第四章 祈りの丘

城での生活

 北向きの壁に等間隔で並んだ三つの窓が、薄暗い部屋に柔らかな光を振り撒いている。それぞれの窓の下には作りつけの机があり、綺麗に磨かれた天板がまるで鏡のようだ。

 視線を廊下側に転じると、高さ二メートルほどの書架が四列。書架と書架の間の通路の延長線上に窓がくるように、きっちり規則正しく並んでいる。

 ウネンは、窓際に置いてあった脚立を抱えると、一番東側の書架と壁との間にえっちらおっちらと進んでいった。目的の棚の前に脚立を置き、書架の一番上の段に手を伸ばす。

 ウネンが『歴史』と背表紙に書かれた大きな本を手に取った時、可愛らしい女の子の声が足元から聞こえてきた。

「ウネンは本っ当に勉強が好きなのね」

「ダーシャ様」

 脚立の横には、今年十歳になるダーシャ王女が立っていた。父親であるクリーナク王そっくりな眩い金の髪を揺らしながら、少し拗ねたような表情で、ウネンを見上げている。

 ウネンは本をしっかりと両手で持ち、一段ずつ慎重に脚立をおりた。

「どうなさったんですか? こんな所に」

 即座にダーシャが、「敬語」と唇を尖らせた。「わたししかいない時は、ウネンの普段の言葉で喋ってちょうだい、って言ったじゃない」

 いわゆるお上品な言葉遣いを苦労して学んでいる最中の身としては、ダーシャの申し出は、有難くもあり、面倒でもあり、といったところだろうか。ウネンは溜め息を呑み込んでから、「どうしたの?」と言い直した。

「だって、ウネンったら全然遊んでくれないんだもの。つまんないわ」

「でも、ぼくは、ハラバル先生の助手だから」

「でもでも、お父様は、ダーシャの話し相手にもなってくれ、ともウネンに仰ってたじゃない」

 先月、晴れてハラバルの助手としてクージェの城にやってきたウネンを、誰よりも熱烈に歓待したのが、このダーシャ姫だった。

 遊び友達ができた、と言わんばかりにはしゃぐダーシャを、父王は一度は厳かな声でたしなめた。だが、これまで城内にダーシャと年の近い人間がいなかったことに気づいて不憫に思ったのだろう、ほどなくクリーナクは藍の瞳をそっと緩め、「手の空いた時にでも話し相手になってやってくれないか」とウネンに語りかけるに至ったのだった。

「カミルもエヴェリーナも小さ過ぎて、一緒に遊んでもつまらないんだもの」

 カミル王子は五歳、エヴェリーナ姫は三歳と聞いた。十歳の遊び相手には、確かに少々物足りないだろう。そう考えると、ダーシャの頼みを聞いてやるのもやぶさかではないウネンだった、が……。

「でも、もうすぐ算術の授業だしなあ」

 途端に、ダーシャが、ぷぅ、と頬っぺたを膨らませた。背の高さこそウネンとほとんど変わらないが、こういう表情を見る限り、やはり姫はウネンよりもずっと子供なのだ。ウネンは少しだけお姉さんな気分で、不満を表明するダーシャを見つめた。

 ダーシャは、全身でこれ見よがしに溜め息をついて、上目遣いでウネンを見上げてくる。

「みんな、勉強勉強って、つまんない」

「でも、勉強したことは、これから先、きっとダーシャ様を助けてくれると思うよ」

「お父様も、ハラバル先生も、他の先生方も皆そう言うわ」

 ダーシャがくるりと背を向け、スカートの裾がふわりと綺麗な円をえがいた。

「分かってる。だって、ウネンも、色んなことを知っているから、ハラバル先生の助手になれたのだものね」

 そう言いつつも、ダーシャは、今一つ納得しきれない様子で何か口の中でもごもごと呟いている。そもそもダーシャには、「知識が身を助けてくれる」ということ以前に、「身を助けてもらわなければならない」状況が実感できないに違いない。

