流星


15.



 山の斜面に転がる大きな磐座の前に、小さな社が建っている。


 社の名は加賀良神社。背後の磐座に観音像を抱き、この山そのものを祀る素朴な山岳信仰の社である。今でこそ神社と寺は別物だが、江戸時代まで「神様仏様」は一括りだった。その当時の姿を残す、山の霊だ。


 杉原親子と美郷の前から逃げ出したきりのがこの社に逃げ帰り、そこへ美郷が辿り着いてチャンバラになったのが十六時より少し手前だっただろう。その後、美郷はきりのを克樹に任せ、社の手前の開けた場所で八雲神社の小豆虫の相手をしていた。


 美郷は子供一人ぶん程度の大きさにしか見えない、小さな社の前に立つ。もう辺りにきりのの気配はない。辻本が綺麗さっぱり浄化したのだろう。だが社の四隅には結界の符が貼られたままで、社の戸は閉まっている。その前には、きっちりと揃えられた一足のローファーがあった。克樹のものだ。


(辻本さんじゃ声が掛けれなかったって……どうしたんだろう)


 やはりきりのを克樹に送らせるのは酷だったのか、と美郷は社の前で頭を掻いた。自分ならば、という判断だったが、克樹にとっては望まぬ道だったのかもしれない。だとしたら何と声を掛けたものかと悩みつつ、美郷は社の戸に手を掛けた。謝罪か、慰めか、叱咤激励か。そういえば白蛇も帰って来ていないと、今更ながらに気付く。


(白太さんも中かな。あれだけ派手に落雷したのに無反応か……うーん)


 いつまでも迷っていても仕方がない。えいや、とひとまず美郷は戸を開けた。


「……克樹?」


 覗き込んだ小さな入り口の奥には、外観からはありえない広さの空間が見えた。八畳程度だろうか。板張りの床には何か小物が散らかっているが、家具などはないがらんどうだ。社の床は美郷の膝辺りにあり、入り口の高さは一メートル程度しかない。自然、屈みこんで覗く美郷の視線の先に、板間の床に正座する少年の影が見えた。


 目が慣れれば、中は薄暗いが色の判別くらいはできる。日本人としては明るい色のふわふわした髪と、紺色のブレザーは克樹のものだ。部屋の中央よりも少し手前に、俯き加減で弟が座っている。


 膝の上に置かれた手の中から、見慣れた白がひょっこり顔を出した。ちろろ、と紅い舌が美郷を確かめるように舞う。


(というか、普通に白太さん伝令に使ったんだけど、克樹が蛇ダメだったらアウトだなこれ)


 そんな記憶はなかったが。どちらかといえば蛇も蛙も虫も平気なやんちゃ坊主だった。テレビの自然科学番組が好きで、南半球の大陸や宇宙に憧れる子供だったはずだ。インドア派で座学が苦にならない美郷とは、対照的だと言われ続けた。白蛇に伝言を任せたのは、喋る式神を作るのは大変なのと、接触で意思疎通ができればきりのに変な情報を漏らさず済むと思ったからである。


 反応の鈍い弟に困惑しつつ、美郷は社の中に頭を突っ込んで中に入る。普段より小ぶりな白蛇は迎え入れるように頭を揺らしているが、何故か美郷の方へ戻ってはこない。微妙な空気に気圧されながら、美郷はそのまま克樹と向かい合うように正座した。中の天井は高く、頭がつかえる心配はない。


「お疲れ様。ちゃんときりのを送ってくれたんだな。伝言、分かり辛くてゴメン、察してくれて良かった」


 記憶の中では大抵、美郷が一を言う間に五も十も喋る弟だったので、沈黙されるとどうしたらよいのか分からない。緊張感に変な汗をかきながら、どぎまぎと美郷は言葉を繋ぐ。


(もしかしてこれが、思春期を越えたとかいうやつか……)


 記憶の中の、最後に見た弟は中学二年生だ。当時、そろそろ声変わりしていた覚えがある。等々、美郷が感慨に浸りながら様子を窺っていると、白蛇を乗せている克樹の両手がぴくりと動いた。


