巴市の日々
歌峰由子
【第一部】ワケあり公務員、チンピラ山伏に拾われる。(完結)
引越しにトラブルは付き物
春。四月一日を控えた週末、街はささやかながらも、旅立つ者と訪う者の交差に活気付いている。
そんな街の一画、単身者向けアパートの前に、呆然と立ち尽くす青年がいた。
すらりとした四肢に、育ちからくる品の良さ、人柄の良さが滲み出る整った顔立ち。大都市からは遠く離れた田舎町では好奇の視線を集めるはずの長髪が、何の違和感もなく似合っている中性的な雰囲気の青年だ。
しかし、せっかく麗しく整っているはずの容貌を台無しにする間の抜けた表情で、美郷は棒立ちにつっ立っていた。
正しく、茫然自失。頭は真っ白、というやつである。
目の前では、引っ越してきたばかりらしき部屋の住人が、慌しく荷物の整理をしている。背後には、自分の荷物が積まれた引越し業者のトラック。
「…………え、どういう、こと……?」
眼前のその部屋は、確かに自分が契約した、今日からの新居のはずである。彼はこの日、この部屋に引っ越してきた……はずだった。傍らのトラックから降りてきた引越業者のスタッフが、困惑交じりに彼の名を呼ぶ。
「宮澤さん、荷物の搬入どうします?」
「どうしたら……いいんでしょう、ねぇ」
反射的に思ったことを口にすると、困惑と呆れと苛立ちの混じる溜息が返ってきた。今日は三月最後の週末。引越業者はどこも大忙しのかきいれ時だ。若さと体力が武器らしき若い男性スタッフも、気が立っているのだろう。
「とりあえず、契約した不動産屋に確認して来ますんで。もう三十分、ここで待っててもらえますか?」
忙しいのは美郷も同じである。彼は来週からこの街で働かなければならないのだ。今更、契約していたはずの新居が空いていないと言われても困る。今まで暮らしていた旧居も、高校入学と同時に出た実家も県外で、とても通勤できる距離にはない。
ここは広島県
彼、宮澤美郷は今年四月一日を以って巴市役所に採用された、新規採用職員だった。
中国山地の山々から吹き降ろす北風が、まだ花芽も固い公園の桜の梢を揺らす。
春の風と言うにはあまりに冷たいそれにコートの襟を立て、美郷は深い溜息をついた。暖房の効いた不動産事務所で含み込んだ、暖かい空気が吹き飛ばされていく。もっとも、精神的には事務所の中にいた時から既に冷え切っているのだが。
契約したはずのアパートを管理する不動産屋に駆け込んだ美郷を待っていたのは、無残な現実だった。不動産屋の手違いで部屋がダブルブッキングされていたのだ。しかも、契約日も入居日も美郷の方が後で、逆立ちしても美郷がその部屋に入居することはできないような状況である。
不動産屋の担当者も平謝りで代わりの物件を探してくれたのだが、立地上この街には一人暮らし用の物件が乏しい。予算に見合う物件が全く見つからなかったため、諦めて他の不動産屋を当たりに事務所を出てきたのが約五分前、といったところである。
「……ひとつ確かなのは、どう頑張っても多分、おれは今日中に引越はできないってことだよな……」
ああ、寒い。実家と春先の気温にそう違いはないはずだが、今日はやたらに冷える気がする。――多分これは、心が寒いのだ。
不動産屋の差し向かいにあった人影のない公園で、ブランコの支柱に寄りかかってスマホを玩んでいた美郷は天を仰ぐ。アパート前に待たせていた引越業者には、新居が決まるまで倉庫で荷物を預かってくれるよう電話をして、今日のところは引き取ってもらった。もちろん、追加料金発生である。
今夜の宿は最悪、乗ってきた自家用車で何とかなるが、流石に初出勤までには住居を定めたい。
「あー、どうなるんだろ、おれ」
住所不定は嫌だ。住民票だって、もう巴市に移したのに。というか、市役所職員が住所不定ではあまりにも格好がつかないだろう。そんな暗澹たる思いを抱えて、公園前に路駐していた車へ向かう。
公園を出て視線を巡らせると、折角だからとピカピカに磨いてきた軽自動車の傍らで、派手な格好の見知らぬ男が辺りを見回していた。美郷の足が凍りつく。
染めた、というより色を抜いた風情の明るい色の短髪は、固めてあるのか奔放に跳ねている。派手なオレンジ色のパーカーと、腰穿きにしたがぶがぶのカーゴパンツが非常に近寄りがたい雰囲気を醸している。パーカーからはみ出たシャツの裾下からは、ごついウォレットチェーンがじゃらじゃらと下がっていた。さらに極めつけは耳に光るシルバーピアスと、薄く色の入ったサングラスである。
都会の繁華街ならばともかく、高層ビルなど存在しないような長閑な田舎町に立っていれば目立つこと甚だしい、ものの見事なヤンキー様だ。そんな、生まれてこの方ナマで拝んだ記憶のない人種が、よりにもよって、自分の愛車の前に立っている。
(ちょ……! なんでっ!? 今日のおれはそんなに運勢悪かったですかね!?)
