3:道標の在り処

3:道標の在り処(3-1)

 ただ一つだけ、叶えたい望みがあった。


 捨てることのできない願いがあった。胸の内で燻る、抑えきれない感情があった。けれど自分には、それを実現するための力がなかったから。あの日からずっと、どうしようもないその衝動を沈めたままで生きてきたのだ。――昨日までは。

 そうしたいと強く願いながら、不可能であったこと。諦めかけていたことの全てが、今の自分になら『出来る』のかもしれないと。少なくとも、そのために努力することは出来るのではないかと。心の奥底で、そんな根拠のない期待が生まれ始めている。


 ――ほんの少しでも希望があるのなら、どんな一歩でも踏み出してみたいと思う。


 たとえそれが、簡単には後戻りのできない道だとしても。



3:道標の在り処



 廃墟の街とでも呼ぶべきだろうか。

 人の手が入らないまま放置された建物群は、所々朽ちかけてはいるものの、しかしまだ在りし日の面影を残している。


 此処は、境界の外の――柊の言葉を借りるなら『警戒区域』の一角だ。新東京に近付こうとする異形は、この区域の中で討伐されなければならない。柊やあの人の話では、表向きには討伐隊のみが担うとされているその仕事の一部が、特務機関、引いては『強化人間』の役割の一つになっているようだった。


『――!』

「は、何?」

『……、……』

「……そう。いや、それは……」


 三階建ての集合住宅の屋上。数十分前に非常階段を使って入り込んだこの場所で、柊は先程から通信機を片手に何事か通話をしている。何か不都合なことでも言われたのか、徐々に苦々しくなっていく彼の表情から視線を外して、夏生は錆びた金網越しに地上を見下ろした。


 昨晩俺が異形と遭遇した辺りは、地面を覆い隠すような瓦礫やゴミの山が積もっているばかりで、建物と言えば今にも崩れ落ちそうな廃屋が点在しているだけの場所だった。その印象が強かった、というかそれ以外を目にしたことがなかったために、境界の外は何処もそんな様子――荒れ果てた、開けた土地なのだろうと思い込んでいた。

 しかし、今日訪れたこの地区で、廃墟となった高層の集合住宅が立ち並ぶ通りを見、その考えは突き崩された。一口に『境界外』『警戒区域』と言っても、地区によってその様相には若干の差異があるらしい。


 瓦礫で埋め尽くされた路地も、枠組みだけが残された窓辺も、柵が半分取たベランダも。数十年前にはどこかの誰かの生活空間の一部だったのだと思うと、何とも言い難い不可思議な気分になる。外観だけはかろうじて街の形を保っているとはいえ、住宅地としてはとうの昔に放棄された場所だ。人の気配などあるはずもないのに、耳を澄ませば、今にも人々の日常の喧騒が聞こえてきそうな気がして――そんなことは起こりえないと分かっているのに――夏生は、どこか落ち着かない心地のまま時を過ごしていた。

 昨晩まで激しく降り続いていたはずの雨は、もうすっかり止んでいる。

 日没までの時間はそう長くはないはずだ。日差しの強さは大分落ち着いてきているのだろうが、昼の内に屋上に籠った熱が立ち上ってくるような暑さを感じる。生暖かい風が辺りを吹き抜けて、宙に巻き上がった砂埃が目に入った。夏生は思わず指で目を強く擦ってから、瞼に触れた柔らかい感触への違和感に瞬きした。

「……、暑いな」

 見慣れない黒い生地に覆われた自分の手を見下ろして、誰に向けるでもなく小声で呟いた。夏生の両手には、手首までの長さの黒い手袋が嵌められている。地下で柊から服と共に渡されたものだ。言われた通りに全て身に着けたものの、この蒸し暑い気候の中ではあまり好ましくない装備だった。

 首筋に汗が伝うのを感じて、上着の前のファスナーを下ろした。急遽借りた物だから致し方ないことだが、シャツや靴のサイズが微妙に合わないこともあって、余計に今の恰好に暑苦しさを感じる。わざわざそれを口に出して、柊の不興を買うほど馬鹿ではないが。


「確かに、ちょっと暑苦しいけど……」

 控え目に掛けられた声に背後を振り返ると、少し離れた場所で同じように待機していた阪田がぽつりと口を開く所だった。――聞こえていたのか。夏生が視線を其方に向けると、阪田はびくりと小さく肩を震わせる。