「――兄上」


「はいっ」


 低く重い声に、思わず背筋を伸ばす。美郷の視線の先では、ゆらゆらと白蛇が困惑していた。


「この蛇は、兄上の分身……なのですか」


 うっ、と美郷は固まる。最近、完全にペット扱いで忘れていた。この白蛇は、だ。喰わされた経緯も、魔物の蛇を喰ってまで生にしがみついたことも、結果、身体の中に妖魔を宿して人とも魔ともつかぬものに成り果てたことも、どれをとっても「あさましい」の一言に尽きる。失敗したな、と美郷は心の底から悔いた。


「……うん。そうなるかな」


 今のところ人に害は及ぼさない。「宮澤美郷はそういう存在だ」と受け入れられてしまえば、変わった使い魔程度の扱いだ。だがかつての、「鳴神美郷」を知っている人間に、見せてよいものではなかった。――お前の兄は、こんなモノになったのだなどと。


「ごめんな」


 零れ出た謝罪に、克樹の肩が尖る。両手が白蛇を掴みかけ、慌てて白蛇が逃げ出してきた。代わりにブレザーの裾を握り、更に俯いた克樹が絞り出す。


「なんで――! どうして、謝るんですか!!」


 震える血の気の退いた拳に、ぱたぱたと雫が落ちた。大きくしゃくり上げる息が、がらんどうの中に響く。押し殺した嗚咽を聞きながら、完全に美郷はフリーズしていた。


 ――克樹、泣いてる。美郷悲しい。白太さん悲しい。克樹のせい。


 戻って来た白蛇が訴える。己を見て嘆き悲しむ克樹に困惑し、おろおろしながらも離れられなかったようだ。この蛇は美郷と、深い場所で繋がっている。つまり、蛇の人に対する好悪は美郷のそれを反映するのだ。克樹が泣いていて、放っておけるはずがない。


(克樹のせい? 白太さんが、って蛇蟲を喰わされたことがか?)


 ――克樹悲しい。帰れない、悲しい。


 片言過ぎて意味を掴めない蛇の言葉を諦め、美郷はひとつ深呼吸した。今更兄貴面できる御身分でもない気はするが、このままでは埒が明かない。


「どうしてって……、まあその、お前も色々知ってるだろうと思うけど、お見苦しいものをってコトで。……ご覧の有様だけど、まあそれなりにやってるよ。だからお前も――」


「兄上のせいじゃない! 兄上は何も悪くない!! なのに、なのにっ!!」


 言って、とうとうぐしゃぐしゃに泣きだした弟を、慌てて美郷は抱き寄せる。大人になったのかと思ったが、相変わらずの癇癪持ちの泣き虫だ。おお、よしよし、と勢いに呑まれて慰める美郷に、克樹がしがみ付く。


「私がっ……、あの時、止めなければッ……あのまま、兄上を、じゆうに……ちゃんと、今日みたいに、見送って、そすればっ、こんな、こんなっ…………!」


 ごめんなさい、ごめんなさいと泣き続ける弟に、心底困り果てて美郷は天井を仰いだ。一体、いつの何の話をしているのかサッパリ分からない。


「待て、ちょっと落ち着きなさい。いつのことを……あの呪詛に関して、お前の責任なんてそれこそ何もないよ。跡目争い云々ですらなかったんだから」


 美郷に蛇蟲を送り込んできたのは、「次期当主の側近」という地位を欲しがった人間だ。あのまま順当に行けば、おそらく克樹は美郷を一番頼りにしただろう。それが気に入らなかったのである。結果、美郷とその人物双方共倒れで、克樹の側には若竹しか残らなかったのだから、克樹も被害者だ。そう言って宥めてみるが、確か十八になったはずの弟はイヤイヤをして聞かない。


