎとるけどね」
「え。そうなん?」
早紀の黒髪に鼻先を埋めると、シャンプーの香りの中に少しだけ汗の匂いが混じっていた。
すると瞬時、昨晩の早紀の乱れた黒髪と眉間にしわ寄せて喘ぐ早紀の喉の白さが脳裏を駆け去り、不意に股間に熱を帯びていくのを感じた。
「そうよ。どんだけ寝るんよって感じよね、わたしら」
ははは、と笑う早紀の左耳にそろりと鼻先を降ろすと、「んー!」と抗議の喉声を出した早紀の頭が俺の鼻先から離れようとしてやんわり傾げた。
「そうやなー。俺たち寝過ぎだよなー」
とヒソヒソ声で応えながら鼻先で早紀の左耳の形を確かめ始めると、早紀は何度も喉声で抗議し、俺の両腕を離そうと左手にやんわり力を込めた。
けれどしばらく鼻先や舌先を使ってその左耳の形に没頭していると、気付けば抗議の喉声は色味を帯びた鼻声に変わっていた。
「ねーえー」
早紀が深く長い呼吸の中から俺を呼びかける声が聞こえた。
「んー?」
「…どーしたとー?」
「んー」と意味のない相槌を打った俺は、そのまま左耳に集中し続けた。
「…またしたくなっちゃったとー?」
「んー」
絶えず左耳を探検していた俺は、左耳だけでは飽き足らず、抱きしめていた右腕を離してその指先で早紀の右耳を探検し始めた。
すると不意に、早紀のくちびるの隙間から低い喉声が飛び出し、それを追いかけるようにさざなみのような吐息が熱く静かに漏れ始めた。
「ねーえーって」
「んー」
「まだお昼だよー」
「んー」
「だめだよー」
「んー」
「んんんー…」
左手で抱きしめた早紀の右肩をやんわりと撫でると、早紀は両手で俺の左腕をしっかりと握りしめてくれた。
その手のひらはまるで俺の腕の表面に吸い付くようにしっとりと滑らかで、俺のあいつはいち早くそれに触れて欲しいと言わんばかりに首を高く伸ばし始めた。
「早紀」
俺がそっと名前を呼ぶと、早紀の身体がビクッと跳ねた。
早紀はそれからたっぷりと時間を置いて、震える吐息の中で「なに?」と聞き返した。
その声色は次の言葉を知っていた。だから俺は安心して早紀を誘った。
「しよっか」
抑えるように上下していた早紀の胸が大きく上下し始めた。
噛み殺すために震えていた早紀の呼吸が荒く深く乱れてきた。
抱きしめる左腕を握った早紀の両手に強く力がこもり始めた。
瞬時、早紀の真っ赤な頬と潤んだ瞳を見たかと思うと次の瞬間には細腕で頭を抱き寄せられ、俺は滴る水音の世界に溺れ落ちていた。
肩で息をしながらベッドから起き上がった俺は、カーテンの隙間から滲む群青だけを頼りに早紀のおへそに散らばった4回目の情熱をティッシュで拭き取った。
そしてそれを一つにまとめてフローリングに捨てるなり、ドサリとベッドに倒れ込んだ。
室内はすでに電気が必要なほど暗くなっていた。
いったい今は何時だろう。けれど壁掛け時計に目をやるのも億劫なほど息は乱れ、視界はクラクラと歪んでいた。
なので、ふとまぶたを閉じて呼吸を整えることに専念した。
しばしまぶたの中の世界を見ていると、室内を充たす規則的な呼吸の中に、早紀の息遣いを感じた。
するとそれだけで、またもや全身の血液がお腹の下に集まっていくのを感じた。
だけどさすがにまた襲うのは野蛮過ぎる。深く長く伸びていく呼吸の中から現れた理性が俺にそう呼びかけた気がした。
なので俺は左手で早紀の右手を探して、それを早紀のお腹の上に見つけるなり二人の腰の間でキュッと握りしめた。
すると早紀の呼吸がふふっ、と笑って、その右手は俺の左手に指を絡めてキュッと握り返してくれた。
早紀は言った。
「ヤバいね」
「うん?」
「もう夜だよ」
「そうだな」
「ははは、今日エッチしかしてないじゃん」
「そうだな」
ふーう、と大きな息を吐いた早紀は身体を横向けて俺の左肩に顔を寄せ、左腕を俺の胸の上に置いた。