「手袋は外さない方がいいと思います。え……っと、ごめんなさい、その方が滑らないし、しないと後が大変というか……」

 思いの外注目を浴びたことに焦ったのか、阪田は視線を彷徨わせたままで「ほら、爪と肉の間に泥が入ったりすると」と早口で続けた。

 別に何もおかしなことは言っていないのに、口にした後で何故か申し訳なさそうな表情をするのは、単にそういう性格なのだろうか。それとも俺個人の挙動が彼を怯えさせてしまっているのか、どちらだろう。よく思い返せば今だって、話し掛けられたことに驚いてしまって、咄嗟に返事をしていなかったし……どちらもかもしれない。

「そうか。……そうだな、ありがとう」

 自分の対人能力の低さに落ち込みそうになるが、季節外れの重装備の理由には一応納得がいった。なるべく柔らかい声色に聞こえるように意識して礼を述べると、阪田は少しほっとしたように微笑んだ。

 同時に少しだけ下りた肩に、彼の内心の緊張の跡が窺える。――少し話すだけで委縮してしまうような相手に、何故先程は自分から声を掛けてきてくれたのだろうか。一瞬そんな素朴な疑問が頭に浮かびかけたが、夏生はすぐに自分がその問いの答えを知っていたことを思い出した。


 柊から押し付けられた『世話役』の役目だ。半ば強引に言い渡された役を受け入れて、どうにかその役割を果たそうと努めているのだろう。地下室でのやりとりを見て薄々気付いてはいたが、彼はかなり律儀なタイプの人間らしい。自分があの時二人の会話を止めなかったことを思い出して、夏生は少しだけ後ろめたいような気持ちになった。

「……」

 折角阪田が気を遣ってきてくれたのだし、何か、会話を続けた方がいいのだろうか。そう思って口を開きかけて――結局、何も思いつかずに閉じたその時、通話を終えたらしい柊が、見るからに気力に欠けた足取りで此方に歩み寄って来た。

「この先の団地で落ち合うことにしたから」

「……そうか」

 相変わらず愛想の欠片もない声色だったが、その表情には何処となく疲労の色が濃く出ていた。左腕に装着したベルトケースに通信機を仕舞うと、はあと溜め息をついて小さく伸びをする。

「あ、合流できることになったんだね」

「まあね。別にできなくても良かったんだけど……」

 後半は半ば独り言のように呟いて、柊は面倒臭そうに前髪を掻き上げた。

 先程通話していた時の様子からも何となく感じていたが、此奴とこれから落ち合う『もう一人』――恐らくあの金髪の男――とは折り合いが悪いのだろうか。合流する前に彼について何か聞いておくべきかと思っていたが、柊の言葉に何ともいえない苦笑を浮かべた阪田を見て止めておくことにした。


「そういうわけだから、もう此処は出るよ」

 投げやりな調子でそれだけを言い捨てて、柊は俺達二人の返事を待たずに階段の方へと歩き出した。



 地上へと繋がる外付けの非常階段は、屋上の隅、集合住宅の裏手側にあった。階段部分こそ頑丈な造りになっているものの、金属製の手摺りは赤茶色に錆びついていて、強く凭れかかれば壊れてしまいそうだ。


 真下には住民用の小規模な駐車場があり、目の前の狭い道路へとすぐに出られるような構造になっているようだった。――とは言っても現在は、土埃塗れの乗用車が数台残されているだけで、それが却って人のいない住宅街の空虚感を際立たせている。

「……何ぐずぐずしてんの、さっさと歩いて」

「……ああ、悪い」

 少しの間立ち止まって階下の様子を見つめていると、先に階段を降り始めていた柊から苛立ちを隠さない声色で促された。日のある内に境界外を探索するという状況への緊張や物珍しさも影響しているのだろうが、此処に来てからはつい景色に目を奪われてしまうことが多い。


 前を歩く阪田に続いて、非常階段へと足を下ろそうとしたその時、

 視界の隅で、見覚えのある影がちらりと動くのが見えた。


「……柊」

「黙って」


 返答こそ相変わらず冷たかったが、柊の目は俺が見ていたのと同じ方向――赤黒い何かの影が見えた方向を捉えている。

 その何かは、この集合住宅が建つ通りから見て一本奥の通りを直進しているようで、此方からは建物と建物の隙間を横切る瞬間にだけその姿を覗くことができた。……『何か』などと回りくどい表現を使う必要もない。はっきりと全身を確かめられたわけではないが、あの赤黒い肌の一部を見ただけでも、あれが『異形』であることぐらいは分かる。


