里長と嗣ぎ手
* * *
「心配だなあ」
ヘレーが内々に
「何が心配なんだい?」
明日の仕事の準備をようやく終えたヘレーは、くたくたの身体をツェウの隣に投げ出した。
「あなたが次の
「そりゃまた、どうして」
「
ヘレーが首をかしげてみせれば、いつもはきりりと切れ上がっているツェウの眉が、みるみる不安そうにしおれていった。
「だって、おじいちゃんって、
「この可愛らしい人を、どうしてくれようか、って思ってね」
「どうするもこうするも、人が悩んでるっていうのに、ちょっ、なんで、頭っ、いくら寝る前だからって、髪の毛ぐしゃぐしゃにしないでよ」
ツェウの頭をくしゃくしゃと撫でながら、ヘレーは囁いた。
「大丈夫だよ。むしろ、『今度の
「それだけは絶対に、絶っ対っに無いわね、『仕事の虫』さん。だいたい、今だってちょっと働き過ぎなんじゃないかなって思うのに。たまにはオーリとも遊んであげてよね」
仕返しとばかりに、ツェウがヘレーの短い髪をぐしゃぐしゃに乱す。ヘレーは満面の笑みを浮かべて「はいはい、おおせのままに」と両手を上げた。
翌日、午前の診察を終えたヘレーは、約束の時間の十分前に里の神の
礼拝室を通り過ぎ、奥にある地下への階段を下りる。
石造りのしっかりとした階段は、途中何度も踊り場で折り返しては、ぐるぐると深くへ潜ってゆく。
やがて、階段の終着点である船への入り口が見えてきた。
扉の左脇、石とは違う材質で作られた、緩やかな曲面を
ほどなく操作盤の画面に〈開錠〉の文字が表示された。ヘレーが扉に軽く触れた途端、扉はするすると音も無く右手の壁に吸い込まれていく。
操作盤の蓋を閉め、船の中へ。扉を入ってすぐは、二メートル四方の小部屋となっていた。背後の扉が閉まるのを待って、前方の扉が自動的に
入り口のあるこの階は、
左右に並ぶ扉を横目に、白々とした照明の灯る廊下を進んでいけば、やがて少し
操作盤に〈許与〉の文字が表示され、昇降機の扉が
微かな振動と虫の羽音のような音とともに、ヘレーを乗せた昇降機は
ヘレーの診療所の、診療室と待合室を足したよりも少し広いだろうか、部屋の壁は一面を残して全てが本棚になっており、里の、そしてこの星の歴史が記された帳面がびっしりと並んでいる。
残る一面には、腰の高さほどの戸棚と、寝台。この寝台は操作釦一つで高さを変えられる実に便利なものだ。電気を使わずにこれと同じような機能を寝台に持たせられることができれば、寝たきりの人間を世話する者や足腰の弱った老人の助けになるのだが、今の技術ではどうしても大掛かりになったり、手間や労力がかかったりしてしまうため、あまり現実的ではない。
「よく来てくれた、ヘレー」
清潔感溢れる乳白色の床に、樹脂の車輪が擦れる音がする。車椅子に座った老人が、部屋の中央に置かれた大きなテーブルを回り込んで、ヘレーを出迎えた。
「まあ、座れ。契約の儀を行う前に、いっぷくしよう」
ヘレーがテーブルにつくと同時に、奥の扉から使用人が湯気の立つカップを二つ盆にのせて運んできた。
煎った豆の香ばしい匂いが、辺りにほわりと広がる。
何かあればお呼びください、と使用人が退出してゆくのを見送って、
ヘレーもカップを手に、しばし豆の茶の仄かな甘みと苦みを堪能する。
「どうして私が選ばれたのでしょうか」
降り積もる沈黙を湯気とともに揺らして、ヘレーは問うた。
「そうだな。一番の理由は、
あらぬ返答に、ヘレーは思わず豆の茶をふき出しそうになった。
「質問攻め? って……、ああ、
ヘレーがちくりと一言を付け加えるも、
仕方なくヘレーは胸の中のもやもやを、ここぞと言葉にして吐き出した。
「それは、この船の操作説明書や手引書のような、固定された知識なのか。それとも、代々の
静かな瞳でヘレーの言うことに耳を傾けていた
「それでこそ、だ。
「歴代?」
思いもかけない言葉を聞き、ヘレーの声が上ずった。
「まさか、あなたは、これまでの
しばしの間ののち、
「それも、引き継ぎの際に分かることだ」
「しかし、ヒトの脳に、二千年間もの記憶を保持できる受容力が……」
独白めいたヘレーの問いに、どこか得意げに
「それが、あるのだよ。
「ということは、〈初期化〉を経験なさった初代
「ああ。『書庫の魔女』はここにいる」
「ということは、
興奮を抑えきれずに、ヘレーは大きく前に身を乗り出した。
だが、
「ある意味、
「
怪訝に思って言いよどむヘレーに、更に思わせぶりな言葉が降りかかる。
「これは、賭けなんだよ……。
「賭け?
