知らなかったこと

中学生になってしばらくしたある日、母と一緒に役所へ行った。


役所での手続きは理由は覚えていないが、いろいろな書類を発行してもらい、あちこちの部署を周った。


その途中、母が手続きで席を立ち、私は1人で待たなくてはならない時間があった。

しばらくは大人しくしていたが、退屈した私は広げられている書類に目を落とし、そこに自分の戸籍についての書類があることに気がついた。

初めて見る自分の戸籍に興味を持ち手に取ってみると、全く予想していなかった事実が目がついた。


あるべき場所に父の名前がなかったのである。


一瞬目を疑いもう一度確認すると、そこには別の名前があった。

両親と一緒に何度か会ったことのある、母と少し年の離れた初老の男性の名前だった。


その初老の男性の家には、両親に連れられて何度か行った事がある。


当時の私が知る限り一番大きな家に夫婦2人で住んでいた。

動物が好きな人で自宅にうさぎを飼っており、触り方や餌やりの方法を教えてもらったり、学校の話を聞いてくれたりと、可愛がってもらった覚えがある。

奥さんも穏やかな優しい人で、大人同士の会話に入って行けず退屈していた私にお菓子をくれた。

私が小学生の頃は相手方の自宅へ泊まりに行き、両親も酒を酌み交わしつつ仲良く話していたので、てっきり遠縁の親戚だと思っていた。


その初老の男性の名前が、私の戸籍上で父の欄に記載されている理由が分からず、私はしばらく呆然としていた。


そうこうしている内に遠くに母の姿を見つけた私は、慌てて書類を元に戻し、何事もなかったように通り振る舞った。

母が戻ってきて再び役所での手続きを開始しても、私の頭の中は疑問符でいっぱいだった。


『お父さんは私と血が繋がっていない……?』


『血が繋がっていないからあんな事ができるの?』


そう考えると、今まで地面だと思っていた場所が地面ではなかったような心許ない不安が私を襲った。

今まで疑いもしなかったことが目の前に突きつけられ、どうしたら良いかわからなくなった。


戸籍を覗き見てからの数日間は、時間があればあれこれと考え込む日々だった。


戸籍の母の欄にはちゃんと母の名前があったため安心できたが、私と父と初老の男性との関係に悩んだ。


『初老の男性と母が結婚し、私が生まれた後に離婚。その後に今の父と結婚した?』


『今の父が本当の父だが、何らかの理由で初老の男性が書類上の父になった?』


など、様々な考えが浮かんでは消えていき私の頭を悩ませた。


手っ取り早く母に聞くという手も考えた。

だが、その事を母に聞くと悲しませるような気がして聞くことはできなかった。

書類を勝手に覗き見た後ろめたさもあったのかもしれない。


逆に、父に聞くという手は全く考えてはいなかった。

下手なことを言って怒らせると、私どころか母にまで危害が及ぶ。

仕事で疲れ切って帰宅し、更に家事までこなす母に、暴力や暴言が及ぶのは避けたかったのだ。


数日間悩んだ私が出した結論は、『知らなかったことにする』というものだった。


そもそも父が血の繋がった実親であってもなくても、性的虐待の事実は消えないのだ。

しかもそれは続いていて、私が父に逆らうことができない限り終わりはやってこない。

下手に波風立てて災難に襲われるくらいなら、最初から知らなかったことにした方がいいと思えたのだ。


ひとつだけ変わったことがあるとするならば、父が私を抱く時、父の心情を考えるようになったことくらいだ。


『もし私と血が繋がっているとしたら、実の子を抱くことに罪悪感はないのかな?』


『もし私と血が繋がっていないとしたら、家計を支え、面倒を見てくれる母を裏切っていることを申し訳ないと思わないのかな?』


いくら考えても互いの心なんて分からず、心を言葉で曝け出す関係でもない以上、私に分かることなんてなかった。

唯一共通しているのは、私も父も母を裏切っているという点だけだ。


余談ではあるが、今でも『私の実父は誰か』についての疑問は解けていない。

初老の男性は私が成人してから数年後に亡くなり、母に真実を聞く必要性を私が感じないまま今に至るからだ。


だから結局は、今でも『知らなかったこと』にしている。

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