 ウネンは一瞬だけ目を伏せてから、笑みを浮かべてダーシャを見た。

「知識があるのと無いのとでは、世界の見え方が全然違うよ」

「世界の見え方?」

「知識が増えると、同じ場所でも違う景色が見えるようになるよ。楽しいよ」

 ヘレーに連れられてロゲンの町を出て、ウネンの世界は一変した。足の下に広がる大地も緑なす森も、目に映るもの全てが悠久の時を刻む書庫となり、いのちを支える宝物庫へと姿を変えた。文字は、見えないものの姿をこの世に浮かび上がらせ、数字は世のことわりを紐解いてくれた。取るに足らない卑小な存在でしかなかったウネンに、知識は、世界を望む遠眼鏡と、空へはばたく翼を与えてくれたのだ。

「そう言えば、お父様も、『王たるもの、人々の知らないことを知り、見えないことを見なければならない』って仰ってるわ」

 ダーシャが、神妙な表情で呟く。

 ウネンは、思わず息を呑んだ。クリーナクが語る「人々」という言葉が、封臣を始めとする騎士達のことだけではなく、市井の人々をこそ指しているように思えたからだ。

 先だって、城下でウネンがヴルバの手の者に襲われた際も、クリーナクは、本来王が直接関わりを有していないはずの町の治安について、責任を感じている様子だった。臣下の者ばかりでなく、地に生い茂る民草にも心を砕く。それはまるで、かつてヘレーが語ってくれたお伽噺に登場する、理想郷の王のようではないか。

「いくら王が偉くても、みんなに見えないことが見えるわけないじゃない、って思っていたけれど、知識の量で見え方が変わるのなら、お父様は出鱈目を仰っていたのではなかったということなのかしら」

 おのが父親とはいえ一国の王に対して「出鱈目」とは、まことにダーシャは恐れ知らずだ。ウネンは、苦笑を押し殺すのに四苦八苦した。

「陛下はきっと、人々を導くのに沢山の知識が必要だ、と、仰りたかったんじゃないかな」

「じゃあ、もしもみんなが沢山の知識を持つようになって、わたし達が導かなくてもよくなったら、わたし、もう勉強しなくってもいいの?」

 いいこと思いついた、とばかりに目を輝かせたダーシャが、すぐにがっくりと肩を落とす。

「だめだわ。それじゃあ、わたし達、みんなから必要とされなくなってしまうのね」

 ダーシャの言葉を聞き、ウネンは言葉を詰まらせた。王はなにゆえに王たりえるのか。これまで意識することすらなかった疑問が、唐突に思考の真ん中に降ってきたのだ。

 知識は「目」であり、「翼」である。オーリの言葉を借りるなら、「ちから」とも言うことができよう。だが、それを手にすることができる者は限られている。イェゼロの町を見ても、人々は専ら目の前の仕事だけで手一杯で、生活に直接関係のない知識を求めようとする人間などほとんどいない。

 ウネンは、この一箇月に城で目にした多くの「先生」達の顔を思い出していた。歴史や政治は勿論、科学に数学、多くの有識者が王のもとにつどい、国の舵取りを補佐していることに思いを巡らせた。

 英邁えいまいたる君主。それは、知識を独り占めする者でもある。

 その考えに誘発されるようにして、いつぞやのモウルの台詞が、ウネンの脳裏に甦った。

『僕らが依頼されたのは、ヘレーが持ち出した禁断の書の確保と、そこに記された知識の拡散を防ぐこと――』

 武力や権力、財産といったものを持たざる者は、持てる者に従うしかないのが世のならいだ。そして、同様のことは、知識についても言えるのではないだろうか。ならば、禁断の知識とやらの漏洩を防ぐべく動いているオーリ達は、その知識で一体何を支配する気なのか――いや、何を支配のか。

「ノーツオルス……」

「伝説の魔術師がどうかしたの?」

 ウネンが無意識のうちに漏らした言葉を、ダーシャが聞き咎める。

 と、いつの間に部屋に入ってきたのか、ハラバルが書架の角から顔を出した。

「ああ、ダーシャ様もこちらにおいででしたか。そろそろお部屋にお戻りください、ダーシャ様。ウネンも、授業の準備をしましょう」

 ウネンは背筋せすじを伸ばして「はい」と返事をしてから、手に持っていた本をもとあった棚に戻した。ハラバルの授業の手伝いをすることも、助手としてウネンに課せられた仕事の一つなのだ。

