友の声

※この番外編には、本編の致命的なネタバレが含まれています。本編を読了した方のみご覧ください。

 

 

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 時すらも凍りついてしまいそうな、冷たくて深い闇の中、小さな灯りが机の上をまるく照らしている。

 彼、は、その机に向かって座っていた。天板に落ちる光の円の中に頬杖をついて、しばし何事か思案するように鳶色の瞳を揺らし、それからおもむろに身を起こした。

 椅子の軋む音が、周囲の闇に吸い込まれていく。

「さて、君は一体何に対して疑問を感じているのかな……?」

 彼は、悪戯っぽい笑みを浮かべて宙に問うた。口元や目元に刻まれた皺を見るに、五十歳は下らないだろうが、その表情と光を映さぬ漆黒の髪のせいで、実際よりも幾分か若い印象を受ける。

「もしかして、ぼくがこうやってわざわざ声を出していることを、不思議に思っているのかい?」

 両腕をいっぱいに伸ばせば指の先が闇に溶けてしまうほどの、小さな、小さな、独りきりの世界で、彼は、誰にともなく問いを重ねる。

「じっと独りで黙っていると、なんだか声の出し方を忘れてしまいそうに思ってね。声帯も筋肉でできているから、使わないと劣化もするし」

 そう言って彼は、「あー、えー」とおのれの音吐を確かめるかのように声を上げた。そして、わざとらしい咳払いを一つ。何やら照れくさそうに笑みを浮かべる。

「それにね、ぼくは君と、ぼくとは別個の存在として付き合いたいんだ」

 彼は手元に視線を落とすと、そっと自分の胸に手を当てた。

「ぼくがこうやって声に出して君に言葉を届けることで、君とぼくの間に、……なんて言ったらいいんだろう、そうだな、境界、みたいなものを意識できないかなと思ってね……」

 目を伏せたまま、彼は独り訥々と言葉を吐き出していく。

「ぼく達人類に比べて、君達はとても自由で、可能性に富んでいて、ぼく達が機械や道具を使わなければ成し得ないことや、そもそもぼく達には不可能なことも、いともたやすく行うことができる。ぼくはそのことを、心から素晴らしいと思っているし、敬服している」

 彼はそこで胸一杯に息を吸い込んで、静かに顔を上げた。

「でも、ぼくは、ただ盲目的に君を『神よ』と崇めて、君に縋るようにして生きたくはない。君のちからが、ぼくのものであると勘違いして思い上がりたくもない」

 一拍おいて、眉を小さく跳ね上げて、彼は「ええとね」と言葉を継いだ。

「要するに、ぼくは、君と『友達』になりたいんだ」

 ふふ、と、また、照れくさそうに彼が笑う。

「君と出会ってかれこれ二十年余り、ずっと前から思わなくもなかったんだけどね。ほら、色々と忙しくて取り紛れてしまってさ。こうやって、今、独りになって、落ち着いて考えて、あらためてそう思ったんだ」

 ゆっくりと目をつむり、再び開き、彼は僅かに口角を上げた。

「気になるのは『友達』の意味かな? うーん、そうだな……。一緒に居て楽しい気分になる相手、と言えばいいかな……。『楽しい気分』は、分かるだろ? 美味しいご飯を食べている時や、そうだね、最近だと、狩りが成功した時など、とても楽しかったね」

 それから、こうやって君と意識を重ねている時も、ね。そう言って彼は頬を弛める。

「思考や感覚を共有するよりも、かなりまどろっこしいやりとりになってしまうと思うんだけれど、ぼくに付き合ってくれるかな?」

 一呼吸の間ののち、彼は嬉しそうに目を細めた。

「ありがとう、我が友ナイズ

 

    * * *

 

 薄曇りの空から降り染むおぼろかな光の中、いつもの机について書きものをしていた彼は、ふとペンを置いて大きく伸びをした。

「さすがに半月も経てば、なんとなく独り言にも慣れてくるなあ……。虚しさは相変わらずだけれど」

 あーあ、と溜め息を吐き出してから、インクの入った瓶を脇へよけ、空いた机の上に身を伏せる。

「君が喋ることができたらなあ……」

 ぼそりと呟きを漏らしたものの、すぐに彼は慌てた様子で顔を上げた。

「あ、いや、簡単じゃないことは解ってる。そもそも君達は言語という概念を持たないわけだしね。ぼくだって、ありもしない尻尾を『動かせ』なんて言われたら、途方に暮れるに決まってるさ」

