はじまり

私が20歳の誕生日を迎え専門学校を卒業する年に、とある事件が起きた。


その頃、父の被害妄想は更に悪化し、母や私を憎んでいるという態度を取ることが増えていた。

母が仕事で遅い時間に帰れば、


「職場のやつと浮気しているんだろう」


「オレという夫がいるのにいい身分だな」


「所詮お前も金が大事な腐った女だ」


などと、言い掛かりも甚だしい台詞を口にして罵ることが多かった。

勿論母はそんな事ないと言い返すのだが、反論されると腹が立つらしく機嫌が悪くなり喚き散らす。

自分で怒鳴っている内にどんどんヒートアップしていき、最終的に暴れだすというのが日常になりつつあった。


ある日の放課後、アルバイトが休みだったので友人達と街へ行き、夜になってから家に帰った。


母はまだ仕事中で帰宅しておらず、父は何時も通り居間でテレビを見ながら酒を飲んでいた。

私が日頃持ち歩いているバッグを片付けていると、父は日課となった被害妄想をぶつけてきた。


「どうせお前も、オレが死ねばいいと思っているんだろう」


「こんな時間まで外で何をしてきたのやら」


「母親が母親なら、娘も娘で尻軽だ」


吐き捨てられる言葉に憤りを感じ、私も母も不義はしていないと懸命に訴えるも、父は全く聞く耳を持たなかった。

また何時ものやつが始まったと辟易しながらも、父の機嫌が悪くならないように気を使いつつ、適当に相槌を打ったり否定したりして応対していた。


だが、その日はそれで収まらなかった。


父は私を散々罵った挙句、ふらりとキッチンに向かうと


「じゃあ、一緒に死のう。一緒に死ねば信じてやる」


そう勝手な事を言って包丁を取り出し、立ち竦む私に突き付けてきた。


死にたいと思ったことは何度もあるものの、いざ目の前に死の切っ先が突き付けられると途轍もない恐怖を感じた。

すぅっと背筋が凍りつき身体がガクガクと震えだしたが、同時に父の手にかかって死ぬのだけは絶対に嫌だという怒りにも似た感情が沸き立った。

私は煩いほど鼓動が高鳴るのを感じつつも、冷静を装って父を懸命に説得し、徐々に立ち位置を変えた。

そして、父の気が逸れた隙を見て玄関から飛び出した。

背後でタタっと足音が聞こえた時、父が包丁を持って追いかけてくると判断した私は、決して振り返らずに全力で駆け出した。

走るスピードを少しでも落としたら、父に掴まって殺される未来が見えるような気がした。


私は息を切らしながらも真夜中の住宅街を走り抜け、家にほど近いアルバイト先に逃げ込んだ。

店長には家庭の事情を少しだけ話していたので、私の顔を見て異変を感じたのか、咄嗟にスタッフルームへと匿ってくれた。

私を見失ったのか、そもそも最初から追いかける気などなかったのか定かではないが、父はアルバイト先までは来なかった。

心配してくれた店長には父の暴力が酷くて逃げてきましたと伝え、落ち着いてから母に電話をかけた。

母に詳細を話すと職場からアルバイト先まで迎えに来てくれた。


その日は、少し遠い温泉施設に母と二人で宿泊することになった。

これ以上父と一緒に暮らすのは無理じゃないかとか、このままだと何されるかわからないと母に訴えて話し合った。

そして、何時もの父の行動パターンから考えると酒が抜けた昼過ぎ頃が一番落ち着いているから、その時に話し合って別れるなり別居するなりしようと母は言った。

その言葉に安心はしたものの、長年一緒に暮らしてきた父を切り捨ててしまうことがほんの少しだけ悲しいとも感じた。


夜遅い時間になっても、初めて父から包丁を突きつけられた衝撃と、明日また家に帰るのが怖いという恐怖でなかなか寝付けなかった。

家に残してきた猫のことが気がかりで、何も酷いことはされていないか不安で、早く帰って抱きしめてやりたいとも思った。


寝付けないまま時間は過ぎ、家に帰ったら包丁を隠そうとか、もしもの時の為に猫が避難できるような場所を作らないととか、そんなことを色々考えつつ慌ただしい夜は更けていった。

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