第8話 迷走する魔王


(はぁ……。どうしよう)


 窓からメルが何処かへ飛び去って時間が経った。西の空はいつの間にかオレンジ色へと変わり、東の方は濃紺に染まりつつある。

 窓辺に椅子を持って行き、ぼんやりと外を眺めていたリリィは深い溜め息を吐いた。

 ベッドから降りたとき、初めての感覚に最初は盛大に転けたが、少し経った今では支えがあれば歩けるようになっている。二足歩行がこんなにも不安定だとは思わなかった。

 眼下の海は白い波を立てて崖にぶつかっており、棲んでいた海より荒々しさを感じる。

 以前のリリィならば、高さに対する恐怖心はあれど飛び込んでいるところだ。だが、それができないのは人間の足を貰った今、うまく泳げるか自信がないからだった。最も、どちらであっても骨は確実に折れるだろうが。


(お父様の耳に入れば、誰か来てくれるんじゃないかって思ったけれど……やっぱり、勘当されちゃったのかしら)


 意識を失う直前まではバンがいたはず。どういう経緯でオズに拾われたのかは分からないが、オズの元にいるということはバンも知っているだろう。

 だが、あれほど人間には関わるなと言っていた上、人魚を捨てて人間になったのだ。縁を切られていてもおかしくはない。

 もう一度溜め息を吐いたとき、反対側にあるドアが控えめなノックの後、ゆっくりと開かれた。


「リリィ。夕飯でも一緒にどうだ?」


 入ってきたのはオズだ。

 ノックをすることは知っているのか、と少し驚きつつ、彼の言う夕飯に共に行くのは気が引けた。


「…………」

「……そうか。なら、部屋に運ばせておこう」


 そっと首を左右に振って拒否を示したリリィに、オズは怒るわけでも食い下がるわけでもなく、素直に引き下がった。見た目はかなり落ち込んでいると分かるが。

 いつか見た、浜辺で遊びすぎて怒られる子犬を思い出した。

 彼は本当に魔王なのか、と疑いたくなった。

 暫くして運ばれてきた食事を少しだけ食べた後、やることも特に思いつかないリリィは寝てしまえ、とテーブルを支えに立ち上がったときだった。

 また軽いノックの音がして、ドア越しのせいでくぐもった女性の声で「失礼します」と声が掛けられてからドアが開かれた。

 入ってきたのはリリィと同年くらいの少女だった。癖のない艶やかな黒髪は肩の辺りで切り揃えられており、アーモンド型の深紅の瞳には感情の色はない。

 白黒のエプロンドレスは、いつか読んだ絵本の片隅に描かれていた登場人物が着ていたものとよく似ている。


(誰……?)

「リリィ様のお世話を任されました……メイと申します」


 少年と言っても通じそうなアルトの声には、何故か名前を言う前に躊躇いが見られた。

 だが、メル以外にも心を読める者がいたことに驚いたリリィには、それを気にする余裕はなかった。

 メイはきょとんとするリリィを真っ直ぐに捉えて言う。


「『湯浴み』の準備が整いましたので、ご案内いたします」

(何処かで聞いたことがあるけど、何だったかしら……?)

「湯浴みについては、人魚の方は恐らく初めてでしょうからご説明しておきますと、陸で暮らす者の一部が行っている、その身を綺麗にするために温めた水に浸かることです」


 何をすることかを聞いて、確かに、水中で暮らす人魚には必要のないことだと思った。

 だが、陸で暮らす以上はその習慣に慣れたほうがいいだろう。

 ベッドから足を降ろしたリリィに、メイは恭しく頭を下げて言った。


「浴場までご案内いたします」


 お手をどうぞ、と自然と差し出された手を有り難く借りることにし、リリィはゆっくりと立ち上がった。まだ床を歩く感覚は慣れないが、最初に比べると随分とマシになった気がする。