だが、
「全ては、君が
テーブルから離れた車椅子は、少し先で再びヘレーのほうを向く。
「そして、是非、私の目の前に、それを突きつけてくれ」
さあ、契約の儀といこうか。そう言って両手を振り広げた
二人の間に
あっという間に霧散するちからを、視線でかき集めようというかのように、ヘレーはおろおろと辺りを見まわす。
「どうして……」
契約の儀を執り行うべく別室に連れてこられてから、これがもう三度目の試みだった。
「完全なる合意がなければ、この契約は為されない。僅かでも疑念があれば、契約は不可能なのだよ。それだけ細心の注意が必要な術なのだ」
薄灰色の壁に囲まれた、がらんとした部屋の中に、車椅子の車輪が軋む音が響く。「日を改めよう」と言い置いて扉へ向かおうとする
「疑念、などと、私は別に」
「いや、こうでなければならないのだ……」
振り返った
「君が優秀であるがゆえの不安感なのだろう。心配しなくとも、私には頼もしい二人もの
里には、
彼ら
申し訳なさに身を小さくするヘレーに、
「君には、現時点で私にできうる限りのことを教えてあげよう。そうすれば、君の不安感も消えるだろうし……、或は真理に辿り着くことができるかもしれない」
完全な契約が為されないままに、ヘレーは仕事の合間をぬっては
ヘレーの興味に合わせて、
いにしえのわざの結晶ともいうべき
いよいよ契約の儀を執り行わん。ツェウの事故が起こったのは、
* * *
モウルから、未だ
「そもそも私があの時すぐに契約を交わせていれば、里を出ていくこともなかっただろうし、ボロゥが死ぬこともなかった。本当に、申し訳ない……」
冷ややかな眼差しで口を開きかけたオーリの足に、モウルがさりげなく蹴りを入れる。
モウルは、
「エレグ兄……マンガスも、
「そうなんだ。ソリルさんと里を出ていく、と言い出すまでに、彼も何度か
「制御? 二千年も前の機械がまだ生きているんだ?」
ウネンが目をしばたたかせる横で、モウルがあきれかえった表情で肩をすくめる。
「生きてなきゃ、船の中は真っ暗だし、扉も昇降機も動かないし、湿度や温度の調節ができないと書庫の本だってあっという間に傷んでしまうでしょ」
「あ、そうか。なんか、普通にランプとか人力とかそういうのを勝手に想像してた」
「こればっかりは、実際に目で見てみないと実感できないだろうね」と、ヘレーがウネンを慰めた。「船で使用する電気については、里の神のご負担にならない範囲で、用途と場所と程度を厳密に絞って、特別にお目こぼしいただいているんだよ」
マンガスが言っていた「
「二千年も、と言っても、船の保守には里の神も大いにちからを貸してくださっているからね。そもそも源文明の移民計画は何千年にも及ぶ長期計画だったから、船には生き物のように身体の不調を自分で修復する仕組みが備わっているんだよ。動力が失われない限り、船はまだまだ大丈夫だろうね」
夢のような話を前に、もはやウネンには感嘆の声を上げることしかできない。「すごいでしょ」と得意げに口角を上げるモウルに、ひたすら「すごい、すごい」と頷いていると、ヘレーがぼそりと言葉を漏らした。
「とても真面目で、優しい奴だったんだよ……」
マンガスの……エレグのことを言っているのだ、と気づき、三人は一様に神妙な顔でヘレーを見つめた。