「今日、ご飯も食べとらんやん」
「起きてすぐ始めたもんな」
「そうだよ。起きたと思ったらすぐしゅんちゃんが襲って来るんやもん」
「はあ?違うやろ。強引にキスしてきたのは早紀の方やろ」
「はあー?違うし。それはしゅんちゃんがわたしにエッチなことしてきたけんやろー!」
「いやいやそれは、起きたら早紀が俺のそばにおったけんやろ」
「はあ?なんなんそれー!意味わからんし!」
ふん、と鼻を鳴らした早紀はそれから何も言わなくなった。
けれど、ほどなくすると俺の左肩に顔を埋めてきた早紀は、俺の胸に乗せた左手を上下して俺の身体のあちらこちらを触り始めた。
そして不意に、その細い手首が俺の屹立した股間に引っかかると、その形や硬さを確かめるのように手のひらで揉み込んだりグッと握ったりを始めた。
「ねー」
「んー」
「まだし足りんとー?」
「んー。…そういう聞き方されたら多分、永遠にし足りんわ」
「なんなんそれ」
早紀にやんわりと急所を預けている心地良さに浸っていると、早紀はボソリと言葉を続けた。
「…じゃあ石川さんにしてもらったらー」
「…。え、何で急にそいつの名前が出て来ると?」
「別にー」
心なしか股間を包む早紀の手のひらが乱暴になった気がした。
俺は言った。
「早紀こそさー。隼人君とまだ続いとるんやろー」
「んふふふふ、懐かしい名前出すねー」
「そうやろー」
「んー」と相槌を打つなり、早紀の手のひらが俺のあいつから離れてしまった。
なので何だか寂しい気持ちになった俺は、今度は逆に俺が早紀のあそこを触ってあげようと思い、やんわりと早紀の方に身体を倒して右手を早紀の太ももの間に持って行った。
すると先にそこに居た早紀の左手にコツンと右手がぶつかった。
びっくりした俺はそのまま聞いた。
「え。触っとったと?」
「んー、まあ。…いや、まだ濡れてるかなと思って」
そう言うと早紀は、再び左手を俺の身体の上に乗せた。
俺は聞いた。
「濡れとった?」
「さあ。どーやろ」
先客が居なくなったので俺は、それじゃ失礼して早紀の太ももの間に右手で触れた。
すると驚くほど何の抵抗もなく俺の中指はぬるりと早紀の中に吸い込まれていった。
「びちゃびちゃやん」
「そやろ」
そう応えた早紀の息が俺の口元にかかったと思うと、早紀はそのまま俺のくちびるに一つくちづけた。
そして、中指をゆるりと屈伸させる俺に蕩けた顔を見せつけるように俺の瞳を見つめた早紀は、さり気なく左手を下ろして今度はとびきりいやらしい手つきで俺のあいつを包み込んだ。
俺は早紀の半開きの瞳と紅く染まった顔に魅せられながら尋ねた。
「したくなったと?」
すると早紀は素直に応えた。
「うん。したくなった」
顔にかかる熱い吐息はじっとりと湿り、そして慣れ親しんだ甘い香りがした。
「そんなに俺がいいと?」
鼻先と鼻先が触れ合うと、早紀の吐息しか聞こえなくなった。
「しゅんちゃんも、わたしじゃないとイヤやろ?」
くちびるの先っぽが触れ合った。
俺は「当たり前だろ」という気持ちを込めて、早紀の中に入っていった。
すると早紀も俺を押し返すように、俺の中に入って来た。
たまらずその身体を全力で抱きしめると、ずっと繋がれていた左の手のひらが汗に湿ってひんやりと心地良かった。
「わたしね」
暖房の送風音だけが静かに聞こえる暗闇の室内で、左隣に寝転んだ早紀がポツリと口を開いた。
「明日、パパのところに行くんだ」
部屋に差す明かりは窓外の街灯だけで、その心許ない薄明かりが室内の輪郭を不安定に映し出している。
「どうして?」
「先月あたりから言われてたの」
窓の外遠くで電車が走る音が聞こえた。その音が止むと早紀は再び言葉を紡ぎ始めた。
「4月からどうするつもりなの?って。また受験するの?それともしないの?って」
