3:道標の在り処(3-3)
薄暗い路地にガシャンと派手な破壊音が響き渡るのと同時、夏生は背筋に冷たい氷が滑り落ちるような感覚を覚えた。これまでは微かにしか感じていなかった『異形』の気配――殺気が、無人の街の静謐を破る音を契機にぶわりと増幅する。
揺れる空気、逸る足音、地に落ちる影。この身体になる以前よりも明らかに鋭くなった五感の全てが、獣のような速さで近付いてくる外敵の存在を告げていた。
数十秒も経たない内に、路地の入口に見覚えのある赤黒い巨体が現れた。異形はそこで一度立ち止まったが、すぐに路地の奥までそろりそろりと歩いてきて、ぎょろりとした目玉の付いた頭部を左右に揺らして辺りを窺った。どうやら先程の音の原因を探っているようで、アスファルトの上に散乱した窓ガラスの破片に鼻を近づけてしきりに臭いを嗅いでいる。まるで生ゴミを漁る野良犬のような仕草だった。
「……」
『異形』を狭い路地に誘き寄せる所までは予定通りに事が運んでいる。
押し黙って次の行動を見守っていると、柊は窓枠に足を掛けたまま、腿のベルトに装着された布製のケースに手を伸ばした。地面に目を向けながら路地を徘徊する巨体を尻目に、音を立てることなく刃渡りの長いナイフを一本取り出す。曇りも汚れもないその刃の銀色は、夕刻の薄暗さの中でも不思議と控えめな輝きを放っていた。
一分ほど息を潜めて待っていると、異形は早々に音の原因を探るのを諦めたらしい。先程まで熱心に調べていたガラスの破片にも興味を失ったようで、窮屈そうにゆっくりと身体の向きを変えると、来た道をまた歩いて戻っていく。
歩みを進める巨体の姿が、丁度此方が待機していた窓の真下に差し掛かったその瞬間。
柊は音も無く窓辺から飛び降りると、空中でナイフを振りかぶり怪物の無防備な背中を急襲した。外光に反射して煌めいた刃が、異形の背中――人間で言えば襟首に当たる部分に深く突き刺さったのが見える。
「ッアア――!?」
「……ッ!」
ぐっと力強く差しこまれた刃は次の瞬間勢い良く抜き取られ、首筋から大量の血液が噴き出した。
「――アァア――!」
柊はその返り血を頭から被りつつも、異変を排除しようと伸びてきた鋭い爪が届くより前に地面に飛び降りた。少し離れた位置に着地すると、背後を振り返ることもなく路地の奥へと駆け出す。
この狭さでは、此方が助走に使える距離もさほど長くない。柊は一歩、二歩と地面を蹴り上げて斜めに踏み切り、三歩目で放置されていたゴミ箱を足場に高く跳躍すると、向かいの建物の外壁に向かって手を伸ばした。その先にある窓枠に手を掛けると、前転するかのような要領で二階の窓に飛び込む。
その後を覗き込むように異形の赤黒い頭が窓に押し入った瞬間、その隣の窓から二本のナイフを両手に携えた影が飛び出してくる。柊は二本の刃を異形の背に突き立てると、その柄に全体重を預けるようにして身体を宙に投げ出した。
深く突き刺さったナイフを強く掴むと、力を込めて皮膚を抉り取りながら赤黒い身体を滑り降りる。加重と勢いによって傷口は下へ下へと広がっていき、硬質な皮膚がギリギリと摩擦音を立てて直線状に割れていく。二筋の傷口からは赤黒い体液が溢れ、どろどろと皮膚を流れて地面に滴った。
「アア――」
呻き声を上げた異形が窓から頭を引き抜いたのとほぼ同時に、その背中を降りきった柊が地面に着地した。異形の背中に突き刺していたナイフを手早く引き抜くと、駄目押しとばかりに無防備な後ろ脚を二、三度切りつける。
「ガアアッ!」
痛みに背後を振り向いた異形は、漸く視界に自分に危害を加えている男の姿を捉えた。察知した柊が飛び退くと、数秒前まで彼が立っていた地面に勢い良く腕が叩き付けられる。
柊は空振りをした巨体の横を素早くすり抜けると、そのまま先程とは反対の方向に駆け出した。