ヘレーは、膝のところで組んだ両手を、じっと見つめていた。
「私よりも四つ年下でね、仕事をよく手伝ってくれてね。弟がいたらこんなふうなんだろうな、って思っていたんだ。私は一人っ子だったから、彼が寄ってきてくれるのが嬉しくてね……。まさか彼がこんなことになるなんて……」
オーリが、モウルが、唇を噛んでヘレーから顔を背ける。
ウネンも自分の膝を握り締め、込み上げるやりきれなさをただ噛み締めた。
すっかり夜も更け、足元から這い上がる冷気が、部屋に籠もる
「お茶、ごちそうさま」とウネンが腰を上げるのと同時に、オーリが
「あんたは、なんでウネンを引き取ったんだ」
いつもどおりの仏頂面が、淡々と、端的に、問いを発す。ウネンがもうずっと訊けないでいたことを。
口の中に溢れてきた唾を、ウネンは一息に呑み込んだ。思わず握り締めた手のひらに、あっという間に汗が滲んでくる。
驚きの表情でオーリを見上げていたヘレーが、そっと目を伏せた。
「声が……聞こえてね。ウネンと初めて出会った時に」
「最愛の人を失い、可愛かったはずの子供を呪い、気がつけば身に覚えのない罪を着せられて追われていた。もう何を信じればいいのか分からなくて、あの時の私は、ただ抜け殻のように生きていた。自分で命を断たなかったのは、あの世でツェウに会えなくなるのが嫌だっただけのことだ」
深い溜め息ののち、ヘレーはゆるりと顔を上げると、真っ直ぐにウネンの目を見つめた。
「あの声を耳にして、『真実』とは何のことだ、と強く気を引かれたんだ。話を聞けば、どうやら君が酷くつらい境遇にいると分かった。なんとか改善されないか、と思ったんだが、どうやら叶いそうになくてね、見るに見かねて……」
「それだけか?」
オーリの容赦のない追及に、ヘレーが弱々しくも苦笑を見せた。
「お前が、それを問うのか」
「俺が問わずに、誰が問うんだ」
静まりかえる部屋に、ああ、と嘆息するヘレーの声が染みとおる。
しばしの沈黙を経て、ヘレーが口を開いた。右のこぶしをきつく左手で握り締めながら。
「罪滅ぼしのつもりだった。心神
訥々と語り続けるヘレーの声が、束の間、途切れた。それから彼は、
「――私は、捨ててきたお前に許しを乞う代わりに、ウネンを拾ったのだ」
「酷い自己満足だ」
オーリの言葉が、ヘレーの心臓を一息に貫く。
言葉も無く胸元を押さえて下を向くヘレーを、オーリは憮然とねめつけた。それから、大きく息を吐き出した。
「だが、それで、こいつは生き延びることができた」
そう言ってオーリはウネンの頭を荒っぽく撫でた。
「今ので、これまでのことは帳消しにしてやる」
ウネンは、くしゃくしゃになった髪の毛もそのままに、「うん!」と頷く。
俯くヘレーから、掠れた声が漏れた。「ありがとう」と、「本当にすまなかった」と、震える声が。
討伐隊が国境の町リッテンに到達するのと入れ違いで、マンガスはとうとうラシュリーデン領を脱出してしまった。
ここから先は、例え少人数であろうとも国の兵隊が動くとなれば、事は外交上の問題となる。兵達はリッテンで一旦追跡の足を止め、ルドルフ王の指示を仰ぐことになった。
ウネン達は兵達と別れ、引き続き南へ、マンガスを追い続けた。
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