第十章 『夢であれば』

第十章 その一

 なんだ?ここはどこだ?

 わからない。でもわかる。

 以前もこんな経験をしたことがあった。あの時は・・・確か、大学四年生の時だ。海外旅行中のことだ。原因不明の高熱に冒され死にかけたときだ。今思い出しても不思議な体験だった。そして今は・・・きっとこれもあの時と同じだ。



 目が覚めた。

 予想通りの見知らぬ天井。起き上がろうとするがほとんど体が動かない。目だけを動かし今の状況を確認しようとする。わかることは全身にある激痛。そして、いくつか足りない感覚。そして見知らぬ顔。いや、知っている顔?ずっと前から知っているような・・・


「あ、和樹先輩っ、気が付いたんですね?マズい、お医者さんを呼ばないと・・・」


 俺のことを知っている様子の女性がいる。


「もう、少し落ち着きなよ、麻衣。それにしても、あんたがお見舞いに来たら目覚めるなんて、なに?これ?運命ってやつ?」


 誰だ。もう一人女性がいる。こっちの女性は知らないぞ。


「運命だなんて・・・たまたまだよ、梓。」


 あずさ・・・やっぱり知らないな。


「ゴホンッ、お二人ともそんな話をしている場合でしょうか?」


 このスカした感じの男も知らないな。誰なんだ?


「そうだった、お医者さんを呼ばなきゃだった。」


 麻衣と呼ばれた女性は病室から走って出ていく。


「あ、麻衣・・・これ押したら良かったのに・・・」


 梓が冷静にナースコールのボタンを押す。


「お嬢様・・・麻衣様は気が動転しているのです。気が付かなくても当然です。」


 あまりに冷静に話すこの男。何者なんだろう。


「・・・お・・」


 声を出そうとするがうまく出せない。どうやら相当重症らしいな・・・


「柴田さん?どうされました?」


 スピーカーからナースの声が聞こえる。


「あ、看護師さんですか?柴田さんの目が覚めましたので、来ていただきたく連絡をいたしました。」


 相変わらずの口調で男が答える。


「あ、はい、あ、ありがとうございます。すぐに伺わせていただきますですので、少々お待ちくださいますでしょうか。」


 コールの担当をした看護師も相当驚いたようで、おかしな口調になっている。その時、無理やりに看護師を引っ張って麻衣が戻ってきた。


「連れてきたよっ。」


 梓と男は二人で溜息をついた。



 目が覚めてから一か月。俺はまだ入院していた。


「和樹先輩、大丈夫ですか?」


 麻衣は毎日のように俺に会いに来る。彼女は俺の大学での後輩ということだったが、実際はどういった関係の女性なんだろう。

 俺の現在の状態は、医者の診断からすると外傷性の健忘症、いわゆる記憶喪失というものらしい。俺が失った記憶は、事故に巻き込まれる以前のほとんどすべての記憶。だから、麻衣という女性が何者なのか全くわからない。

 ただ、自分の名前は憶えている。柴田和樹。これが俺の名前だ。ただ、もう一つ覚えている名前が高梨和樹。どういうことかわからないが和樹という名前が共通している。

 でも、よく考えると事故の時の記憶もない。医者が言うには思いださない方が良いほどの大参事らしいのだが、自分が巻き込まれた事故のことくらい知っておきたいと思う。それで、毎日見舞いに来る麻衣に聞いたことがある。


「和樹先輩、どうしても知りたいんですか?」


 そう聞いてきた彼女の悲痛な表情に気圧されてその時は聞けなかった。まぁ、左腕が無くなっているわけだから相当な事故だったことは容易に想像がつく。俺の精神が崩壊していないのも記憶がないためかもしれない。『一種の防衛本能のようなものかもしれない』と医者は言っていた。

 つまり、あの事故で僕は自らの精神が崩壊してしまうかもしれないような出来事に遭遇しているということだ。そして、その内容というのは薄々ではあるが気が付いてきている。恐らくは俺の両親のことなんだろう。入院してから一月。ただの一度も病院に現れない。連絡もない。つまりはそう言うことなんだろう。俺は両親とともに事故にあい、両親を失い、左腕を失った。

 記憶も身寄りもない俺はどうしたらよいのだろう。麻衣の話だと大学院の二年生だったという話だが、就活はどうなってるんだろうか。そもそも、左腕が無くなった時点で通常の就職など無理な話か。研究室の奴らは一人も来ないけど、人間関係はどうだったんだろう。いろいろな疑問が湧き上がる。


