3:道標の在り処(3-4)
「……お、お疲れ様でした……?」
春日江と合流した直後。例の屋上で落ち合うことになった阪田は、先程のビルの倒壊で巻き上がった土埃に塗れ、疲れ切った表情をした一同――疲労していたのはその時階下に居た二人だけで、主犯である春日江は一人涼しい顔をしていたが――を見て、目を丸くした。
「ああ、ありがとう!」
「……」
その表情に気付いていないのか、それともただ気にしていないだけなのか、春日江は向けられた労りの言葉にただ晴れやかな笑みを返した。――先程異形を殺した時に飛び散ったのだろう、上着には異形の体液がべっとりと付着していて、酷い染みになっていたが。首から上だけを見せられれば誰もそのような惨状の面影は感じないであろうと思わせる、ひたすらに爽やかな笑顔だ。
阪田はそれと隣に立つ柊の憮然とした表情を交互に見比べて、何か言いたげな顔で口を開きかけたが――やはり詳細は聞かないでおくことにしたらしい。それ以上春日江の恰好には触れることなく、誤魔化すように曖昧な苦笑いを浮かべて口を開いた。
「ひ、柊くんと鎧戸くんもお疲れ様……、ごめんなさい、勝手に春日江くんに連絡しちゃって」
「それはいいけど、別に」
柊は落下防止用に設置されたフェンスに凭れかかったままで無愛想に答えると、ちらりと階下の景色に目を遣った。錆びた金網越しに街の様子を一瞥すると、すぐにまた阪田の方へと視線を戻す。
「それより、こっちで何か変わったことは無かった?」
「ううん……下の通りは一応見ていたけど、僕には特に何も見えなかったかな。……途中、すごく大きな音はしたけど、それは場所的に春日江くん達かなあと思って……」
自信なさげに首を傾げる阪田の言葉に、柊が黙って頷く。彼が聞いたという音は恐らく先程異形の身動ぎや春日江の攻撃でビルが破壊されたときのものだろう。
その戦闘も片付いた今となっては、廃墟の街はすっかり元の淡泊な静寂を取り戻している。夏生も彼らに倣ってフェンスの向こう側の様子をじっと観察してみたが、見た限りでは最初に此処を訪れた時と変わり映えしない景色が広がっているようだった。異形らしき影は何処にも見当たらず、勿論ここにいる四人以外の人影が目に飛び込んでくることもない。
返答を聞いた柊がいかにも億劫そうに溜め息を吐いた。
「……ってことは、」
「報告にあった個体の中で、まだ発見できていないのは一体――柊達の辿ってきたルートにも姿がなかったなら、残りはやはり工業団地跡の方か、小学校のある地域だろうね」
春日江はごく自然な発声で柊の言葉を遮ると、満面の笑みで先を続けた。
「此処で待っていても埒が明かない。こっちから打って出るべきだろう」
「それはそうだけど……正確な居場所が絞れてるわけじゃない。それなら最低でも――」
「……ちょっと待ってくれ」
ふと思い立って会話に割り入ると、それまで淡々と会話していた三人の視線が一気に自分に向けられたのが分かった。夏生は思いの外注目を浴びてしまったことに驚いたが、すぐにその原因に思い当たる。――そういえば、この屋上に着いてから今の今まで一度も言葉を発していなかった気がする。
ずっと脇の方で黙っていた新人が突然喋りだしたから驚かれたのかもしれない。慣れない視線を少し居心地悪く思っていると、二度言葉を遮られた柊が「何」と苛立たしげに問いかけてきた。
その声の冷たさに我に返って、夏生は漸く先程の会話に対して湧いた疑問を口に出すことが出来た。
「……残りは二体じゃないのか?」
顔を上げて尋ねてみると、三人は一瞬質問の意味を理解できないような顔をしていた。
「まだ一体倒しただけだろう、……放送では、全部で三体って」
――今の言い方では分かりづらかっただろうか。此方に向けられたきょとんとした表情に自分の伝達能力不足を感じて、慌てて言葉を付け加える。
地下で聞いた放送の声は、A-1地区にて三体の異形の出現を確認したと話していたはずだ。先程春日江がとどめを刺した一体を除くとしても、この地区に侵入した異形はまだあと二体残っていることになるのではないだろうか。
「だから、計算が合わないんじゃないかと思ったんだが……」
伝わっただろうかと三人の顔を見回してみると、柊は何ともいえない渋い表情をしていた。その微妙な反応に心の中で首を傾げていると、暫く黙っていた阪田が何かに気が付いたように「あ、」と声を上げる。
「鎧戸くんはまだ知らなかったんだっけ。ええっと、それはさっき春日江くんが……だったよね?」
「うん」