「……っ」
階下で繰り広げられる戦闘を一人で眺めながら、夏生は押し黙って拳を握りしめた。
この高さからただ何もせずに路地を見下ろしていると、人間と『異形』の体躯の大きさの差を歴然に感じる。咄嗟に先程の柊の指示も無視して加勢したいと考えてしまったが、武器も無ければ使用できそうなものを探してくる余裕も無い。
「……」
手持無沙汰で周囲を見回すと、ふと目の前の窓の――ガラスが抜かれたアルミ製の枠に目が行った。
施工者に心の中だけで謝って、両手でサッシを思い切り引っ張ると、思いの外簡単に窓枠を取り外すことが出来た。力を込めて折り曲げて捻ってみると、棒状の金属の塊になる。……鋭さの欠片もないただの鈍器だが、素手よりはまだマシだろう。
少しの助走を付けて床を蹴ると、躊躇いなく三階の窓を飛び出して重力に身体を預ける。六月の生温い空気の中を落下しながら、鉄棒を握り締めた腕をどうにか思い切り振り上げて――ぎこちないのは仕方ない、空中で体勢を整えた経験なんてあるはずがないのだから!
――真下に見えた赤黒い背中に着地して、ただ力任せに殴打する。強く叩き付けた即席の武器は異形の硬い皮膚に深くめり込んだように見えたが、直ぐに反動で両足が再び宙に浮いた。そのまま強く押し返されて、武器ごと突き飛ばされるようにアスファルトの地面に転がり落ちる。
「ァア――……」
背中を強かに打ちつつも体勢を立て直すと、丁度此方に向き直った異形の真っ赤に充血した瞳と目が合った。低い唸り声が響いて、大きく開いた口から無数の鋭い牙が見える。
「ガァアアア――、……ッ!」
牙を剥き出しにした巨体が此方に飛び掛かろうと吠えた瞬間、その頭部から突然赤黒い体液がドボリと噴出した。
「ッ、余計な無茶しないでっての……!」
突然のことに一瞬目を見開いていると、異形の頭に突き刺さったナイフの主――柊が息を切らしながら怒鳴りつけてくる。どうやら先程使っていた二本のナイフの内一本を異形の背後から投擲してくれたらしい。
「悪い、反射で」
心配になって、と付け加えるのはやめておくべきだろう。どう考えても火に油を注ぐだけだ。
脳天に見事に突き刺さったナイフは、しかし致命傷となるには少し深さが不足していたようだった。痛みに呻いた異形が水に濡れた獣のように頭を激しく振るったことでナイフは弾き飛ばされ、カランと軽い音を立てて地に落ちる。
「ウゥ――!」
低い唸り声を上げた異形は、攻撃の矛先を此方から柊に変更した。そして彼に飛び掛かろうと、後ろ脚に力を込めて跳躍しようとした所で――べしゃりと前のめりに転倒する。
うつ伏せで倒れ込むような姿勢になった巨体は、不自然に伸びきった二本の脚をジタバタとむず痒そうに揺らしている。どうやら後ろ脚を自由に動かすことが難しくなっているらしく、立ち上がろうとしては失敗してずるりと地べたを這う羽目になっていた。
「……あれは」
「だから、見学してろって言ったでしょ」
いつのまにか息を元通りに整えていた柊が、返り血で汚れた頬を拭いながら舌打ちをする。ズルズルと前脚だけで這うように近付いてきた巨体を壁際に飛んで避けながら、此方に向かって低い声で叫んだ。
「さっき後ろ脚の腱を切った、から! 暫くはちゃんと歩けないはず……」
「ガァア――!」
「ッ! あの人はどうせロクに説明してないんだろうけど……!」
柊は赤い瞳をギラギラと光らせながら噛み付いてこようとする異形の攻撃を躱し、その横をすり抜けて走りながら無防備な脇腹を切り裂いた。
「っ『異形』の急所は脳幹と心臓――、一度で確実に仕留められるなら、そっちを狙った方が良いだろうけど……それよりは失血死を待つ方が安全」
異形は小さく呻き声を上げ、後ろ脚を引きずりながらも身体の向きを一回転させる。逃げた柊の背中をどうにか捕えようと此方に伸びてきた赤黒い腕を、夏生は反射的に先程調達した鈍器で叩き落とした。
