第42話わたしの言い訳
「殺人事件、ですか」
周囲に人だかりが出来た区画で耳が拾った情報を総合すると、警察が張ったテープの向こう側で殺人事件が起きたらしい。レティシアも心を痛めた様子でテープの向こう側へと目を向けている。群衆の目からは死体やその現場なんて見えない。ブルーシートで覆われた向こう側に恐らく惨劇の現場があるのだろう。光太はレティシア同様足を止め、群衆の後ろからその区画を眺めていた。
ふと、ブルーシートから一人の女性が呆然とした様子で姿を表した。腕章が付いているので警察官であるのは間違いないのだろう。だが、その顔に見覚えがあり光太は思わず動きを止めていた。
「……デファンドル殿」
ぽつりと零した様に呟いたのは意外にもレティシアの方だった。光太はその声にハッとした様に我に帰りレティシアを見る。レティシアの視線はその警察官の女性に注がれたまま動かない。
「……お知り合い、ですか?」
「っ! え、あ……はい。知り合いです。でも、忙しそうですからまた今度ご挨拶に行きます」
「えっ? 声掛けなくて良いんですか?」
「良いんです」
大丈夫、と強がった様子でレティシアはそう言った。レティシアは少し寂しそうな表情で続けた。
「お仕事中ですし……それにきっと、今行っては無理をさせてしまいそうですから」
「?」
言っている意味が分からなくて光太は首を傾げた。無理をさせる、とはどういう意味だろうか。あの警察官の女性は死体を見慣れていないと言う意味だろうか。
「あの方は、リノア=デファンドル殿と言って先程のアーノルド殿とはご同僚の方です」
「あ、そうなんですか」
「はい。アーノルド殿とはあまり親しく無いのですが彼女とは親しくさせて頂いていて」
余りにも寂しそうに言うものだから、光太はそれ以上問い質せなかった。レティシアは小さく警察官の女性に微笑みを向けた後逃げるようにその場から離れた。
リノア=デファンドルとは懇意の仲だ。
少なくとも、自分はそう思っている。
警察の人間も、教会の人間も、なぜだか聖人であるレティシアを中々人間扱いしようとしない。人を超越した、神の様な存在なのだと口を揃えて言う。レティシアにそんな自覚は無い。ただただ、勝手にそうやって祀り上げられているだけ。そんな警察組織の中で、リノアはなんとも丁寧に普通の人間の少女としてレティシアを扱ってくれる特異な存在だった。
『甘いものとか食べたくないですか?』
『今はこの恋愛小説が流行っているそうです』
『大衆の娯楽は手を出して損はありません。えっ? 見るなと言われた? 誰だそんな事を言ったのは……聖女様は確かに聖女かもしれませんがその前に普通の女の子でしょう? 良いのですよ。興味のある事に興味を持って。勿論、大衆娯楽に興味が無いのでしたらそれも良し。それならそうですね……化粧とか服には興味ありませんか?』
そう言って、内緒でスイーツを買ってくれた。何冊か小説の本を見繕ってくれた。周りに居る人間は決して許してくれなかった娯楽の楽しさを教えてくれた。勿論、聖人・聖女を相手にしているのだ。敬語は抜けきらなかったがいつからか姉の様に思っていた。
『正義、なんてものが存在するかどうかは分かりません。でも、自分の信念を曲げない事。それが一番だと存じます。どうか、自分を見失わないで下さい』
何度も、何度もそう言われた。周囲の人間から『聖女であれ』と抑圧される度に。聖女ではなく、あくまで少女として自分を扱おうとする彼女に苛立つ事もあったがそれが全て自分の為なのだと知る度になんとも言えない感情が胸に渦巻いた。自分は聖女だ。人間である必要は無い。そう思っているのに無理やり人間に引き戻そうとする彼女にいつも泣きそうになる。父でさえ、母でさえ、聖女となった自分を人間として扱わなくなったというのに。それでも人間として手を取ろうとするその姿がどうしようも無く嬉しかった。
あぁ、そうだ。嬉しいのだ。自分は彼女に人間として扱われるのがどうしようも無く嬉しいのだ。
だって、自分は人間なのだと思えた。聖女なんてよく分からない曖昧なものと定義されていない。人間なのだ。人間のままで居ても良いのだと言って貰えた気がした。いや、恐らく直接言葉にはしなかったが言外でいつもそう言っていたのだろう。彼女の立場を思えば恐らくそれが最大限彼女が出来る、組織に対しての反抗だったのかもしれない。レティシアが聖女として神の様な扱いを受ける度に表情を曇らせていた彼女。正義なんてものは分からないと言いつつ、レティシアにとって彼女は自分の正義を貫く大きな存在となっていた。自分の力は弱いと自覚しつつ、彼女は自分の手で目に見える全てを守ろうとしている。その姿が余りにも偉大に映った。こうあろうと思った。己の信念を信じて貫く姿はレティシアの目にはかっこよく映ったのだ。
リヨンと言う街で連続殺人が行われていると言う。その話が話題に上がる度、彼女は表情を曇らせた。他人の死にここまで親身になって悲しむことが出来る彼女を純粋に凄いと思った。勿論レティシアから見ても気分の良いものでは決して無い。でも他人の為に露骨に表情を沈ませる彼女は優しい人なのだと、そう思った。
レティシアにとって、彼女は大切な人物だ。彼女さえ居れば自分は聖女として立てているのだと思った。人間として扱ってくれる心の拠り所がある。それだけで随分と心は救われるものだ。知り合ってそう長い年月が経っている訳でも無いが。彼女はレティシアの中で随分と大きな存在になっていた。人として扱われる事がこんなにも嬉しいなんて。自分は聖女なのに、聖女である自分を捨ててしまいそうになる。甘い誘いに似ている気がする。それでも、聖女である自分を捨てる事なんて出来なくて彼女の表情を度々曇らせてしまった気がする。
自分は人間で居ても良いのだろうか。なんて世迷い言が頭を過ぎってしまう。その気持ちが今日はとても強い気がした。聖女ではなく一人の少女に戻っても良いのかもしれない、なんて。そんな事は決して無いのに。恐らく、同行するこの青年が原因だろう。彼は自分の事を『聖女様』と呼びつつ何故か普通の女の子として扱ってきた。足を躓いた所で自分は転びはしないのに足元に注意しろだとか。あまつさえ聖女という身分の自分にこの青年はなんとも呆気なく、軽い口調で『可愛い』なんて言い出した。異性と手を繋いだのは一体何年ぶりだろうか。聖女なんて言われる前の事だったのは確実だ。
自分は聖女だ。聖女である。そうあろうと努力しているのにあっさりとその努力を突き崩そうとしてくるこの青年は今日は少し恨みがましかった。なのに手を振りほどく気分になれないのは何故だろうか。
『異性に興味を持つのは、何も不思議な事では無いのですよ。貴方が神の嫁だとしても、貴方が望んだわけではありません。どうか、自分の心を大事にして下さい』
いつしか彼女が言った言葉が蘇る。
そんな事、あるわけない。
あるわけないんだと何故か罪悪感に駆られて沢山胸中で言い訳をしていた。
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