unknown days

森音藍斗

unknown days

 学校に行けるのは恵まれたことなんだよ。

 と彼らは言う。

 学校という一面的な空間で人生を大きく揺さぶる大切な子供時代を過ごさなくてはいけないことを、悲しく思う。

 何も教えてくれない。

 この国が、いかに矛盾を孕んでいるかとか。

 日本人の無宗教性がどんなに危険かとか。

 国会答弁が、実はどれだけ形式的にすぎないかとか。

 元国営のテレビ局に、通信料を払わない方法とか。

 聖徳太子実在の信憑性や、ジャンヌ=ダルクの勝因や、ナポレオンの黒幕や。

 それらの問題が存在するということや。

 本当は学校になんか行かなくていいということとか。

 この恋の終わらせ方だとか。


   **


 会いたくない。

 というのが正直なところだ。

 分かったような口をきいて、日本の政治について語ってはみたけれど、結局俺はただの高校生であって、高校生でしかなくて、親に尻を叩かれて今日も家を出る。

 くだらない日常。

 くだらない一日。

 くだらない一週間のはじまり。

 二日間の休日を経て、世界の変化を期待しても、変わったのは電車の吊り広告ぐらいなもので、吊り広告など眺める余裕もない程、今朝の電車も満員で。

 くだらない。

 真っ直ぐ学校に行く気にもなれないから、コンビニに寄ってみる。菓子パンの棚の前で財布の中身を確かめる。現金残高三十二円。そのまま店を出る。

 くだらない。

 どうせ、一緒に菓子パンを食うひとなど、もういないことだし。構わない。などとは微塵も思えていない自分に気付く。

 くだらない。

 ひょっとしたらICカードにお金が入っていたかもしれないと思い至る。校門前。もう遅い。

 くだらない。

 いつもの下駄箱。いつもの廊下。いつもの教室。変化のない世界。変わったのは。

 いつも突っかかってくるお前の声が、聞こえないことぐらいだ。


   **


 二日間のブランクは、意外と長い。

 三日練習をサボったら、取り戻すのに三か月かかる、とか、お前は言っていた。ピアノの話だったか。忘れてしまったが。生憎、音楽に興味はない。だが、ピアノを絵筆に言い換えれば、まあある程度の想像はつく。一理あると言わざるを得ない話ではある。

 もし、『昨日の今日』というやつだったら、まだ何とかできた気がする。

 最悪、解決じゃなくていい。続きでもいい。喧嘩の続き。いがみ合いの続き。罵詈雑言の続き。

 二日もあいてしまうと……などと考えるのは言い訳に過ぎないと言われれば確かにそのとおりかもしれないが、しかし――まあ、言い訳に過ぎないか。そうだな。認めよう。だが認めたところでどうということもない。

 そんな月曜日。

 月曜日の学校は、まるで時間を無視しているようだ。木曜の夕から金曜の朝になるように、月曜の夕から火曜の朝になるように、金曜の夕から月曜の朝に。

 それでも、お前からの連絡を待って鬱々と過ごした週末は、何故だろう、今に限っては、すっ飛ばされてはくれない。

 間違えて二枚一度に捲ってしまったページのように。

 なかったことになってはくれないものか――できれば、この週末だけでなく、金曜の放課後あたりから、丸ごと、すっぽりと、統合し忘れたレイヤーのように。

 物足りない。

 くだらない。

 そんな、あの日の、俺の絵のように。


   **


 週始めの一限目からよく頑張るねぇと、俺は教卓に立った英語教師を視界から外しながら考える。

 教室の中心から視線を逸らすと、必然的にお前の背中が目に入る。

 ずっと机の下で、ケータイをいじっている。

 俺のケータイは鳴らない。

 一体何をやっているんだ。俺への謝罪のひとつもなしに、誰とのお喋りに興じているんだ。――いや、知ったことではない、俺の、知ったことではない、お前が誰とどう関わろうと、誰とどう仲良くしようと、誰とどう――