「……ま、時間が経てばあっちの怪我も治っちゃうのは難点だけど!」
「治る……」
此方に向かって突進してきた巨体を二人で左右に分かれて避けながら、柊が早口でまくしたてた言葉を頭の中で咀嚼する。
肌が切れても塞がる、骨が折れても戻る。そういった、どこまでも『都合の良い』身体を持っているのは此方だけではないということか。あの個体が未だ柊に傷つけられた後ろ足を引きずって歩いている所を見るに、同じような性質を持っているとしても、傷が完治するまでの速度は奴らの方が遅いのかもしれないが。
大怪我するリスクを負ってまで急所を狙うことはしない。動きを鈍らせてから、重ねて細かい手傷を負わせていくことで血液を失わせ、少しずつ体力を削いでいく――それが今回柊の考えていたことだったのだろう。短時間で一気に片付けるつもりがそもそも無かったなら、此方の心配は確かに杞憂だったのかもしれない。
「悪かったな、……手間をかけた分は、」
壁と異形の身体の間をすり抜ける合間に、地面に落ちたままになっていたナイフを咄嗟に拾い上げた。先程の攻撃の際に付着した血液が刃に薄く膜を張っている。切れ味はあまり良くなさそうだが、この際それはどうでも良かった。鋭さが足りないなら、力ずくで圧し切ればいいだけだ。
「手伝わせてくれ、これから!」
「……ああもう、勝手にすれば!」
硬い皮膚を力任せに削ぎ落としながら叫ぶと、赤黒い巨体の向こう側から呆れたような声が返ってきた。
二つのビルに挟まれた狭い路地――このような立地では、小回りが利く此方の方が有利に戦えるというのは本当らしい。
時間にして数分間だろうか、それとも数十秒しか経っていないのか、目の前の敵の皮を削ぐのに夢中になっている頭では判別がつかなかった。素早く襲いかかってくる爪や牙を避けながら、ナイフを押し当てて硬い皮膚を傷つける、刺した傍から自己再生力で塞がっていく傷をまた切り裂く。
異形が一人の所作に気を引かれている内に、もう一人が背後から急襲する。そのようにして二人がかりで攻撃を繰り返す内に、異形の動作は全体的に鈍くなってきたようにも感じる。
表面上の傷が塞がろうとも、一度失った血液は体内には戻らない。柊が最初に負わせた後ろ脚の傷は少しずつ癒えてきてしまったようだが、それでも先程より確実に遅くなっている反応速度に、夏生はこの戦いの終わりを予感し始めていた。
「鎧戸、上!」
「……っ」
空気を切り裂いて眼前に迫ってくる鋭い爪の速度も、目視で――強化人間の視力ではの話だけれど――難なく確認できる程度には落ちていた。此方に近付いてくる凶器の軌道を見定めると同時に、一先ず地面に伏せて躱す。直後に頭上を通り過ぎていった異形の右腕は夏生の髪の毛を少し掠めたが、身体に傷を負わせるには至らなかった。
此方が危なげなく避けたことに、少し離れた場所で刃を構えていた柊も安堵とも呆れともつかないような顔つきで溜め息を漏らした。が、――その表情が不意に大きく歪む。
「……げ」
「……?」
何だ、と尋ねるより前に――背後から響いてきたバリバリという破壊音が耳に届いて、本能的に状況が悪化したことを理解した。
「ガッァア――……っ!」
殺気だった勢いで右腕を振りかぶった異形は、夏生という獲物を逃したにも関わらず――先程からの戦闘によるダメージの蓄積で疲弊しすぎていて、踏み止まるだけの判断力と体力が残っていなかったのも良くなかったのだろう――攻撃のスピードを緩めることが出来ず、よろけてその大きな身体ごと廃ビルの外壁に突っ込んだのだ。
激突した巨体は元より脆くなっていたビルの外壁を勢い良く突き破り、使い手不在の建物を長年支えていた柱の幾本かを難なくへし折っていく。割れるような不快な音が路地中に響いて、破壊された外壁の破片が宙に舞った。