早紀がふー、と大きな息をついたのでチラリと見やると、早紀は左腕をおでこに乗せて眠たそうな瞳で天井を眺めていた。
「どうしたらいいと思う?」
早紀が俺に相談する時はいつもすでに心が決まっている。俺が何て応えても結果は同じだから気負いなく言葉を返した。
「ふふん、俺が決めていいの?」
「…うん。決めて。わたし全部しゅんちゃんの言う通りにするから」
予想外の返答に驚いた俺は「えっ」と口に出すなり身体を返して仰向けの早紀を見つめた。
すると早紀は力なく口だけで笑って、俺を見つめた瞳を左腕の中に隠してしまった。
「どうしたんだよ」
細腕に隠しきれない口元が泣き顔に変わって言った。
「ほんとにどうしたらいいのかわからないの。2年もみんなから出遅れて今から働き始めるなんて想像もつかないし。だからって、また1年間勉強する毎日を送れるかも自信ないし。それにもし来年大学に受かったとしてもそれはもうわたしが望んでた学生生活じゃないし。じゃあ今から働け、って言われたって一体どこで何して働けばいいわけ?」
思わずその震える身体を抱きしめたくなった。
けれど今はそうすべきではない気がして、黙って早紀の言葉を待った。
「パパにはさ『何かやりたいこととか夢とかないのか』って聞かれるの。だけど、わたし特にやりたいこととか夢とかないの。普通にそれなりの大学に行って普通にそれなりの会社に就職するものだと思ってたの」
かつて見た、小学生だった頃の早紀の姿が脳裏に映った。
問題児だった二人の姉たちと違って両親の期待を一身に背負ってー特にあそこの家はママが飛び切り早紀に期待をかけてたからーそんな期待を一身に背負って勉学に励む真面目なメガネのおさげの優等生だった。
目の前の早紀は、瞳を隠した左腕で何度も何度もこめかみを伝う涙を拭った。
そして一つ、呼吸を落ち着けると力なく言葉を続けた。
「…それに今さら夢だ何だって言ったって、そういう『夢』とか持ってる人たちって小さい頃からそのために努力してるじゃん。何を今さらこの歳になって…『夢』って」
ははは、と笑った早紀は「アホくさ」と続けて喉の奥でひたすら笑った。
しかしその笑いも収まると、ゆらりと左腕を顔から剥がして泣き濡れた瞳で俺の瞳を見つめた。
そして言った。
「ねーえ、キスして」
早紀は両手を開いて俺のくちづけを待った。
けれど俺が一向に動かないので、両手でぐいぐいと俺の頭を抑え込んで来た。
けれど俺は、初めて早紀とのくちづけを断った。
「ダメだ」
「…なんで」
「わからないけど。今、キスしたら絶対ダメな気がする」
自分でもよくわからない意思を、それでも早紀に伝えようと俺は早紀の瞳を力いっぱい見つめた。
すると早紀はしばし俺と見つめ合ったのち、ふん、と冷笑して目を逸らし、「最悪」と言うなり背中を向けて黙り込んでしまった。
窓の外で何本も電車が行き交った。
その間、俺は仰向けになって早紀を慰めるための上手い文句を延々と考えた。
けれど、どれもすべて嘘臭くて、だからしょうがなく素直に気になっていたことを尋ねた。
「なあ」
「…」
「なあ!」
「…」
「なあって!」
「なによ!」
俺は身体を早紀の方に向け、その後ろ頭を見ながら話した。
「なんで現役の時、せっかく受かってた大学、行かなかったの?」
「…」
「早稲応とか慶田とかって、大学受験したことない俺だって知ってるくらい有名な大学じゃん。なんでそこじゃダメだったの?」
「…」
「どうして某大じゃなきゃダメだったの?」
「…」
「…」
「…」
「浪人してまで目指してる大学って、本当に早紀自身が行きたかった大学なの?」
「うっさいなあ!!」
ぐるりとこちらを向いた早紀は今まで見たことないくらいの剣幕で俺を睨みつけて言った。
「じゃあ何?今まで浪人してきた2年間って何だったわけ?わざわざ受かってた大学蹴ってまで選んだ浪人って何だったわけ?当たり前じゃん!行きたかった大学だよ!『わたしが』行きたかった大学だよ!」