 そうして彼は、眉を寄せてそっと微笑む。君を困らせるつもりはないんだよ、と。

「でもさ、出会った頃に比べたら、君から伝わってくるものが、随分具体的に、明瞭になってきているように感じられるんだ。これはたぶん、君が、ぼくという存在に慣れてきている、ってことじゃないかな。だから、もしかしたら、この先何年か、何十年かしたら、君も、はっきりとしたヒトの言葉を使えるようになるかもしれない」

 自分の言葉を噛み締めるように、彼は「うん」と頷いた。

「そうすれば、船の設備を使って、音声でぼくと会話ができるようになるかもしれないね」

 

    * * *

 

 ふああああ、と、大きなあくびが彼の口からこぼれ出す。

 夜を迎えたいつもの部屋の、机上灯に照らされた小さな世界。彼はぐったりと机の上に身を投げ出した。

「もっと付き合いたいのはやまやまなんだけどね……」

 両脇の筋を伸ばすように二度三度と身体をひねり、最後にもう一度、特大のあくびを漏らす。

「君にヒトの言葉で喋ってほしい、って願っているのは、他でもないぼくだからね。君が少しでも早くヒトの思考や言語に馴染めるよう、少しでも多くの時間を君と過ごしたいのはやまやまなんだけれど、君達と違って、ヒトは眠らなきゃならないんだよなァ……」

 と、何を思いついたか、彼は「待てよ」と顔を上げた。

「そうだ、映像を使おう」

 眠そうな目から一転きらきらと瞳を輝かせて、彼は、前方、明かりの円の外へと右手を伸ばした。

 虫の羽音のような微かな音に遅れて、彼の正面で四角い画面が光り輝き、机の上を隅々まで照らし出した。ノートやペンと一緒に机の端に追いやっていたハードウエアキーボードを手元に引き寄せ、軽やかに指を走らせる。

中央制御室ここは、あそこにあるカメラで常に記録されていて、その映像は一定期間保存されることになっているんだ。レコーダをセキュリティから切り離すのが面倒で、ずっとそのままにしていたから……、あった、あった。丁度一箇月前からの映像が残ってるよ」

 静かな室内に、彼が文字を打つ音が楽しげに跳ねる。

「よし、じゃあ早速、ぼくが喋っている部分だけを集めて見られるようにしよう。うん、なんならプログラムをいじって、ぼくがここにいない時の映像は記録されないようにしてみようかな」

 追尾型の記録装置は、動力などのリソースを考えると現実的じゃあないなあ。それならいっそ、ぼくの部屋にもカメラをつけようか。すっかり目が冴えてしまった様子で、彼は声を弾ませる。

「申し訳ないけど、ぼくが眠っている間、君はそれを見て復習していてくれるかい? あとは、何か文書を……例えば船のマニュアルなんかをコンピュータに読み上げさせるのも……。いや、それだと、発声のサンプルにはなっても、思考のサンプルにはならないな……」

 深い溜め息を吐き出すと、彼は、「こんなことなら、映画や小説の一つでも手元に残しておけば良かったよ」とぼやき声を零した。

「まあ、あの時は、彼女達と袂を別つことになるなんて思っていなかったからね……」

 キーを叩く音が、しばし途切れる。

 大きく息を吐き出してから、彼は再び指を動かし始めた。画面の光を鳶色の瞳に映し込みながら。

 

    * * *

 

 めっきり数も深みも増した頬の皺を、更に深くさせて、彼は中央制御室の前方を見上げた。

 一部が吹き抜けとなった上階部分に並ぶ窓を、大粒の雨がひっきりなしに叩いている。ガラスを流れ落ちる水は滝のごとく。時折風に煽られ、大きくうねっては雨粒を呑み込み、不均質な影を部屋に落とす。

「やれやれ、この嵐が過ぎるまでは、閉じ籠もるしかないね」

 何度目か知らぬ溜め息をついて、彼は椅子に背もたれた。

「まあ、食べ物はまだ幾らか余裕があるから、心配ないよ」

 うん、大丈夫、と、自分に言い聞かせるように、ゆっくりと頷く。

「ぼくは生物学が専門だったし、軍のサバイバル訓練も受けていたから、こうやって森の中で君と二人きりでもなんとかやっていけるけど、そうじゃなかったら大変だったろうなあ……」