満身創痍の異形は、一瞬自分の置かれた状況が理解できないでいたようだ。誤って廃ビルの外壁に突っ込んだ時の体勢のまま、建物の残骸の中で数秒硬直していたが、すぐに自分が自由に動ける範囲が増えたことに気付いたらしい。
「アアアアア――!」
素早く起き上がって瓦礫の上に乗り上げると、どこにそんな体力が残っていたのか、地の底から響くような声で力強く咆哮した。先程よりもずっと力を取り戻したように見える赤い瞳が、此方を強く鋭く睨んでいるように感じるのは錯覚ではないだろう。
異形はまだその場から動いてはいなかったが、漸く傷が癒えたらしい後ろ脚は犬のようにたしたしと地面を蹴っている。これは恐らく、というか確実に――此方に飛び掛かる前に勢いをつけている段階だ。
「……柊、これは」
「……いい、一回退いて立て直す!」
「今からか!?」
異形から躊躇なく背を向けた柊に無理矢理腕を掴まれ、大通りの方向に駆け出しながらも、夏生は強く後ろ髪を引かれるような思いだった。
「急がば回れって諺知らないの!?」
「っそれはそう、なんだが……!」
確かに、この開けた場所で殺気だった相手に突っ込めば、此方も多少のダメージが返ってくる可能性は高い。――が、それでもきっと、ここで逃げずに踏み込めば、殺せるであろうという予感がある。今ならとどめを刺せると、直感はそう告げている。
……けれども、
「……わかった!」
戦うのも自分、下手を打って死ぬのも自分一人だった昨晩とは訳が違うのだ。勝手な感情に基づいた判断で、他人の命まで余計な危険に晒すわけにはいかない。今更だが、ここは柊の判断に従うべきだろう。
路地を全速力で駆け抜け、二人は路地の入口――当初異形が徘徊していた大通りまで一気に走り出た。目前に広がる二車線の道路には、裏路地にあったような視界の悪さ、狭苦しさは何処にもない。その開放感こそが、異形との遣り取りに置いては此方の命取りになりかねない要素なのだけれども。
「……っ何処に行けばいい?」
「とりあえず、さっきのビルの……、……」
夏生が尋ねると、柊は一度足を止めて路地の方を振り返った。つられて夏生も背後を確認する。異形は未だ近くまで迫ってきてはいなかったが、先程と同じ瓦礫の上から此方をじっと見つめていた。
「どうした、行くなら早く……」
このまま見逃してくれるならばそれはそれで良いのだけれど、此方を睨みつける赤い瞳から溢れ出る殺気からしてとてもそうとは思えない。
なるべく早く此処を離れるべきだろう。路地の方を視認したきり立ち止まったままの柊を急かすと、何故か不自然に冷えた声が返ってきた。
「……いや、やっぱりちょっと待った」
「は、何……、っ!?」
突然妙に冷淡になった柊の声に疑問を感じ、何事かと尋ねようとした瞬間。先程からずっと此方の腕を強く掴んでいた柊の手がパッと離れた。同時に地面から身体が浮く。
「……ッ!」
少し離れたアスファルトの地面に身体全体を強打して、やっと――何故かは全くもって見当がつかないが、突然宙に投げ飛ばされたのだと理解した。
「っ、なん……」
柊に地面に転がされるのはこれで二回目だ。が、先程の建物の中での一件とは違い、今は特に彼の気に障ることをした覚えはない。
「そこで伏せてて。そのまま」
「いや、だって此処じゃ……!」
此処では異形の目から隠れることすら出来ていない。いくら奴の動きが最初の頃よりは鈍っていようとも、真っ直ぐに襲いかかって来られたらひとたまりもないだろう。
そう危惧していた傍から――自分達が中々この場所から離れないことを好機と捉えたのかもしれない。赤黒い巨体が、路地の奥――廃ビルの残骸の上から、全速力で此方に向かって駆け降りてくる。
「頭下げて。そこから絶対動かないでよ…!」