「もっと、前に……ッ、兄上が、朱美あけみかあさんを追いかけて、ウチを出ようとした時にっ……あのとき……私が……」


 肩を震わせ、涙で美郷のジャケットを濡らしながら克樹が懺悔する。


「知って、いたんです……ほんとは、あにうえひとりで……バスに……。荷物も、じこく、ひょうも……でも、こわくて、イヤで、兄上に、置いて行かれるのが、だから」


 だから、「流星群が見たい」と駄々をこねた。


 美郷が一人で、黙って家出をしないように。


 出て行く美郷に、置いて行かれないように。


 半年前に失踪した母親を追って鳴神を捨てようとする美郷の袖を、引っ張った。


「もし、あの時……あのとき、あにうえを止めなければ……」


 嗚咽に疲れ、掠れた声が嘆き悲しむ。こんな、取り返しのつかないことにならなかったのに、と。


「……そうか、お前。気付いてたのか」


 あの時、美郷は色々なものに嫌気が差していた。美郷の肩口に顔を埋めた、弟の髪をふわふわと撫でる。


 どちらかと言えば、ただの気晴らしだった。一泊分の着替えや貴重品をボストンバッグに詰めて、バスや電車の時刻表を調べる。どの時間のバスに乗って、何に乗り継いで、どうすれば遠くへ行けるか。狭く窮屈で、酷く理不尽な世界から逃げ出す夢想をしていた美郷を、幼い弟は見ていたのだ。そして、実力行使に出た。


「ついて来たかったのか?」


 弟の体温を抱きしめて囁く声は、自分で嫌になるほど優しく甘い。腕の中に可愛い弟を抱き込んで、幼子をあやすように揺らしながら美郷は小さく笑う。克樹は無言で、美郷に鼻っ面を埋めたまま頷いた。「かわいいなぁ」と美郷は克樹の頭をぐしゃぐしゃ混ぜる。


 あの夏の夜の家出は、美郷だけのものではなかったのだ。


 兄弟、手を繋いでの逃避行だった。


「でも違うんだ、克樹。あの時おれは、ただ現実から逃げたかっただけで、目的地なんてなかった。――もし、お前が止めてくれなかったらきっと……きっと、から逃げ出してたよ」


 何もかも嫌になって、境界の向こう側へ――常世ははがくにへ行く夢想をていた美郷を止めたのは、今と同じように泣きじゃくる弟の手だった。


 くらいよ、こわいよ。


 そう泣き始めた弟を振り捨てることも、無理矢理黙らせて連れて行くことも出来ず、美郷は家出を諦めて電話したのだ。家では、克樹の我儘として処理された。若竹のように美郷の害意を勘繰る者は少なかったはずだ。


「だからお前のせいじゃない。お前がそうやって、自分を責めるようなことじゃない。それは、背負わなくても良い罪だ」


 克樹の語るIFは存在しない。美郷はそう断言できる。


「お前がいてくれたから、生きてられた。だけど呪詛を喰らって、。そう思えたのは、あの夏の夜にお前が引き留めてくれたからだよ、克樹。だから、おれはもう鳴神には帰らないし、お前と一緒には生きられないけど……そのことをお前が背負う必要はないんだ。おれのために、自分の道を決めるな。お前は、お前の望む道を選びなさい」


 贖罪や他人、戻らない過去の為ではなく、自分の今と未来のために。


 よし、とひとつブレザーの背中を叩いて、克樹を抱え込んだまま美郷は膝を立てた。そのまま後退して、克樹を社から引っ張り出す。出てみれば、やはり社は克樹一人ぶんもないほど小さい。


 明るい所へ出て見れば、目を腫らした克樹の頬や口元には傷があるし、着ている制服もボロボロである。おおかたどこかのチンピラのせいだろう。真っ赤な目元を恥じるように、俯いたままの弟の肩を抱く。外で様子を窺っていた辻本と怜路は遠巻きだ。


「山を下りよう、克樹。それから、お前は鳴神に帰るんだ。帰って、もう一回自分のために選び直せ。星が好きなら天文学でも、生き物が好きなら生物学でも、海外に行きたいなら語学でも。今回の受験はもうキツくても、一浪すればいくらでもチャンスはあるだろ」


 浪人が嫌ならば留学でもいい。家に財力はあるのだからどうにでもなる。楽観的な可能性を連ねる美郷に、困惑しきった顔で克樹が首を傾げた。


「でも、兄上。そんなの家の誰も許さないんじゃ……」


「許可なんて、親父のひとつあれば大丈夫だろ」


 肩を抱き、連れて歩きながら美郷は嘯く。その先では怜路が錫杖を鳴らして、大久保の待つ「門」への道を呼んでいる。緩やかに下る木立の向こうから、りりん、りりんと呼応する鈴の音が聞えて、振り返った怜路が無言で頷いた。