阪田から恐る恐るといった様子で話を振られ、春日江が微笑みながら首肯する。
「……どういうことだ?」
「その一体なら君達と合流する前に私が殺してきたから、残りは一体で合っているよ」
「は……?」
――春日江は先行していると地下で聞いた男の声で聞いてはいたが、まさか既に討伐を済ませているとは思わなかった。予想外の返答に固まっていると、春日江は青い瞳を瞬かせて無邪気に笑った。
「迅速な行動はヒーローの第一条件だからね! 柊と阪田君には通信で知らせたんだけれど、聞いていなかった?」
「言うのが遅れてごめんなさい! なんていうか……いつもこういう感じだったから、ついうっかり、改めて伝えるのを忘れてて……」
慌てたように頭を下げてくる阪田を「別にいい」と宥めながら、夏生は一連の話に対する三人の態度について考えていた。
春日江が一人で異形を葬り去ったということに対して、当事者である春日江や場慣れしている柊はともかく、一か月前に『特務機関』に来たという阪田までもが大して驚いた様子を見せない。つまり彼のこういった行動は、そこまでこの組織にとって日常的な行為だということなのだろう。――新人である夏生にとっては面食らうことばかりだが。思い返せば昨晩初めて会った時も、不意を突いたとはいえ単独で異形を葬り去っていたわけだし――そういえばあの時も、この男は一人で自分を捜し歩いていたのだった。
「……で、どうするの。残りの一体の居場所が確定してない以上、どっちかに決め打って全員で動くのは悪手だと思うけど」
深い溜め息を吐いた柊が話題を戻す。少し猫背になった拍子に、体重を掛けられた金網が小さく軋んだ。
「追加の情報は?」
「さっき蕪木さんに聞いたけど、監視塔からは音沙汰ないみたい。……昨日のトラブルからまだ完全に復帰してないんだろうね」
柊は問いかけにいかにも面倒臭そうな顰め面で答え、「迷惑な話」と呟いて首を振った。トラブルというのは地下でも言っていた監視塔に任務放棄者が出たという話だろう。疲弊しきり、今すぐにでも帰りたそうな柊の表情とは反対に、春日江は大きな瞳を益々爛々と輝かせて明るく笑った。
「それなら、此処で一度二手に分かれよう! 組み分けは――私はまた一体三でもいいけれど、」
「それは俺が嫌だ、面倒臭い」
柊は春日江の案をぴしゃりと切り捨てると、「団地跡に二人、小学校跡に二人」と静かに代案を出した。その冷え冷えとした声にも、春日江は特に気分を害した様子もなく「いいよ」とにこやかに笑いながら頷く。
――自分は境界外の地理については全くの素人であるし、ここはこの場所での振舞いに慣れている柊達に任せておくべきだろう。そう考えた夏生は、ひとまず二人のやりとりを黙って見ていることにした。
「俺と春日江は分かれるのが妥当でしょ、……残りの一体を見つけ次第、もう片方にも通信機で連絡するってことで。だから、組み分けは……」
「なら、私が新人君を引率するよ」
「!」
静観しようと息を吐いた傍から自分の話が出てきたことに驚きつつも、夏生は声を出さずに先行きを見守ることを決める。どちらに付くことになろうと、この中で一番の下っ端が自分であることには変わりない。どの道誰かの指示に従って動くことは決まっているのだから、その先達がどちらかということに関してはあまり拘りがない。
春日江の提案内容が予想外だったのか、柊は少し目を瞬くと静かな声で聞き返した。
「……お前が鎧戸を?」
「うん、任せて」
「……。それは……」
どうしてか戸惑ったように返事に窮した柊の顔を真っ直ぐに見据え、春日江は駄目押しでもするように満面の笑顔で続けた。
「私が失敗したことなんて、今までに一度もないだろう?」
「……」
柊はまだ何か思案しているようだったが、春日江はそれ以上彼の言葉を聞くことなく「決まりだね」と明るい声を上げた。その様子に柊も最早反論するのを諦めたらしく、米神を指で押さえながら深々と溜め息を吐く。
「……初日で新人が行方不明、とかは勘弁してよ。あの人達に何言われるか……」
「安心してくれ、新人君のことは私がしっかり守るから!」
結局、春日江が提案した組み分けで捜索することに決定したらしい。柊と組むことになった――つまり、春日江と共に行動しないことが決まった阪田がほっとしたような表情で頷いていたのが少し気にはなったが、夏生にも特に異論はない。
「私達が団地跡へ行くから、柊と阪田君は小学校跡を見てきてくれ」
「……分かった。そっちが当たりだったらその場で連絡して」