 そんな時だった。彼女が俺のもとを訪ねてきたのは。


「高梨和樹さんですよね。私の事、覚えていませんか?」


 記憶喪失の俺に対して『覚えていないか』と尋ねられても困る。


「ごめん、何も覚えていないんだ。それに俺は柴田和樹だけ・・・高梨和樹っていうのは?」


 女性に尋ねる。その女性はとても淑やかな感じの女性だった。なんと言ったらいいのだろう。全てを包み込んでくれる優しさを持った女性とでも表現したらいいのだろうか。黒くて長い髪に、健康的な肌色に化粧っ気がなく美しい顔。飾らない服装。こんな女性と一度でもあったことがあるなら忘れないはずなのに。


「あなたの・・・名前です。」


「俺の?柴田じゃなくて?」


「はい・・・」


 どういうことだろう?柴田じゃなく高梨というのが本名なのか?」


「あ、それよりも悪いんだけどさ。君の名前を教えてくれないかな?本当に何も覚えていないんだ。」


「高階亜衣と言います。自己紹介が遅くなってごめんなさい。もしかして、何かを覚えていてくれるかと思ったんですけど・・・」


 高階・・・タカシナ?そう言えば麻衣の苗字もタカシナじゃなかったか?


「なぁ、タカシナってどういう字を書くんだ?」


 女性の肩をガシッと掴み詰め寄る。


「えっと、高低の『高』に階段の『階』で高階です。」


 女性は肩を掴まれたことに驚きもせず、笑顔で答える。


「高階・・・そうか・・・」


「どうしたんですか?」


「いや、最近毎日見舞いに来てくれる女性がいるんだけどね、その女性もタカシナっていうんだ。それで、二人には何か関係があるのかと思ってね。」


「そうなんですか・・・もしかして、高科麻衣さんじゃないですか?」


 驚いた。どうしてこの女性が彼女のことを知っているんだろう。やっぱり、何かの関係があるのか?


「先ほど廊下でお会いしましたので。その時に名前をお聞きしたんです。」


 笑顔で話しかける。なんという安心できる笑顔なんだろう。


「あ、ごめん、なんだか話の腰を折ってしまって。それで・・・申し訳ないんだけど、俺と君の関係は・・・なんなのかな?」


 俺かそう尋ねると、亜衣は少し悲しげな表情で答えた。


「あなたと私は、同じ児童養護施設で育ったんです。」


「児童養護施設?」


「そうです。わたしもあなたも両親がわからないんです。」


 少しだけ驚いたが、納得でもあった。二つの名の記憶。それはここにつながっていたんだ。自分の過去が少しわかったことが嬉しかった。


「君も・・・?」


「はい。わたしはあなたの三つ年下なんです。いつもお兄ちゃんって呼んでいました。」


 そう言って亜衣は微笑む。


「そうだったんだ。覚えていなくてごめん。三つ下と言うと・・・」


「いえ、いいんです。えぇ、十九歳です。あの事故の後ずっと気になっていたんです。生存者の名前で柴田和樹と報道されたときから。もしかして、和樹お兄ちゃんなんじゃないかって。」


 報道?そうか。記憶にはないけど相当大きな事故だったんだな。


「でも、苗字が違うんじゃ・・・どうしてわかったんだい?」


 ふっと思い浮かんだ疑問をそのままぶつける。


「お兄ちゃんが柴田さんのおうちに引き取られたことは知っていたから・・・もしかしたらって思って。それで施設の園長さんに聞いて、いろいろ調べて、やっとここまでたどり着いたんです。」


「そか・・・心配かけて悪かったね。記憶がないから君のことを思い出せないのが辛いけど、わざわざ来てくれてありがとう。」


「いいんです。お兄ちゃんが生きていたっていうだけで嬉しいから・・・また、会いに来てもいいですか?」


 今まで抑えていた感情があふれてしまったのだろうか。亜衣が涙ながらに訴える。


「うん、また来てよ。そして、昔のことを教えてくれないかな。俺からも頼むよ。」


 そう言って右手を差し出す。彼女もおずおずと右手を出して、俺の手を掴む。


「え?」


 そう声を上げたのは亜衣だった。


「どうしたの?」


「そんな・・・そう・・だったのね。」


「?」


 俺は意味が分からず手を握ったまま何かを納得している亜衣から目が離せなかった。


「ううん、なんでもないよ、お兄ちゃん。ごめんね。ちょっと久しぶりだったからびっくりしただけ。」


「そうなのか?」


「うん。」


 久しぶりの再会を果たした二人のことをじっと見つめているモノがいた。


「麻衣、見ているかい?僕たちの邪魔をする人間が現れたみたいだよ・・」


 そう独り言をつぶやいて闇に姿を消した。まぎれもなく巴であったのだが、その姿に気が付いたものは誰もいなかった。

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