柊は獣のような速さで近付いてくる異形を真っ直ぐに見据えると、いつの間にかベルトケースから取り出していたナイフを静かに構えた。
「な……!」
「いいから。……」
黒手袋を嵌めた手から放たれた薄い刃が、異形の半分飛び出した眼球を目掛けて飛んでいくのが見えた。苦し紛れのように投擲したわりにその狙いは正確だったようで、真っ直ぐな線を描いて飛んだナイフは今にも異形の鈍く光る右目を射抜かんとしている。
「……は……?」
しかし夏生の目を奪ったのは、その狂いの無い軌道ではない。それとは別に、此方からは攻撃を加えようがない方向――頭上から、猛スピードで落ちてくる『何か』を視認したからだった。
「……派手好きめ」
爆音。次いで地面が振動するような衝撃。
思わず閉じた瞼に、砂とも塵ともつかないものがパラパラと勢い良く落ちて くる。反射的に頭を庇っていた手を崩し、目を拭って瞼をこじ開けようと試みてみたものの、視界は舞い上がった粉塵で真っ白に覆われていて、数メートル 先の地面すらもはっきりとは見えない。
「……っ」
舞い上がった砂塵を吸い込んでしまわないよう、片手で口元を覆う。不明瞭 な視界の中、夏生は違和感のようなものを覚えていた。――先程まで痛いほど の殺気を浴びせてきていた異形の気配が、今は何処にも感じられない。
やがて砂嵐が収まり、視界が開けてくると、夏生の目に俄かには信じがたい光景が飛び込んできた。
辛うじて三分の一程の面積は残っていた筈の廃ビルは完全に崩落し、ただの瓦礫の山と化している。数分前までは無事であった方――先程まで夏生達が潜んでいた方の建物も、倒れ込んだ異形の身体が衝突した所為なのか。半壊して内部が露出していた。
先程まで此方に襲いかかろうとしていた赤黒い巨体は、ビルを巻き添えにするようにして倒れ込んでおり、最早ぴくりとも動く様子は無い。
『異形』が死ぬところを見たのはこれが二回目だ。
赤黒い身体が少しずつ溶けていく。まるで血液のようにも見えるどろりとしたそれが、瓦礫を伝って地面に吸い込まれていく様を、夏生はただ呆然と眺めていた。
「ああもう、やっぱり……」
暫くその場に立ち尽くしていると、背後から疲弊しきった低い声が聞こえた。
「柊! 大丈夫か」
「っケホ……うるさい、このぐらいは別に……」
柊は大きく咳き込むと、深々と溜め息を吐いて服の袖で口元を拭った。不愉快そうに表情を歪めてはいたが、見た所特に大きな怪我はしていないようだ。その様子に安堵すると同時に、目の前の光景に対する疑問が戻ってきた。
「これ、何で……」
――横たわる異形の身体をじっと凝視して、夏生はその死体の周囲にある辺かが起きたことに気付いた。
少しずつ形を無くしていく死体のすぐ傍に、何か、動くものが見える。
「……」
未だ砂塵が舞い続ける中で、ゆらり、と影が動く。
それを視認した瞬間――路地が『こうなる』直前の出来事が、突如として夏生の脳裏に鮮やかに蘇ってきた。先程、猛スピードで上から落ちてきた『何か』。
あれは確か――人のかたちをしていた。
「……お前、どこから落ちて……」
「――『落ちて』?」
夏生が思わず言葉を漏らすと、瓦礫の上に佇む人影から明るく無機質な声が跳ね返ってきた。
見覚えのある金色の髪を風に揺らしながら、少女のように小作りな頭が此方を振り返る。少しだけ見開かれた瞳は何処までも澄んでいて、それは晴れた日の雲一つない空のような――それでいて、ぶちまけられた蛍光塗料のような、天然色にも安っぽい作り物にも見える、不思議な青色をしていた。
「それは少し違うかな。私は自分の意志で飛び降りて、狙い通りにこの位置まで落下してきたわけだから。表現としては『降りてきた』の方が適切かもしれないね」
男は淀みのない声ですらすらと喋ると、夏生の顔を真っ直ぐに見据えてにっこりと微笑んだ。