「『ママが』じゃなくて?」
カッと見開かれた早紀の瞳が俺の瞳を突き刺した。
そして噛み締めたくちびるをぷるぷるとわななかせた早紀は、耐え切れないように視線を逸らすと目を閉じて、はあ、と低い溜息を吐くなりフラリとベッドに横たわり、また背中を向けてしまった。
なので、俺もとりあえず横になって早紀の頭とか撫でた方がいいのか、それともやはりそっとしておいた方がいいのか、などと考えあぐねていると、聞こえるか聞こえないかくらいの声で早紀が口を開いた。
「あっち行って」
「…え?」
「あっち行って!」
「…。…え、いや、だって」
「あっち行って!!」
なめらかで華奢な背中に鬼の形相を見た気がした俺はとりあえずベッドから降りた。
そして暗闇のカーペットの上に散らばる着衣の中から俺のパンツを拾い上げて履き、そのままカーペットの上にあぐらをかいて早紀の背中を見つめ、ひとまず散らばるティッシュの玉を集めてゴミ箱の中に入れた。
けれど一体こいつら何回したんだというほどにゴミ箱から盛り上がったティッシュの山が何かしら前衛的な趣きのあるオブジェを形成していたので、それを早紀に報告して笑い合いたい衝動に駆られたが、さらに早紀の機嫌を損ねることを恐れた俺は、そのまま無言で体操座りをして、そのひざの上に頬を乗せて目を閉じ休んだ。
すると、ほどなくして早紀の低い声が俺に呼びかけた。
「いいよ」
「ん?」
「こっち来ていいよ」
うとうとしていた俺は立ち上がるのが面倒だったが早紀に呼ばれるままに、早紀の隣に寝転んだ。
ぼんやりとたゆたう眠りの浅瀬の中で、自分が会社を辞めた時の気持ちを思い出した。
そう言えば俺が会社を辞めた理由って、自分のやりたいことが何もわからなくなったからだった。
とにかくウチの実家は貧乏だったから、両親も祖父母もそうして来たようにいち早くお金を稼ぐために高校卒業するなり働き始めて、それが当然であるはずだったのに、俺がゆとりの子供だったせいでうっかり『やりたいこと』とか『夢』とかを就職した後になって考え始めてしまって。
すると『やりたいこと』が一切わからない自分に気が付いて。
『やりたいこと』がわからないと『好きなもの』にも自信がなくなってきて。
今まで好物だったはずのハンバーグの味がしなくなってきて。
何を食べても美味しさを感じないどころか吐気を催すようになってきて。
そんな生活が一年くらい続いたある日、突発的に会社を辞めて実家から家出同然に飛び出して来たんだった。
けれどそれからフリーターでの生活は経済的に苦しくて、結局、『やりたいこと』とか『夢』とか見つける以前に生活のことで頭はいっぱいいっぱいで。
「早紀」
何も応えないことはわかっている背中に向かって俺は喋り続けた。
「もしもさ。本当は『夢』とか持ってるならこの際、全力でやった方がいいよ。でさ、もしも『やりたいこと』どころか『好きなもの』すらわからなくなってるならさ、まずはそれを見つけた方がいいよ。真面目な早紀はきっと気持ちが急くだろうけどさ、ここに俺というゆとり世代のダメ人間の典型が一人いるわけだから、少なくとも俺より先にダメじゃなくなればいいだけの話であって。そんな根詰めて考えない方が早紀にはいいと思うんだ。早紀は同世代の子たちから引け目を感じてるかもしれないけどさ、少なくとも俺は間違いなく早紀をずっと応援してるからさ。だから明日パパと会って今後の方針を決める時も、誰かのために人生を決めるんじゃなくて、自分のために人生を選んだ方がきっといいと思うんだ。俺はずっと早紀の『やりたいこと』や『夢』を応援してるからさ。俺はずっと早紀の味方だからさ。そうした方がいいと思うんだ」
途中から自分が何を言いたいのか、またわからなくなってしまった。