渋々といった様子で了承した柊に笑顔で頷き、春日江はすぐさま屋上の隅――非常階段の方へと向かって歩き出した。
「それじゃあ二人とも、また後で。新人君は私の後に付いてきて!」
「うん、春日江くんも気を付けて……」
「ありがとう、君もね!」
阪田から掛けられた声に軽く片手を上げて返事をすると、春日江はカンカンと小気味良い音を立てながら一足早く階段を下りていった。まるでスキップでもしているかのような軽やかさと陽気さだ。
「鎧戸くんも。えっと、本当に気を付けてね……」
「……ああ、お前達も」
一連の様子を突っ立って眺めている間に、階段が軋む金属音はいつのまにか止んでいた。春日江はもう既に階段を降り切ってしまったようだ。――あの調子だと、建物の下で待っていてはくれないかもしれない。ぐずぐずしていると置いて行かれてしまいそうだ。
そろそろ自分も行かなくてはと夏生が足を踏み出した瞬間、背後から「鎧戸」と抑えた声で呼び止められた。
「何だ、柊」
不思議に思って後ろを振り返ると、柊は何処となく苦々しい表情で此方を見据えていた。
「……もし団地跡で異形と遭遇したら、こっちにも連絡すること。春日江にも言ったけど、あいつが忘れてたらお前から言って」
「分かった。……それだけか?」
「それと、……逸れたらお前一人じゃ戻れないでしょ、あれから目を離さないで」
続けられた言葉に夏生が黙って首肯すると、柊は「でも、」と静かな声で付け加えた。
「何も、真似はしないで」
「それで、新人君」
重力を感じさせない軽やかな足取りに合わせて、くすみのない金色の髪がゆらゆらと左右に揺れる。迷いなく前へ前へと歩を進める男の後を追いかけながら、夏生は廃墟の街を通り抜けていた。
先程よりも日が落ちてきている。室内であれば自然光だけでは暗く感じられるような時間だろうが、住む人の消えた『境界外』の街では、辛うじて原型を留めた民家の窓にも明かりが灯ることはない。夕暮れの色に染まりつつある静かな通りの中で、地面に積み重なった瓦礫を踏みしめる靴の音だけが小さく響いていた。
「……鎧戸だ、鎧戸夏生」
「鎧戸君!」
「ああ」
今は異形の姿が見えないとはいえ、此処はまだ境界の外なのだ。大声を出すのは止めておいた方がいいのではないだろうか。そう考えながらも本人に尋ねる気にもなれず、声を抑えて返事をする。
「そういえば資料でそんな名前を見たような気がするね、今からはそう呼ばせて貰うよ」
「……」
男はうんうんと笑顔で頷いているが、夏生は上手く返す言葉を思いつけずに黙り込んだ。
先程の唐突で高らかな自己紹介から――というよりは昨晩初めて出会った瞬間からずっと、夏生は春日江という人間を掴みかねていた。
これまでの人生で他人と接する機会が多くあったわけではないし、観察力が特別優れているというわけでもない。そんな自分に一朝一夕で初対面の人間の深いひととなりが分かるとは思わないが、それにしても彼に関しては理解の範疇を超えることが多すぎるように感じる。
一点の曇りの無い笑顔に、朗らかすぎる喋り方、それなのにまるで此方の話が通じていないような言動。それら全てが常に一定のものとして保たれていて、少しも揺らぎが見えないこと。何事にも動揺も怒りもしない態度には言いようのない不自然さを感じてしまうのに、何かを取り繕ったり隠しているようにも見えなかった。
性格に裏表がありそうだとか、そういった話ではないのだけれど――率直に言って、夏生には彼が何を考えているのか、何をどこまで本気で言っているのか分からない。
彼が頻繁に口にしている――『ヒーロー』という言葉にしてもそうだ。生まれてから十七年間をこの街で過ごしてきたが、そんな単語を耳にしたのは今日が初めてだった。響きからすると和製英語なのだろうか。先程の発言の直後に質問してみれば良かったのだろうが、結局訊きそびれてその機会を逃してしまった。
『真似はしないで』と、別れ際に柊から釘を刺されたことも少し気に掛かっている。頼まれても真似しようもない気がするが、わざわざ言葉にしたということは何かあるのかもしれない。
「……」
――何となくだけれど、柊は俺と春日江を組ませたくなかったのではないか。
先程の柊の態度から、夏生はそんなことを感じていた。直感的に思ってしまっただけで、特に強い確信があるわけではない。何より、自分と春日江が異形の討伐に向かうことで柊が困る理由が全く思いつかない――
そんな思考に没頭しながら無言で歩を進めていると、前を歩いていた春日江が唐突に口を開いた。
「さっきは待たせて悪かったね、鎧戸君」