「行こう」


 言って、克樹と共に坂を下りる。すぐさま景色は変わり、麓に神社の背中が見えた。開いた裏口には鈴が掛けられ、中は煌々と明かりが灯っている。


「――父さんはずっと忙しくてあんまり話とかできる人じゃなかったけど、あの人のやりたかったことは多分わかる。お前を、解放したかったんだ」


 進む足元を見ながら言った美郷に、克樹が「え?」と不思議そうな声を返す。


「今ウチ、企業法人だろ。ナルカミコンサルタントって。親父は変えたいんじゃないかな、血族縛りでトップを決めて、門下にいっぱい人を抱える当主制から、能力と意志でトップを選べる『企業』に。すぐに全部は変わらないだろうし、秘術の継承には血の濃さが要ったり簡単じゃないだろうけど。でも少なくとももう鳴神で働く人間は、お前が全部投げ出しても将来路頭に迷ったりはしない。鳴神嫡流の血筋とは無関係のところで、組織としてやって行けるんだ。あの人も、元は自分のやりたい勉強をして、やりたい仕事に就いてたんだ、お前に無理強いなんてしないよ、多分」


 山を下り、門をくぐる。出迎えた大久保と芳田に会釈して、美郷はそのまま克樹を連れて神社の外へ出た。既に日はとっぷりと沈み、ぬるま湯の気温に慣れていた身体に冷気が突き刺さる。ぶるりと震えて更に克樹の肩を寄せ、美郷は空を見上げた。


 予報は雪だったが、上空に雲の気配はない。


 冬の夜の、冷えて澄んだ星空が広がっている。


「……信じ、られないです」


 ぽつり、と俯いたまま克樹が零した。克樹の両親はどちらも、コミュニケーションが器用な人間ではない。仕事に忙殺されながら、思春期の息子の信頼を得るのは難しかったようだ。


「おれからも説得するから。――冬の大三角、今これ出てる?」


 言って、無理矢理克樹の顔を上に上げる。


「……出てないです。兄上、ホントに星だけは覚えてくれませんよね……」


 無抵抗に頭を固定されたまま、不満げに克樹がぼやいた。


「ホントに覚え方が分かんないんだよねえ……。蛇は嫌いか?」


「いえ、別に」


「――じゃあ、おれの白太さんも平気?」


 言って懐から引っ張り出した白蛇と、克樹が至近距離で見つめ合う。


「……可愛いです。というか、それ『さん』まで名前なんですか? 蛇の一人称が『しろたさん』でしたけど」


 ちょん、と克樹に鼻っ面をつつかれて、白蛇がぴるる、と舌を出した。


「うーん、おれがずっとさん付けで呼んでたら、『さん』まで含めて名前だと認識しちゃったらしくて」


 この蛇の一人称など、美郷もほんの数日前まで気にしたことはなかった。怜路に「元の名前も酷いが、輪を掛けてユルくなってやがる」と今朝がた言われたばかりだ。やはりこの名は克樹にも不評かと美郷は口を曲げる。


「怜路にも散々言われたんだよねえ……やっぱダサいかなあ」


 ぼやく美郷の腕から突然克樹が抜け出し、がっしと美郷の両肩を掴んだ。何事か、と美郷は目を瞬かせる。


「あの男の意見は聞く必要ありません!!」


 怜路の名に瞬間沸騰した弟を見て、美郷は首を傾げた。「だいぶ嫌われた」とは当人も言っていたが、これは相当なようだ。


「克樹、アイツ嫌いか?」


「大ッッ嫌い、です!! あんな下品な男を寄せ付けないでくださいっ! 兄上の品性にまで関わりますッ!!」


 大力説する弟の高い声に、背後から何やら大人げない反論と、いくつもの笑い声が響いてくる。美郷はもう一度冬の夜空を見上げ、懐の白蛇に囁いた。


「よかったな白太さん。可愛いって」


 チンピラ大家に煽られた弟が、美郷の元を離れて鼻息荒く向かっていく。


 ――うん。


 嬉しそうな白蛇に美郷は笑った。


 一筋、星が流れる。


 夏の夜の流星群は美しかった。星の分からない美郷でも、全て忘れて魅入るほどに。


「――克樹! また、一緒に流星群見ような」


 思い付きの美郷の言葉に、はい! と明るく元気な返事が響いた。





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