春風の抱擁

ごんべい

春風の抱擁


 どこかの街で桜が散っていくのをただ、眺めていた。

 この場所から桜を眺めていれば、また君が隣で笑いかけてくれるような気がしたけど、やっぱりそれは錯覚だった。

「お隣、いいですか」 

 不意に1人の女性が、僕の隣にやってきた。

 セミロングの黒い髪の毛と、フレームのない眼鏡をかけた彼女はまだ学生ぐらいのようだった。

 制服を着ていれば間違いなく学生だと思えたけど、彼女のどこか物憂げな表情は疲れきった大人の顔とも思える。

 子どもとも、大人とも言えない曖昧な時期。誰しもそういった時期を経験して、成長して、衰えて、死んでいく。

「今日は桜が綺麗ですね」

 他愛のない会話。きっと初対面の人間との距離感なんてそんなものだろう。バッグひとつぶんぐらい空いているぐらいで丁度いい。

 彼女はどうして、僕に話しかけてきたのだろう。髪はぼさぼさ、髭は伸ばしっぱなし、食べ物もろくに食べないから痩せていて、生気のない暗い眼。

 とてもじゃないけど視界にいれたくなるような人間じゃない。


「私と、同じ表情かおをしていたから」

 まさか。

 彼女のような綺麗な人間と同じ表情かおをしているなんて、ありえない。僕は世の中に辟易してしまって、もうじき動かなくなる腐った人間だ。

 僕はもう、死体になった肉の塊だ。


「独り言を聞いてもらってもいいですか」

 ぽつり、と彼女が呟いた。

「私、もうじき死ぬんです。もう、治らない病気なんですって」

 死んでしまった大切な人と、彼女の姿が重なってしまった。聞けば、病気の名前もそっくりだ。最近流行りの、不治の病。

「こんなに早く自分が死ぬなんて思ってなかったんです。死ぬ、ってことはもっと遠い場所の出来事で、まさか自分に関係があるなんて思ってなかった」

 僕だってそうだった。ある日、当たり前のようにおしゃべりしていた大切な人間が死ぬなんて、思うわけがない。

 それは、考えられない喪失感だった。その欠落を埋められるものなど何もない。僕に空いてしまったこの孔は、きっと一生僕の痛みとして残るんだろう。

 呼吸をするのも苦痛なほど、あまりに痛い。


「私、何もしたいことがないんです。死の間際なのに、何もしたいことが思いつかないんです。こんなに追い詰められているのに、何も、何も……」

 彼女の頬を涙が伝った。綺麗な雫だった。思わず見惚れるほど。

 僕だって、何かがしたくて生きていたわけじゃない。ただ、だらしない僕に寄り添ってくれた女性ひとがいたから、生きていただけだ。

 生きていたい、なんて思わない。だって、それが当たり前だから。本当は、簡単に失ってしまうものなのだけど。そんなこと、もっと早くに気づくべきだった。

「だから私、せめて死に場所ぐらい自分で選ぶことにしたんです」

 そうか、君も僕と同じようになるのか。それは、あまりにもったいない気がする。だって、君は僕と違って、こんなにも精一杯生きようとしているんだから。

「でも、怖くて、怖くて、死ぬこともできないんです。笑ってください。臆病な人間だと」

 気づくと、僕は震える彼女の手を握っていた。きっと、今彼女に寄り添ってあげられるのは僕だけな気がしたから。僕の大切な人がしてくれたように、僕は彼女に寄り添おうと思った。

「誰かの手って、こんなにも暖かいんですね……」

 桜の花びらが、春の暖かい風に乗って散っていく。僕に空いてしまった孔はもう一生消えることはないのだろうけど、その空白を流れる風は、少しだけ僕の傷を癒やしてくれたような気がした。

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春風の抱擁 ごんべい @gonnbei

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