 視界が揺れる。吐き気が喉を襲う。心臓が痛い。手が痺れる。足が震える。知らない。知らない、俺は、何も、俺は、


   **


「お前は阿呆かよ」

 五月蝿い。

「朝食抜いて倒れるって。くだらねー」

 くだらない。

「……知ってるよ」

「あ?」

「自分がくだらない人間だってことぐらい知ってるよ」

 はあ? とお前は懐疑的な声を出し、そして俺の寝ているベッドの端に腰掛けた。

「お前、大丈夫? 疲れてる?」

 疲れもするだろう。丸二日以上も同じことばかり、同じ人間のことばかり考え続けていたら。

 なんて言えるはずもなく。

「朝食抜いた上に、朝いつも食ってる菓子パン食わなかったからな」

 もっともらしい理由を作って声に出してみると、我ながらなかなか信憑性を帯びて聞こえた。

 筈だったのだが。

「へぇ、そう、一緒に食ってくれるやつがいなかったから?」

「……違ぇよ」

「素直じゃないのー」

 ……五月蝿い。

「財布に金が無かったんだよ」

「ICカードは?」

「……忘れてた」

 忘れてた。

 振りをした。

 菓子パンの棚の前で財布を取り出すときに目の端にちらついたパスケースを俺は確かに無視し。

 中身のないことの分かっている財布の中身を確認した。

 そして、十円チョコの存在もついでに忘れた。

「あのさぁ」

 養護教諭不在、ふたりきりの保健室で。

 お前は俺の足元に座ったまま足を組む。

 掛け布団が引っ張られて、お前の動きが俺に伝わる。

 気まずさ故の身じろぎも。

 全部伝わる。

「俺、まだ怒ってるんだけど、一応」

 サイドテーブルに放置されていた、俺に提供されたパック牛乳の続きを、お前は何の躊躇いもなく口に含む。

 パック牛乳の続きを。

 三日前の続きを。

「俺だって怒ってるよ」

「え、何でお前が怒るの」

 お前は心から驚いたように俺を振り見て、目を丸くする。

「完全にお前が悪いじゃん」

「いやそもそもお前が口出す話じゃないじゃん」

「口出すよ、そりゃ。怒ってるのは俺の方だよ」

「俺だって怒ってるよ、何俺が全面的に悪いみたいな言い方してんの」

「いや全面的に悪いだろ」

「はあ?」

 我慢できなくて。

 体を起こす、ベッドの上で。

「だからあ」

 そのまま上半身を立てると、お前の顔が思いの外近くて、少し焦った。

 腰の位置を後退させて、適切な距離を、

「何逃げてんの」

 距離を保つことは、許してもらえなかった。

 俺のワイシャツの裾を、ほんのちょっと摘まんだだけのお前に。

 俺の体は縛られた。

 お前はにやりと笑う。ぞくっとした。両方の意味で。

 お前の微笑みがあまりにも背徳的で、妖艶で。

 お前に俺の心境がばれてしまっているのではないかと心配で。

「俺はまだ怒ってるし、許すつもりはないよ、たぶん、一生。お前が自分の描いた絵を、俺の目の前で破り捨てたこと」

 俺は硬直したままで、何も言えずに、抵抗もできずにお前の動く口を見つめていた。

「好きだって言ったんだよ」

 心臓が跳ねる。

「俺はお前のあの絵を、好きだって言ったんだ。何で人が好きって言ったものをその場で壊すんだよ。おかしいだろ。何、嫌がらせ? 俺のことそんなに嫌い?」

 そうじゃない、と、掠れた声で辛うじて反撃に出る。

「お前の方がおかしいだろ。あの絵で好きとか。目が狂ってるとしか思えねぇよ。お世辞は求めてねぇんだよ。自分の絵がくだらないことも、自分がくだらないことも、俺がいちばん分かって」

「ねぇよ」

 遮られる。

「俺はお前の絵が好きだし、お前自身のことも好きだよ。俺の目が狂ってるならそれでもいいよ。お前の絵は俺みたいな狂った人間にはウケたんだよ。ってか別にウケなくてもいいじゃねぇか。狂っててもいいじゃねぇか。お世辞でもいいじゃねぇか。お前が描きたいもの描いたんだから。今の自分ができる最高の手段と最高の技術で描いたんだろう。破る必要性どこにあんだよ」

 俺は半ば――呆気に取られて聞いていた。

 こいつは、こんなことを言うやつだったの、か?

「ってまあ、これ、受け売りなんだけどさ。過去に俺が言われたことある言葉、そのまんま言っただけ」

 オチがついていた。

 ……待てよ、こいつがこれを誰かから言われたってことは。

「……お前も、絵とか描いてんの?」

 そう問うと――これは当然の問いだと思う――お前は、軽く頬を掻いて、

「お前って、本読む人だっけ」

 と訊いた。

「別に読まなくはないけど」

「そう、よかった。お前が目ぇ覚ますの待ってたら暇すぎて暇すぎて完結させちゃったわ。長いからSNSじゃなくてメールな」

「……は?」

 そのままケータイをいじりだしたお前は、ぶつぶつと呟きながら画面を操作する。

「……うわ、コピペで送ろうと思ったんだけど、携帯メールって意外と字数制限短いのな……五千文字とかまじかよ。もう、ファイル添付するわ」

「何文字なんだよ」

「二日で書いたからな。突貫だぞ。期待すんなよ」

「言い訳はいいから。何文字でも読むから。お世辞は言わねぇぞ」

「十二万」

「十二万!?」

 軽く文庫本一冊分じゃねぇか。

「送れたー」

 その言葉と、俺の尻のポケットでケータイが震えるのが同時だった。

「あ、待って! まだ見ないで! 俺、教室戻るわ! 俺のいないときに読んで!」

 お前が唐突に立ち上がる。ベッドのスプリングが浮き上がる。そのワイシャツの袖を掴んで引き留めるのは、今度は俺の番だった。

「駄目」

「…………」

「ここにいろ」

 お前が急激におとなしくなる。

「俺があの絵を破りたくなった理由分かったか」

「……俺はお前のためにこれ書いたから、お前の絵とは話が違ぇよ」

「それが同じだって言ったら?」

 声のトーンを一段落としてみる。

 お前の口から、文字にならない音が漏れ出る。

「俺が、あの絵を描いた動機もお前だ、って言ったら?」

「…………」

 俺が強く袖を引っ張ると、お前は素直にベッドの端に座り直した。頬を若干赤く染めたお前は、もう手を離しても逃げたりはしない。

 さて。

 ゆっくり読ませてもらうこととしよう。

 くだらない日常は。

 くだらない一日は。

 くだらない一週間は。

 くだらない人生は。

 くだらない俺らは。

 くだらなくないお前の物語は。

 まだ始まったばかりだ。

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