「……どうするんだ」

「……タイミングの悪い……」

 一応声量を落として尋ねると、柊は忌々しそうに舌打ちを一つした。

「阪田ちゃん、今何時か分かる?」

「えっ、……っと、五時半かな」

「一七時三十分ね。……A-3地区にて対象と遭遇、」

 腕時計を確認した阪田の言葉に頷くと、柊は書類でも読み上げるかのような事務的な口調で続ける。

「体長は二メートル……五十から六十、体表面に目立った損傷はなし」

 具体的な数字が挙げられたことに驚いて、思わず聞き返しそうになるのを寸での所で堪えた。

 ――此処からそこまで見えるものなのか? つられてもう一度奥の通りへ視線を向けてみたが、夏生の目には異形の性格な体長どころか、その全身すら捉えられなかった。これは単に場に慣れているかどうかの差なのか、それとも能力自体に個人差があるのだろうか。

「――報告があった三体の内の一体の特徴と合致、同一の個体と思われる、多分。……違ってても知らないけどね」

 最後の一言は普段通りの調子で吐き捨てて、柊は漸く此方を振り返った。

「今の覚えといて、後で報告に使うから」

「に、えっ、後でもう一回訊いたらごめんね!?」

 突然話を振られて驚いたのか、目の前で固まっていた阪田の肩が大きく跳ねた。

 うろたえる彼の顔を一瞥すると、柊は自分の左肩に装着したベルトケースを指し示すように軽く叩く。

「通信機の使い方は分かるよね」

 阪田はこくこくと何度も頷いている。俺はまだ柊の服を借りているような状態なので、勿論その通信機も所持していないが、本来ならば一人ひとりに支給されるはずのものなのだろう。


「俺が三十分で戻らなかったらあっちに連絡して。……まあ、その前に終わるとは思うけど」

 そう呟くが早いか、柊は止める間もなく一人で非常階段を駆け降りていった。二階の踊り場に着くと、その勢いのまま手摺りを乗り越えて、何の躊躇もなく地上へと飛び降りる。

「柊!」

 残された夏生が慌てて階下を覗きこむと、柊は危なげなく乗用車のボンネットの上に着地していて、丁度此方を見上げるように振り返った所だった。


「お前も此処にいて。邪魔だから」


「……」

「……と、とりあえず、」


 ……柊がいつから特務機関に居るのかは知らない。しかし、少なくとも昨日『強化人間』になったばかりの俺や、ひと月前に機関に来ることになったという阪田よりは、確実に彼の方がこうした現場に慣れているのであろうことは想像がつく。その柊が自分一人でも三十分で片付くことだと判断したのだから、多分、その通りである可能性が高いのだろう。何より、本人から邪魔だから来るなと釘を刺されている。

「上に……、戻りましょうか……」


 けれども、あいつを一人で行かせて、自分はただ此処で待っているだけというのは――どうにも気が落ち着かなかった。こんなことを本人に言ったら生意気だと怒鳴られそうだが、これはもう性分だから仕方がない。

 それがどんな人間だろうと、『異形』と遭って確実に無事でいられる保障なんて何処にもないはずだ。

「柊くんも、此処で待っててって言ってましたし……」


 それに、――俺の解釈が間違っていなければ、俺は今日、呑気に廃墟の街の様子を観察しただけで帰るわけにはいかないのだ。

 頭の中の天秤が片側へと完全に傾いたのを感じて、夏生はふっと小さく息を吐いた。


「……いや、言い方はうちょっときつかったけど、あれもそんなに悪気があるわけじゃ……ないのかどうかはわからないけど、」

「……阪田」

「だからその、あんまり怒らな……な、何でしょうか!?」

「……今思ったんだが、別に、敬語じゃなくていいんじゃないか。……同じ歳なんだろ」


「えっ、……ハイ! あっうん、そうで……間違えた。そうだね! ……そっち? あ、ちょっと待っ……!?」

 立ち止まっていた阪田の横をすり抜けて、非常階段を三段飛ばしで駆け降りる。


 踊り場の手摺りを飛び越えると、一瞬だけ身体が宙に浮くような感覚がした。勿論それはただの錯覚で、支えを失った身体はすぐに重力に従って階下へと落ちていく。落下する時は時間の流れが遅く感じると言う話は、もしかしたら本当なのかもしれない。

 実際には数秒にも満たない時間の後、夏生は先程の衝撃で凹んだ廃車のボンネットの上に着地した。


 勝手に飛び出してきたと知られれば、散々絞られることは目に見えているが――それはこの際、あいつに追いつくまで考えないことにしよう。


 息を深く吸って、夏生は異形の姿を見かけた方向へと駆け出した。

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