けれど何故だか心は穏やかに凪いでいた。
だから俺はそのまま、いつの間にか深い眠りについていたのだった。
翌日、水曜日の夜。
俺はキッチンで鍋の中身をかき混ぜながらぐるぐると自己嫌悪に陥っていた。
それはもちろん昨晩のことについてである。
何を偉そうにアドバイスしてんだ俺は。
『夢』があるならそれに向かった方がいいし、『やりたいこと』がわからないならそれを探した方がいい、とか自分が一番できてないことを何を説教みたいに抜け抜けと語ってんだ俺は。
もちろんそれは早紀への心配に起因した自分の本心であることは間違いないが、それでも語ってる最中から若干、語ってる自分に陶酔してる自分が確かにいた。
あーもー、気色悪い。最悪だ。
鍋の縁の焦げ付きを刮ぎながらぐるぐる、ぐるぐると鍋の中身をかき混ぜる。
そもそも俺は人様の心配をしてるヒマなんてないじゃないか。
来月カツカツで生活しても再来月には預金残高が底を尽きることは明白なのに、何をのんびりと無職生活に浸りながら偉そうに年下にアドバイスしてるんだ。
何の説得力もなければ何の信頼性もないのにそれに自己陶酔してる自分とか、脳味噌に虫わいてんじゃないのか俺。
注ぎ足しのコンソメスープを鍋の中に投入して少し火力を上げ、馴染んできたところで再びコンロの火力を下げた。
それに昨日の一件で、早紀と一緒にいる時間だけ現実逃避をしてる自分に気付いてしまった気がした。
早紀と身体を重ねてる時間はやはりとんでもなく心地良い時間だった。
俺は本来そんなことしてるヒマはないのに。
いくら現実逃避し続けてても、生きてるだけで貯金は減る一方なのに。
そう、生きてるだけで。
静かに煮えたぎる鍋の音を聞きながら、俺は何気なく視界に入ったシンクの包丁を眺め、そして鼻先で小さく笑って、はあと溜息をついた。
何でもいいから仕事始めなきゃ。取りあえず生きとかないと『やりたいこと』も見つからないだろ。昨日、早紀にあれだけ偉そうに語っといて何をさっさとこの世からおいとましようとしてんだ俺は。
だけど3ヶ月も仕事してなかったことなんて今までなかった。
それにあんだけ面接に落ちまくってて、果たしてこの世に俺のような者を必要としてくれる誰かは存在するのだろうか。
ふふふふ、と自嘲しながら再び、はあ、と溜息をついて鍋の中身をかき混ぜていると、不意に壁のインターホンがやかましく鳴り響いた。
びっくりして壁掛け時計を見ると時刻は午後10過ぎ。
宅配なら遅過ぎるし、お隣さんと仲良いわけでもないし、もしも早紀なら事前に一本連絡よこすし。
不審に思ってチャイムが収まるのを待つも、それは一向に止む気配を見せないので恐る恐る受話器を上げて耳に当てた。
すると聞き慣れた女の声が『よっ』と俺に挨拶をしてきたので、俺は驚きながらも習慣的動作で『おう』と返して受話器を置いて玄関に向かった。
そして片足でサンダルを踏んで鍵を回し玄関の扉を開けると、初春の夜風の中に笑顔の早紀が立っていた。
「ただいまー!」と言うなりズカズカと玄関の中に入って来たその女は「えっ!なにっ?めっちゃいい匂いするんやけど!」と言いながら俺の脇をすり抜け、当たり前のようにクローゼットの前でコートを脱ぎ始めた。
「え?なに?どうしたと?急に」と戸惑い、「え。ていうかパパとの話し合いはどうやったと?」と懸念を問う俺に、やけに晴れやかな顔をした早紀は滔々と語り始めた。
「あ。あのね、わたし、とりあえず4月からまた予備校行くのはやめにすることにした。確かによくよく考えてみたらわたし本当にその大学に行きたいわけじゃなかったし、ママはともかくパパは何となくそれに気付いてたみたいだったから意外とするっと納得してくれて」
部屋の真ん中のローテーブルの前に座った早紀が、対面に俺を座るように促したので、コンロの火を消した俺は促されるまま座って聞いた。