 算術の時間にウネンが補佐としてダーシャの横に座るようになって半月。これまで上機嫌で授業を受けていたダーシャだったが、どうやら今ばかりは、少々間が悪かったようだ。ダーシャは形の良い眉をひそめて、ぷいっとハラバルから顔を背けた。

「今から戻ろうと思ってたのに、先生がそんなことを仰るから、気が削がれてしまったわ」

 師に先手を打たれたことがそんなに悔しいのか、ダーシャが見事なふくれっ面を披露する。

 ウネンは、目の端にハラバルのしかめっ面を意識しながら、ダーシャの顔を覗き込んだ。

「息がぴったりだね」

「え? どういうこと?」

 父王譲りの藍の瞳を真ん丸に見開いて、ダーシャが問う。

 ウネンは精一杯の笑顔を浮かべて、ダーシャとハラバルとを交互に見やった。

「だって、先生もダーシャ様も、同じ時に同じように『そろそろ授業の準備をしよう』って同じことを考えていた、ってことでしょ。つまり、お二人はとても気が合う、ってことだよね」

 ほう、と、ハラバルが、愉快そうに微笑んだ。

「でも、ハラバル先生と息がぴったり合っても、あまり嬉しくないわ……」

 遠慮も何も無いダーシャの言葉に、とうとうウネンは苦笑を漏らしてしまった。

「でも、合わないよりは合うほうがいいと思うけど?」

「……それは、まあ……、ええ、そうね……」

 躊躇いつつも首を縦に振るダーシャを見て、ハラバルが「光栄です、姫様」と腰を折る。

「さて、では、授業とまいりましょうか。ダーシャ様はお先にお部屋でお待ちください。わたくしは、ウネンと教材を揃えてまいります」

 ダーシャは、今度は拗ねることなく、「分かったわ」と素直に頷いた。

 

 

 算術の授業が終わるのを見計らったように、使用人がダーシャの勉強部屋の扉をノックした。「補佐官様、陛下がお呼びです」との声に、ハラバルが「すぐにまいります」と応答する。

「では、ウネン、わたくしはこのまま陛下のもとへまいりますので、教材や帳面を部屋に戻しておいてください」

「分かりました」

 ウネンの返事が終わりきる前に、ダーシャが弾む声で「わたしもお手伝いするわ!」と身を乗り出してきた。

「ずーっと机に向かっていたから、身体が固まってしまったもの。それに、一人よりも二人で片付けたほうが、早く終わって早く遊べるでしょ?」

「陛下のところから戻ったら、我が助手を返していただきますよ」

 ハラバルの顔は、いつもどおり厳めしいまま、ただ口元だけが微かな弧をえがく。

「先生がわたし達を見つけられたらね!」

 不敵な笑みを浮かべるハラバルと、はしゃぐダーシャ。そんな二人の間に挟まれ、ウネンは知らず大きく息を吐いた。

 

 

「さっさと正体を現せ、この、腐れ〈かたえ〉めが!」

 算術の教科書と帳面の入った籠を抱え、居館から主館二階へと渡り廊下を歩いてきたウネン達を、しわがれた声が出迎えた。やれやれ、と半ばあきれつつ角の向こうを覗き込めば、予想どおり、大先輩の魔術師に壁際に追い詰められているモウルの姿があった。

「どうせ、お前も儂の命を狙っておるのじゃろうが。だが、儂はもう騙されんぞー」

 どうだまいったか、と言わんばかりの表情で、ジェンガ翁が身体を揺らす。モウルを威嚇しているつもりのようだが、頭二つ分背が低いこともあって、はたから眺める限りは、子供が大人にじゃれついているようにしか見えない。

 七十年前のタジ国との大戦中に、ジェンガが、同じ魔術師仲間による手痛い裏切りに遭ったことがある、と、クリーナクは言っていた。いっときは死線すら彷徨う羽目になった、つらい記憶が、今になって彼をさいなんでいるのだろう、とも。

 この城に来てからというもの、ウネンは、一日に一度はジェンガにくってかかられているモウルの姿を見かけている。そのたびにモウルは、指の隙間をすり抜けてゆく川魚のように、言いがかりをひらりと躱してその場から立ち去っていた。