 得意そうに口のを引き上げはしたが、その笑みはすぐに苦笑に取って代わられた。

「ははは、まいったな。そうだね、君には、ぼくの本音がだだ漏れだからなあ……」

 静かに唇を引き結び、それから彼は、消え入りそうな声で「そうだよ。とても心細いよ」と囁いた。

「でも、人里に出るわけにはいかないよ。彼女に――彼女達に――見つかってしまう。折角、もう二十年も死んだふりが成功しているというのに」

 またも大きな溜め息が、彼の口から漏れ出でた。

「司令船が生きていることを知ったら、彼女は通信モジュールを爆破させて、電磁パルスを再び発生させようとするだろう。そうなったら――」

 奥歯に力を込めて、そっと目をつむって、彼はゆるゆると首を横に振った。「やっぱり、だめだ、そんなことは」と、苦渋の声で絞り出す。

 ぎし、と椅子が軋み、彼は椅子の背から身体を起こした。机の上に両肘をつき、組んだ指の背で顎を支える。

 鳶色の瞳が、どこか遠くに焦点を結んだ。

「彼女、は、〈お客さん〉の一人だったんだよ」

 静まり返った部屋の中、窓をつたう雨水の影だけが時を刻む。

「ぼくは、あの当時、自分でははっきりと意識はしていなかったけれど、どこかで〈お客さん〉を見下していた。ぼく達クルーが導かなければ、彼らは何もできないんだ、と」

 だが、そうではなかった。一段低い声でそう吐き出して、彼は上体を戻した。椅子に深く座り直し、心持ち姿勢を正す。

「〈初期化〉で文明が破壊され、皆が裸同然でこの地に放り出されたあと、ぼくが途方に暮れて右往左往している間に、一介の〈お客さん〉に過ぎなかったはずの彼女は、いち早く的確に状況を読み、書物の保護にまわったんだ」

 そうして彼は、自嘲の笑みを口元にのぼした。

「確かに、ぼく達は国元での物凄い競争率を勝ち抜いて〈RDOSSルドス計画〉のメンバーに加わった。厳しい訓練と専門知識の更なる研鑽をこなして、代表委員に選出されもした。でもね、最終選抜で選ばれなかった人間が、ぼくよりも劣っていたというわけではないんだよ。たぶん、ぼくは単に運が良かっただけなんだろう。そして、そもそも計画のメンバーに加わる気のない多種多様なスペシャリストが、世界中には山ほど存在していた。でも、昔のぼくは、そのことにまったく思い至らなかった……」

 長い沈黙が、うなだれた彼の肩にのしかかる。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか、彼は大きな動作で椅子の背もたれに身を投げ出した。

「本当に、彼女はすごい人だよ。最適解を導き出せる知識と知能、そして、それに向かって突き進む強さを持っている」

 あと、人々を取りまとめる手腕と魅力も、ね。そう言って彼は屈託のない笑みを浮かべた。

「ああ、うん。ぼくは彼女のことを尊敬しているよ。今も。とても」

 たぶん、ずっと。そう最後に付け加えて、彼は静かに瞼を閉じた。

 

    * * *

 

「皆と別れてからもう四十年が経つのか……」

 時の流れを目元に刻み、彼が呟く。広い船の中で唯一日の光が望める、いつもの部屋の、いつもの机。

「そうだね、もう、彼女達もぼくのことを忘れているかもしれないね」

 まるですぐ横に誰かがいるかのように、ごく自然に彼は相槌を打った。

「でも、ぼくは、ここで独り朽ち果てることに決めたんだ」

 穏やかに、穏やかに微笑んで、彼は話し続ける。

「あの時、ぼくが君を庇わなければ、人類は科学知識を失うことはなかった」

 淡々と、閑々と。ただ冷静に、端的に、言葉を吐き出してゆく。

「あの混迷の時代、ヒトの世に何とかして秩序を取り戻せないか、ぼくは夢中だった。でも、少しずつ人々が落ち着きを取り戻した今、ぼくには、もう、皆に合わせる顔が無いんだよ……」

 

    * * *

 