「……あ、ああ……?」
正直に言えば話の内容は半分も頭に入って来てはいなかったが、その笑顔と勢いに押されて曖昧に相槌を返す。男は夏生の生返事に気を悪くした様子もなく、満足げにうんうんと頷いていた。
いくらよく忘れっぽいと言われる自分でも、これほど目立つ容姿の人間を見間違えるはずもない。昨晩、境界外で俺を異形から助けた金髪の青年。出会い頭に血液型の話題を振ってきた変人。そして恐らく、というか確実に――これから合流する予定だった、もう一人の『強化人間』。
「……春日江……」
低い声で紡がれた『カスガエ』という響きに瞠目する。物珍しい響きに思えたが、夏生にはそれが人の――あの男の名前であることが、どうしてかすぐ理解できた。
「ああ柊、お疲れ様」
あからさまに疲労と非難の色が濃い声で名前を呼ばれても、男――春日江はあっけらかんとした態度で言葉を返した。
「……」
他人事ながら、どんな罵詈雑言が飛び出すものかと身構えたが、夏生の予想に反して柊は苦い表情で押し黙ったままだった。男の顔からふっと目を逸らすと、崩壊した建物の方を見遣って重い溜め息を吐く。
「……いくらなんでも、やり方が派手すぎない?」
「そう?」
すっと視線の先を移した二人につられ、夏生も改めて周囲の様子を見回す。元々脆くなっていたということもあるのだろうが、それにしても――何かの災害の直後ではないかと疑いたくなるような有様だ。
此処が今や無人の廃墟の街であるから良いものの、ただの住宅地であったなら被害の額は計り知れない。俺も柊に言われて伏せていなければ、衝撃で飛び散った瓦礫が頭に当たり、良くて流血、悪ければそのまま昏倒してまたもや意識を失っていたような気がする。
「阪田君から頼まれてね。上の方を歩いて君達を探していたら、奴の姿を見つけたから。君が居たから静観しようかとも思ったのだけれど、やはり可能なら一秒でも早く終わらせた方がいいと思って」
「……」
上、というのは、そのまま建物の上階か、あるいは――階数を考えるとあまり信じたくはないが、屋上という意味なのだろうか。先程の自分達のように、そこから階下の様子を観察すると言うのなら分からなくもないが、その高さから敵の懐に飛び降りてくるのは流石に無謀すぎる。いくら普通より怪我が治りやすい身体だとしても、一歩間違えればそのまま死んでしまうのではないだろうかと心配になるような無茶苦茶さだ。
「それはそうと、」
男は、柊と俺の無言を自分の行動への肯定と受け取ったらしい。完全に話題を切り替える時の口調で明るく発声すると、くるりと此方を振り返った。
「会うのはこれで二回目だよね、新人君」
「……ああ」
長い睫毛に縁どられた青い瞳に見上げられ、目が合った。睨まれているわけでもないのに、その眼力の強さに少しだけ圧倒されながら頷くと、春日江の人形のように整った顔が晴れやかな笑みを形作る。
「まだ自己紹介をしていなかったよね。本来なら、こういう時は名乗らず去るのがセオリーなんだけれど――君とは長い付き合いになるはずだから」
「……そう、だな?」
相変わらず――この言葉を二回しか会ったことのない人間に使うのはおかしいかもしれないが、やけに芝居がかった、よくわからない言い回しだ。
「私の名前は春日江司」
夏生の訝しげな様子を気に掛けることもなく、男はあくまで高らかに、宣言するかのように名乗りを上げた。
「君と同じ十七歳、特務機関の、一人目の強化人間。そして、何より――」
その単語を語る彼の表情は、殆ど初対面に近い夏生から見ても――今までに見たどんな人間のものとも違う、一点の曇りもなく眩い、輝くような笑顔だった。
「――『新東京』の、ヒーローさ!」
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