 しかし、今日は少しだけモウルの態度が違っていた。そろそろ積もり積もったものが限界に達していたのだろう、眉間に皺を刻んで、両手を腰に当て溜め息をつく。

「毎日毎日、こんなに人畜無害な人間を捕まえて、何を仰いますやら」

「儂は知っておる。真に人畜無害な者は、自分からそう名乗りはせぬ」

 語るに落ちたな、とジェンガが鼻を鳴らす。

 モウルの目が、すうっと細められた。

「僕の人間性について、あなたがどのように考えようが、僕にとっては別にどうでもいいことなんですけど、とりあえず、この城の人間に対して僕が敵意を持っていない、ってことだけは、理解していただけませんかね」

「そう言って儂を騙す気なんだろう」

 またもジェンガが身体を揺らした、その時、ウネンの陰から様子を窺っていたダーシャが、威勢よく二人の前に飛び出した。

「酷いわ、ジェンガおじい様!」

「おお、ダーシャ姫、ご機嫌麗しゅう……」

 一転して好々爺の眼差しで、ジェンガがダーシャを振り返る。

 だが、非情にも姫は、柳眉をいからせてジェンガに詰め寄った。

「ご機嫌なんて全然麗しくないわ。ジェンガおじい様、もうモウル様をいじめないで!」

 見ている者がつい気の毒に思ってしまうほど、ジェンガは傷ついた表情を浮かべて、二歩あとずさった。

「しかし、儂が倒れでもしたら、一体誰がこの国を守……」

「だから、モウル様は敵なんかじゃないわ。とってもお優しくて、善い人よ。先日も、お庭の木に引っかかってしまった、わたしの帽子を、嫌な顔一つせずにとってくださったもの!」

 ああ、と、ウネンはひっそりと嘆息した。涼しげな顔で風を操り、首尾よく手にした帽子を極上の笑顔で差し出すモウルの姿が、目に浮かぶような気がしたからだ。

 とおり一遍の他人に対するモウルの人当たりの良さは、驚くべきものがある。自分達が相手の時とは随分な違いだよね、と、ウネンはイレナと何度も溜め息をついたものだった。いや、あの笑顔を「胡散臭い」と看破しなければ、ウネン達の前でも彼はずっと猫をかぶり続けていたのかもしれない。そして、その場合の諸々の皺寄せは、全部オーリ一人がかぶることになるのだろう。

「いや、しかし……」

「しかし、じゃないわ! もう、ジェンガおじい様の意地悪! 大っ嫌い!」

 一瞬にして、ジェンガとその周囲の空気が、見事なまでに凍りついた。

 モウルは、口元に刻んだ薄い笑いを、即座に神妙な微笑みで塗り替えて、ダーシャに向かって目を伏せる。

「ありがとうございます、ダーシャ様。でも、ジェンガ様のご発言は、ダーシャ様を始めとする王家の皆様の安全に心を砕いておられるからこそだと、私も理解しております。このようなどこの馬の骨とも知れぬ者、警戒なさって当然ですからね」

「馬の骨だなんて、そんなこと誰も思ってませんわ!」

 言葉に力を込め、ダーシャがモウルを見上げる。

 モウルが、にっこりと、あの笑顔を浮かべた。ありがとうございます、光栄です、と。

「それでは、私は、陛下に呼ばれて執務室に向かっているところなので、これにて失礼いたします」

「じゃあ、わたしも一緒に行くわ。お父様に、到着が遅れたのはモウル様のせいじゃない、って言ってあげる!」

 勢い込んでそう言ってから、ダーシャはハッと息を呑んだ。

「あ、でも、わたし、ウネンのお手伝いをしている途中だったのだわ……」

「ぼくなら大丈夫だよ」

「……そう? ごめんなさい、ウネン。今度はきちんと最後までお手伝いするから」

「いいよ、いいよ。気にしないで。ダーシャ様は是非ともモウルを助けてあげて」

 申し訳なさそうに身を竦ませるダーシャの背後で、モウルが、余計なことを、とでも言いたそうに唇を尖らせている。ウネンはすっかり楽しくなって、「行ってらっしゃい」と二人に手を振った。

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