思わず後ずさった美郷の足音が聞こえたのか、ヤンキー様がこちらを向いた。よう、とばかりに親しげに片手を挙げて、大股に歩み寄ってくる。隠れた目元と、口の端に浮かぶ笑みが怖い。こんな危なそうな人物と関わった覚えはないのだが、一体ナニが起きたのか。
内心パニックを起しつつも一目散に逃げ出すことすらできず、美郷は目の前に立った相手をぽかんと見つめた。間近で相対してみると、身長も自分より高い。
これはヤバイのではないか。そう青くなる美郷に、ヤンキー様は機嫌良さげに声をかけた。曰く、
「お宅、住むところ無くて困ってるんだってな。良い物件を一つ紹介してやれるんだが、聞く気はあるかい?」
金髪ピアスのその人物は、サングラスを外して
「なんだその顔、信じてねーだろ」
「そういうワケでは……」
パーカーのポケットから煙草を取り出して一本銜え、愉快そうに怜路が笑った。「喫うかい?」と煙草の紙箱を差し出され、いいえと首を振って美郷は一歩距離を置く。煙草の臭いが苦手なのだ。
どうやって逃げようかと思案しつつ、美郷は引きつった誤魔化し笑いを浮かべた。なにを理由に絡まれているのかすら分からない。
相手の表情を窺おうと改めて視線を上げ、美郷はおや、と目を瞬いた。サングラスを外した怜路の双眸は、不思議な色をしていたのだ。ライターに火を点けていた怜路も手元から目を上げ、ばちりと正面から視線が合う。
「目、不思議な色ですね」
怜路の目は、緑の虹彩に銀が差し込んだ明るい色をしていた。身につけているファッションから考えればカラーコンタクトの可能性もあったが、真正面から見る双眸は春の日差しを受けて透明に輝いている。ああ、これは本物だな、と美郷はサングラス姿に得心した。普通にしていては眩しいのかもしれない。
「まぁな。『天狗眼』つって……色々視える。アンタ、なんか飼ってるだろ」
器用に片目を眇めて、怜路がにやりと口の端を上げた。いたずらっぽい口調の言葉に、どくりと大きく鼓動が鳴る。体を強張らせた美郷を面白そうに見遣り、煙草のフィルタを噛んだ怜路が歯を見せて笑った。
「髪型もアレだし、ご同業だったらこの辺じゃ珍しいし、挨拶しとこうかと思ったが……そうビビんなよ、別にこの業界ならアリじゃねーの?」
俺の眼だって大概のモンよ、とサングラスを掛けなおし、怜路が紫煙を吹く。固まったままの美郷からまだ色の薄い青空へと視線を移して、「コイツ掛けてるとまあ、そういう色々を視なくて済むんでね」と怜路は肩を揺らした。
天気は良いが風が冷たい。ひとつ身震いした美郷に目を遣り、怜路が公園端の自販機を指差した。「座ってホットコーヒーでも」ということらしい。
「不動産屋のオヤジから聞いたぜ、災難だなぁ。まあ、ある意味『持ってる』っつーか。で、どうよ。俺らみてーな人種は部屋借りるのも一苦労だろ? 職業欄でまず弾かれるじゃねーの」
「ちょっと待ってください」
怜路から無糖ブラックコーヒーを受け取った美郷は、甘ったるそうな濃厚ミルクカフェオレ片手に喋る怜路を遮った。缶コーヒーを持つ手は温かいが、安っぽいプラスチックのベンチが尻を冷やす。
「ん?」
「『俺らみたいな人種』って、誰のことですか」
職業欄で弾かれるなどと、聞き捨てならない。
「誰って、俺やオメーみてぇな……『拝み屋』だろ、アンタも。まあ『霊能師』でもいいけどよ。どっちにしろ世間的にゃ詐欺師かヤクザの類じゃねーか」
プルタブを引いた怜路が、ははんと笑ってカフェオレを喉に流し込んだ。たしかに世の中、「自称・霊能師」の自営業者などなかなか信用してもらえないだろう。しかし美郷は違う。
「……おれ、市役所の採用通知貰ってるんですけど」
この四月一日から、晴れて新規採用職員である。所属は総務部危機管理課特殊自然災害係だ。
「へえ、市役所……そりゃまた…………はぁ!? 市役所ォ!?」
一度適当に受け流した怜路が、頓狂な声を上げて美郷に向き直った。
「その髪型でか!?」