 皺だらけの指が、実行キーを押した。

「これで、引き継ぎのコマンドは完成した。長い道のりだったけれど、なんとか間に合わせることができたよ」

 大儀そうに息をついた彼は、よっこらしょ、と椅子の背に身体を沈めた。いつの頃からか使うようになった眼鏡を外し、凝りをほぐすように右手で眉間を摘まむ。

「いくら真名をこの中央処理装置に移し替えたところで、おそらく、機械のぼくは、ヒトのぼくと同等の存在にはなれないと思う。けれど、メッセンジャーの役割だけなら、充分に果たせるだろう。君がこの船を守ってくれる限り」

 月日が刻んだ皺の中、鳶色の瞳だけが以前と変わらず力強い光を放っている。

 と、その目が、ふ、と翳った。

「ぼくの我が儘で、君をいつまでもこの船に縛りつけることになってしまうね……」

 ひそめられていた眉が、ややあって、そうっと緩められる。

「そうか、楽しい、って思ってくれるかい」

 ありがとう、嬉しいよ。そう囁いてから、彼はにいっと口角を引き上げた。

「それにしても、君も随分具体的に語りかけてくれるようになったね」

 満足そうに目を細めて、「いや、もしかしたら」と言葉を継ぐ。

「そう、もしかしたら、ぼくのほうも君らの流儀に馴染んできたのかもしれないな。ほら、最近時々君の同胞が、ぼくに話しかけてくるような気がするんだ」

 一息のち、彼は「うん」と頷いた。

「そうだね、『ごきげんよう』みたいな友好的な気配を感じることもあれば、『ここから出ていけ』って、ぼくのことを嫌っているような気配を感じる時もね」

 はははは、と、朗らかに笑って、そうして彼は、小さく肩をすくめた。

「まあ、現状、ぼくが、電磁パルスを発生させることができる唯一のヒトだからなあ。嫌がられても仕方がないと思うよ」

 これでも皆の命の恩人なんだけどなあ、と、おどけた調子で一言を付け加える。

「でも、そのおかげで、今は以前ほど寂しくないんだ。特に『出ていけ』氏とは、一度大っぴらに口喧嘩をしてみたいな、なんて思ってるんだよ」

 

    * * *

 

 弱々しいしわぶきが、狭い部屋の空気を揺らす。

「ああ、そんなに心配しないでおくれ」

 彼の姿は、寝台の上にあった。毛布を重ねて傾斜をつけた寝床に背中をもたれかけさせ、すっかり肉の落ちた手で、口元を押さえて咳を繰り返す。

「真名の引き継ぎの理論は、間違っていないはずだから。この肉体が終わりを迎えれば、ぼくは自動的にこの船の頭脳に生まれ変わる」

 そう語る間も、彼の喉からはひっきりなしに喘鳴が聞こえてくる。痰が絡んだか、一際苦しそうに咳き入った時、天井のスピーカーから微かな作動音がした。

 続けてスピーカーが発した〈音〉を聞き、彼の目が見開かれる。

『無理を、しては、ならない』

 それは、男の声だった。船の頭脳が所有する音声データを駆使して合成された、人工の声。

 彼が、茫然と口を開いた。

「ナイズ、君、喋れるようになったのかい?」

 しばしの沈黙ののち、合成音が『少しだけなら』と応えた。

 彼の鳶色の瞳がみるみる深みを増し、蒼白だった目元が一気に赤みを帯びた。

「ああ、ああ! すごいなあ! こんなぼくの我が儘に付き合ってくれるなんて、君は本当に、ぼくには勿体ない友人だよ!」

 感極まり上ずる声を、咳の発作が容赦なく途切らせる。

 ひとしきり咳気に身をよじらせて、彼は顔を上げた。やつれたおもてとは裏腹に、今にも溢れ出しそうな喜びを目に湛え、晴れやかな笑みを虚空に向けた。

「いい声を選んだね、ナイズ。とても、君らしい、優しい、声だ……」


    * * *


 唐突に画面が暗転し、隅に表示された再生回数がまた一つ数字を増やす。

 数瞬待って、再び画面に映像が映し出された。暗闇の中、机上灯に照らされた、五十代の彼の姿が。

 椅子の軋む音が、画面横のスピーカーから聞こえてくる。次いで、幾度となく繰り返される、友の声。

「さて、君は一体何に対して疑問を感じているのかな……?」

 

 

 

    〈 了 〉

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