「え。じゃあ4月からどうするの?就職するの?」
「ううん!わかんない!」
「は?」
「わかんないけど、取りあえず今からは自分の『やりたいこと』を探していこうと思ってる!」
その言葉の意味を理解するなり、たちまち胃の中に冷たい不安がポトリと落ちた。
「…え。それってもしかして昨日、俺が…」
「そうだけど、別にしゅんちゃんの言いなりになってそう決めたわけじゃないよ?しゅんちゃんの話を聞いて、わたしの中で変にガチッと納得したからそう決めたの!」
胃に落ちた不安感は行き場を求めて全身をぐるぐると駆け巡った。
「あ。でも心配しないで?とりあえず自分の心に聞いて見つけた『やりたいこと』の中には『色んなアルバイトしてみたい』ってのも含まれてるから!とりあえず働きはするから!」
うわー…と引く気持ちが自分の顔に出ていることに気付いていたが、俺はそれを隠さずに早紀の話の続きを聞いた。
「まあ、ほら、わたしもう現役じゃないし、今さら超一流企業とかには就職できないわけじゃん?ならもう『やりたい』仕事をとりあえず全部やってみようと思ってさ!」
「…。そうなんだ…」
「うん!だからしゅんちゃんもさっさと働き始めてね?」
「…あ、うん、まあ…」
「ひとまずパパからもらった『やりたいこと』を探す猶予期間は1年!その間は今まで通り家賃とか払ってくれるんだって!いやほんと甘やかしてくれるパパもパパだけど、わたしもほんとダメな娘で申し訳ないね、ははは!」
「…」
「ねー、そんな顔せんでよー。だからとりあえずこれからもよろしくね!って挨拶を今日はしに来たんですけどー」
早紀は、怒ってますよアピールの表情を顔面に貼り付けてジーッと俺を見つめた。
悲しいことにその顔はやはりあまりにもタイプで可愛かった。
俺は言った。
「…まあ。早紀がそうしたいと思える方向性を見つけられたんやったら良かったんやない?」
「ねー、なんなん?そのデキる先輩っぽい感じー。昨日から思いよったけど、そういうのまじキモいけん?しゅんちゃんはわたしと同じでダメなやつやろ?そういうの似合わんけん二度とせんでまじで」
「はあ」
「それにわたしの『やりたいこと』の中には『しゅんちゃんと一緒におりたい』ってのも発見したけん、今まで通り一緒におってよね」
「…。え、何かイヤなんやけど」
「なんでよ!『やりたいこと』やった方がいいって言ったのしゅんちゃんやろ!」
早紀は言うなり「はい」と続けてテーブルの上に両手のひらを差し出した。
お手手繋いで仲良くしよう、と早紀の瞳が俺を見つめている。
果たして俺はこの手のひらを握り返して良いのだろうか。
それは未来の見えない関係性の続きどころか、破滅への入り口なのではなかろうか。
けれど俺はその細っそりと美しい手のひらを握らずにはいられなかった。
手を握った瞬間から後悔が始まったが、チラリと見上げた早紀の瞳が満面の笑顔に輝いていたので、全力で破滅に向かって走って行ってもいいような気がしてきた。
「…とりあえずメシ食うか」
「賛成!ていうかさっきからずっと気になっとったんよね!何作ったと?」
「ビーフシチュー。肉がめっちゃ安かったんよ」
「まじ?ていうかしゅんちゃん、料理できるんやね」
「は?知らんかったと?」
「知らんし!だっていっつもエッチしかせんやん」
「そうやな。エッチしたくなった時しか早紀はウチに来んもんな」
「はあ?違うし!しゅんちゃんが何よりも先にエッチなことしてくるけん、そうなるんやろ?!」
けれどせっかくなら、この手を離さず明るい未来に進んで行きたいと思った。
何だか初めて『やりたいこと』を見つけた気がした。
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