一番痛い点を突かれ、ぐっ、と美郷は言葉に詰まった。社会人男性、しかも宮仕えをするような人間が、髪を背の半ばまで伸ばしていることは普通ありえない。
「こっ、これは術に必要なものですから!」
ひとつに束ねた黒髪を自分で引っ張って、美郷は反論する。なにも趣味で伸ばしているわけではない。その辺りは理解を得ての採用である。ただ、事情を知らない市民からの視線は覚悟しろ、とも言われていた。
「へえぇ。あー、そういや何かあるってな話は聞いたことあんな。ンたら災害とかって、ありゃマジだったんかい」
「特殊自然災害です。あと、おれは神職の資格も持ってます」
ついでに、美郷の肩書は強いて言うなら「民間陰陽師」だが、これは霊能師やら拝み屋やらと大差ない称号なのでどうでもよい。
「そりゃまた、優秀なこって……てことは、わざわざ公務員受験に巴に来たのかアンタ」
中国山地に抱かれて古代より栄えてきた巴市は、その歴史を多くの神々、怪異、物の怪の類と共に歩んできた。今なおそれらが強い力を残す土地柄ゆえ、トラブルを防止・解決するための部署が市役所にあるのだ。
「まあ、そうですけど」
いわゆる、「公務員になりたくてやってきた」と思われるのは決まりが悪い。我が身の安定だけを求めて就職したように聞こえるからだ。――まあ、大体事実だが。
「へえ、大したもんだね。公職の霊能師なんざ、滅多にあるもんじゃねぇし倍率高かったんじゃねーの?」
その辺りは大して気にした様子もなく、怜路はけらけら笑って再び缶に口を付ける。
「五百倍だそうです」
「……マジで?」
しれっと答えた美郷に、カフェオレを飲み干した怜路が空き缶片手に固まる。多少、相手の失礼な先入観を払拭できたところで、ようやく美郷は己の缶を開けた。既にぬるくなった無糖ブラックを一口すする。缶のブラックは不味い。ただ、砂糖入りの甘いものは更に苦手だ。
「で。せっかく引っ越してきたのに住む場所がなかったワケよ」
空き缶をくずかごに落とし、いかにも胡散臭い「拝み屋」の青年が意地悪くニヤリと笑う。美郷の張ったつまらない意地も見透かしている表情だった。
「まあ何にしろ御同業のよしみだ。今晩の宿に困ってんのは違ェねーんだろ? 今夜だけでもどうよ。そんで気に入りゃあ、引っ越しの荷を入れりゃいい」
「一体、なんでそこまで」
よし、決まり決まり、と美郷を促して公園を出ようとする金髪の後ろ頭に、つられて立ち上がった美郷は困惑の声をかけた。遠のきかけていたハイカットのバスケットシューズがざりりと砂を噛み、サングラスに陽光を弾かせた怜路が振り返る。
「あの不動産屋にゃ俺も世話になっててな。よく事故物件処理とかの仕事貰ってんのよ。……それに、アンタ面白そうだしな」
楽しそうに声を弾ませ、怜路が美郷の肩口を指差す。目元は見えないが、声音に他意はなさそうだ。もしそうなら、随分な酔狂だとも思うが。
「こっから車で二十分。ちょっと奥に入ってるが、車通勤なら問題になる距離じゃねぇ。一戸建ての古い民家なんだが、改築済みの和洋二部屋の離れがあんだよ。和室は六畳、流し付きの洋間が八畳。風呂・トイレは俺と共用、IHコンロ置けば自炊は離れだけで出来ンだろ。どっちかっつーと下宿になるが、光熱水費とネット代込みで月三万円。敷金・礼金なし。俺ァ普段夜働いてっから門限とかは関係ねーが、一応離れに直接出入りできるぜ」
通勤距離が長くなるのはいただけないが、額は破格だ。いい加減、芯まで冷えた身体もここを離れたがっている。美郷もなんとか空けた缶を、くずかごに放り込んだ。春先の乾いた風が前髪を揺らす。
「……おれはダンボールに入った子猫じゃないですよ」
「路頭に迷ってんのは同じだろーが。こんな田舎にそう何軒も不動産屋があると思ってんのか。べっつに、取って喰ったりしやしねーよ。お前が女なら話は別だったろうけどな」
負け惜しみのような台詞もあっはっは、と軽くあしらわれ、不満を抱きながらも美郷は怜路の後を追った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます