絆(四)
遠くから、幼い声が聞こえた。
――あにうえ!
時代錯誤の、年齢にそぐわぬ堅苦しい言葉遣いだ。
「克樹?」
声のした方へ、美郷は小走りに向かった。家の勝手口から裏山へ分け入る。視界を遮る雑木の向こうから、小さな影が飛び出してきた。
「克樹! どこに行ってたんだ全く!」
「あにうえ!」
ぴょこんと跳ねて抱き付いてくる、小さく温かい体を抱きしめる。自分と違い天然栗色の、柔らかく波打つ髪をかき混ぜる。しゃがみ込んで腕の中に閉じ込め、美郷はほっと安堵の息を吐いた。
「心配したんだぞ……無事で良かった……」
この子を守るのは自分の役目だ。目を離してはいけなかったのに。
「ごめんな、おれが――」
「あにうえを迎えにきました! 家に帰りましょう!」
美郷の服を小さな両手で掴んで、克樹が得意満面に顔を上げる。
「家に……?」
自分は今しがた、克樹を迎えに家から出てきた。家は美郷のすぐ背後にあるはずだ。だが、幼い弟は力いっぱい頷く。
「あにうえが帰ってきてくださらないから、探しにきたんです! ……あにうえがいなければわたしは……」
幼い眉間にしわが寄って、長い睫毛に縁どられた丸い目に、みるみる涙の膜が張る。
「ああ、ごめん、本当にごめん」
これは小さく、か弱く、温かい生き物だ。美郷が守ってやらなければ、冷たい大人たちの中で凍えてしまう。美郷だけを
「かえりましょう?」
美郷の服を離し、腕の囲いから逃れた克樹が美郷の手を引く。頷いて、美郷は立ち上がった。純粋な眼が、美郷だけを映している。
(――まだ、おれを覚えててくれたんだな……まだ、克樹はおれが傍に居なくちゃ駄目なんだ……)
美郷を必要とする存在。その生殺与奪を美郷が握る、愛おしい相手。同時に、美郷の唯一の存在価値であり、生涯尽くすことを強いられる相手だ。この子供にかしずく以外に、美郷に生きる道はない。この子供の「兄」としてしか、美郷は世界に必要とされない。
克樹に必要とされなくなれば、あの「家」の中で美郷という存在の値打ちはなくなる。
世の一般人に視えぬモノを視て、彼らの感知できぬモノの振り回され、彼らの信じぬモノを相手に生きる。怪異を、闇を視る異能を持って生まれた自分は、
(克樹……お前だけが、おれの……)
引き返そうとする克樹について美郷は一歩踏み出そうとし、ガクリとつんのめって足元を見た。足が、全く動かない。
「なっ……!」
地を這い絡み付いた蔦が、美郷の足を雁字搦めに捕えている。幾重にも巻き付く蔦は脚を這いのぼるにつれて縒り合わさって太くなり、大蛇となって美郷の胴を締め上げ鎌首をもたげた。
「あにうえ?」
引っ張っても動かない美郷に焦れて、克樹が振り向く。
蛇が這う。いつものように、肩口から首筋、背中へと這って、中へ潜り込んでくる。
「やめろ」
おぞましい光景を、幼い弟はぽかんと見ている。
「見るな」
小さな手が、美郷から離れる。一歩、二歩と後ずさる。呆然とした幼い顔が、恐怖に歪み始める。
「待っ――!」
咄嗟に目いっぱい手を伸ばし、美郷は克樹の腕を掴んだ。力まかせに引き寄せる。怯える子供が、逃れようと暴れた。美郷は無我夢中でそれを捻じ伏せる。
(お前は、おれのものだ)
細い首を掴む。この子供は自分のものだ。自分に忍耐と辛苦を強いて、だが自分に値打ちを与える、か弱く、横暴で愛おしい生き物。
両手の指を首にかけた。逃げられるくらいならば、いっそ。
(もう、おれは帰れない。だから、お前も)
「いやだっ! はなせ!!」
全身の力で克樹が美郷を振り払う。一歩向こうへ逃げられてしまえば、縫い止められた美郷の手は届かない。克樹は美郷を振り向くことすらせず、まろぶように走り去る。
「克樹! 克樹――!!」
小さな影が雑木の向こうへ消える。
(どうして)
なぜ、克樹は自分を置いて行ってしまったのか。
ずっと克樹のために我慢をして、心を砕いてきたのに。ずっとずっと可愛がってきたのに。
「追わなくちゃ……そう、きっと――」
きっと克樹はいつものように、美郷が見つけるのを待っている。
ぷわりと一匹、小さな黒い甲虫が、美郷の視界を舞った。
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