事故

ある日、父が交通事故にあったという知らせが届いた。


他県に仕事に行った父が、自動車同士の衝突事故にあい大怪我を負ったという。


その話を聞いて私の胸の中に沸き起こった感情は、父が死んでしまうのではないかという足元が掬われるような不安と、このまま死んでくれたら開放されるかもしれないという仄暗い期待だった。

そう思った瞬間に、父の死を一瞬でも期待した自分の浅ましさに怒りを覚え、ごちゃごちゃの感情が涙となって溢れ出した。


母は少しでも早く父の元に駆けつけるため、不安そうな表情をしつつも出向く為の支度をしているのに、娘の私が立ち尽くしたまま父の死を願うなんて…と不甲斐ない自分を責めた。


住み慣れた地元から離れ他県の病院に出向いた私と母は、病院のベッドで父と対面した。


父は見るからに大怪我といった感じではなかったが、打ち所が悪く、神経を圧迫してしまったらしい。

担当医の話によると、今は身体の一部が麻痺しているが、リハビリ次第で日常生活は過ごせるようになるとのことだった。


命にかかわる怪我ではなくほっと胸をなでおろしている母の隣で、私はぼうっと考え事をしていた。


父が助かってよかったという思いもあったが、リハビリ次第ではまた何時もの生活に戻るのだ。

それでも、ある程度回復するまではあの行為をしなくてもいい…そう思うと、嬉しいような残念なような複雑な心境だった。


だが、そんな私の気持ちを裏切って事態は少しずつ悪化し始めた。


父の看病とリハビリのため、母は仕事を変え、私は小学校を転校して他県に移り住んだ。

病院に歩いていける距離に賃貸物件を借り、母が仕事で遅くなる時は私が父の看病とリハビリを手伝うようにした。


最初のうちは父の舎弟と言われる人達や仕事仲間がお見舞いに来てくれていたが、時間が経つにつれ来客も減った。

更に父の仕事は立ち行かなくなり会社を辞めざるを得なくなると、来客どころか連絡が取れない人も増えた。


父は思うように動かない自分の身体と辛いリハビリ生活に嫌気が差したのか、酒を飲んでいないのに病室で物を投げたり、暴言を吐く場面が増えた。

そうかと思うと、逆に弱々しく私に語りかけ、病院内にも関わらず口淫することを求めてきたりもした。


幸いにも、最悪にも、父は個室に入院していたため、誰も来なくなった部屋には私しか居ないことが多かった。


「お前はお父さんを裏切らないな?」


「お父さんが愛しているのはお前だけだ……」


そうやって縋り付いてくる父の手を跳ね除けることなどできず、私は求めに従うしかなかった。

相変わらず父が怖かったせいもあるが、心の何処かに、事故で身体が不自由になってしまっただけではなく誰からも相手にされなくなった父への同情もあった。


それに、私が言うことを聞くいい子であればあるほど、父は暫くの間機嫌良く過ごしてくれるのだ。


機嫌のいい時の父は母に優しい言葉を掛けてくれたり、私を撫でてくれることも多い。

暴言に心を痛めたり、いつ物を投げつけられるかとハラハラしなくてもいいのだ。

普通の親子のように過ごせる事が、幼い私には何より幸せだと思えた。


だから、私が父の言うことを聞くだけで全てが丸く納まるなら、きっとその方がいいのだと感じていた。


父の治療とリハビリが終わる数ヶ月間、私は数え切れないほど求めに応じた。


だが、父が退院して新しく借りた家に帰ってからも、それは続いた。


父の身体はリハビリで日常生活を過ごせる程度には回復したが、本人が仕事をしなくなったせいだ。

ずっと家に居たかと思うと、時折パチンコに行って毎日を過ごす事が増えた。

逆に母は、父の代わりに家計を支えるため、ますます仕事にのめり込むようになった。


そうなると、私が学校から帰ると父が家にいる機会も増え、私が恐れていたあの行為をすることが増えた。


取り巻く環境が暗く淀んでいくのを何処か遠くで感じながら、私は父が求めるいい子であり続けるしかなかった。

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