さっき、というのは、屋上で組み分けを決めた時のことだろうか。
「いや……こっちこそ、お前達に任せきりで」
「私と柊の方が君より長く此処に居るし、何より私はヒーローだからね! 存分に頼ってくれ」
春日江は朗らかで平坦な声でそう宣言すると、完璧に整った微笑を浮かべて此方を振り返った。その表情の明るさはやはりこの状況に似つかわしいものであるとは言えず、瓦礫に埋め尽くされた灰色の景色からは少し浮き出て見える。
「……それより、俺と一緒で良かったのか? 一人で行きたかったんじゃ……」
「勿論構わないよ。私は二人でも四人でも、二手に分かれても分かれなくても、別にどちらでも良かったんだ。一方に決め打って当てを外したとしても、もう片方の場所に急げばいいだけだからね」
「それはまあ、そうなのか……」
……思いの外、大らかな考え方をしているものだ。
意外に思いながらも相槌を打つと、春日江は何処か独り言のような調子で続けた。
「柊は無駄足になるのを避けたかったんだろうけれど、私の足なら大した問題じゃないのに。――彼は優秀ではあるけれど、慎重すぎるきらいがあるから」
「……それは、……少し、分かる」
数十分前の異形との戦闘を思い返し、夏生は思わず素直に頷いた。まだ出会って数時間しか経っていないが、柊にそういう傾向があることは何となく感じていた。新人である自分を異形から遠ざけようとしていたことといい、少しでも危うくなると迷いなく退こうとする姿勢といい、彼は夏生の目から見るともどかしく感じてしまう程度には慎重だ。
夏生が同意すると、春日江は一瞬瞠目した後に少しだけ口元を緩めた。
「だろ?」
その笑顔が先程よりも何処となく柔らかく自然なものに見えて、夏生は自分の中にあった彼への警戒心が少しだけ薄れるのを感じる。
いくら少し風変わりな性格で、『一人目』の強化人間であるとはいえ、年の頃は自分とさほど変わらない青年なのだ。単に彼の雰囲気がこれまで自分の周囲に居た人間と違いすぎたため不自然に思えてしまっていただけで、慣れれば意外と付き合いやすい人間なのかもしれない。
「……。春日江」
「何?」
「……その、言い忘れていたんだが」
――そういえば、春日江に言わなくてはならないことが一つあった。言い忘れていたというよりは、彼の空気感に何となく圧倒され、タイミングを逃し続けて言い出せないままでいたことだが。しかしこうして彼と二人きりで会話して、緊張も少し薄れた今ならば改めて切り出せる気がした。
「悪かったな、昨日は」
昨晩の異形との遭遇の後、別の個体に襲われかけた所を春日江に救われた夏生は、彼と少しだけ言葉を交わすと貧血で気絶してしまった。その後の記憶は途切れていたが、恐らくは春日江が意識を失った自分を機関まで運んでくれたのだろう。
「礼も言わずに倒れて。……重かっただろう」
人間一人程度の重量など彼には大した負担ではないことは分かっているが、面倒を掛けたことには変わりない。今更ながら謝罪の言葉を吐くと、春日江はにこにこと微笑んだ顔のまま首を横に振る。
「何だ、そんなことか! 気にしないで」
鷹揚な態度で謝意を受け入れると、春日江はそのまま朗らかな声色で言葉を続けた。
「この身体に慣れない内はよくあることさ。迷惑だなんて思わない」
「……、春日江……」
予想していたよりもずっと寛大で穏やかな返答に、夏生は不覚にも少し感動してしまっていた。
――俺は、この男のことを誤解していたのかもしれない。会って間もない人間のことを穿った目で見過ぎていた。たまに強引な所はあるように思えるけれども、根はきっととても親切な人間なのだ。
「輸血には少し手間取ったようだけれど、結局上手く行ったようだし。特に問題はないよ」
「そうか……」
「それに、」
礼を言おうと口を開きかけた所で、春日江は事も無げに続けた。
「君を機関まで運んだのは私ではないしね」
「……。お前じゃないのか?」
「? うん。私はあの後すぐに次の現場に向かったから、君を連れて帰ったのは柊か阪田君じゃないかな?」
「……」
「ああ、もう日が暮れそうだね。少し急いで歩こうか!」
「……」
……自分以外が負った面倒に、『気にしないで』も何もないのではないだろうか。
――やっぱり、こいつは何処かしらずれている気がする。数秒ごとに二転三転する男への印象を胸に抱えながら、夏生は黙って夕闇に揺れる金糸の髪を追った。
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