 部屋を出ると、左右に伸びた石造りの廊下があった。向かいには等間隔で大きな窓が並び、別の棟の一部が見えた。壁にはこちらも等間隔で光源となる陽光石がついており、ぼんやりと廊下を照らしている。

 メイに支えられながら歩き、いくつかのドアを過ぎたところで廊下の突き当たりに到着した。

 突き当たりにもドアがあり、メイがそれを開くと螺旋階段が下へと続いていた。どうやら、ここが最上階のようだ。

 中央が丸く開けた階段は、端に手すりがあるものの、初めて目にしたリリィからすれば転がり落ちそうで怖かった。

 思わず支えてくれている手を握れば、メイは何度か目を瞬かせた。


「怖いのですか?」

「っ!」


 うまく踏ん張れない今、段差を降りることに恐怖心しか沸かない。

 必死に頷くリリィを見て、メイはリリィの手を離さないまま一段だけ降りて言った。


「もし、足を滑らせたとしても、必ずお助けいたします」

「…………」


 リリィを見る深紅の瞳に偽りはないように見えた。

 そして、今度は彼女のほうからリリィの手をしっかりと握った。


「貴方様は魔王様の大事なお方ですから、傷一つでもつけようものなら、私の首は胴体に別れを告げなければなりません」

「……っ!」

「なので、安心して下りてください」

(いや、全然安心できない……!)


 一歩間違えれば、自分の失態で一つの命が散ってしまうのだ。さらにプレッシャーが掛けられた気がする。

 しかし、今さら部屋に戻るのも気が引ける上、今後、ここを脱出することも考えると今の内に階段の下り方くらいはマスターしておきたい。

 リリィはごくりと固唾を飲むと、繋がれていない左手を壁につきながら、恐る恐る段差に足を下ろした。


「っ!?」

「っと。ほら、大丈夫ですよ」


 うまく力を入れられず、膝が折れてしまって態勢を崩したリリィを、メイは右腕だけで支えてみせた。

 細腕の何処にこれほどの力があるのかは謎だが、魔族ならばあり得るのかもしれない、と自己完結して「ありがとう」と言った。心の中で。

 そして、ゆっくりゆっくりと階段を下り、一番下の階に着いたときは、さすがのメイにも疲労が滲んでいた。


(つ、疲れた……)

「浴場はこちらです」

(ちょ、ちょっと休憩……)

「浴場でゆっくり疲れを取ってください」

(……休める気がしないのは気のせいかしら)


 何故か嫌な予感がする。

 肩で息をするリリィを無視して、メイは再びリリィの手を引いて歩き出した。

 目的地である浴場は、階段を下りてすぐのドアの向こうだった。

 ドアを開くと、室内の空気は生温い湿気を帯びていた。部屋の広さは先ほどリリィがいた部屋の半分ほどで、左手奥には目隠しのための衝立があった。衝立の上部からはうっすらと白い湯気が上がっているのが見える。

 目の前には大きな鏡が置かれたテーブルと小さな椅子、籠が置かれた棚があった。


「ここで服を脱いで、衝立の向こうにある風呂に入ります」

(……あ! 湯浴みって、あれね!)

「ご存知のようで何よりです。お手伝いは必要でしょうか?」

(う、ううん! 大丈夫!)


 いくら同性とはいえ、知り合って間もない相手に裸を見られるのは恥ずかしい。

 そう思って断ったリリィに、メイはある心配をしながら問う。


「手順などは大丈夫ですか?」

(多分……。本で読んだくらいだから、実際に使ったことはないけれど……)


 どんな本だ、とメイは内心で突っ込みつつ、「では、私はお着替えをご用意いたしますので、もし、その間に何かあれば……念じてください」と、ただの人間ではあり得ないような呼び掛けの方法を伝えて部屋を出た。

 棚を前にリリィはここで服を脱げばいいのか、と白いワンピースの裾を持ったときだった。


「ここは未来の夫婦らしく、一緒に入るか!」

「――っ!」


 声が出れば確実に叫びが響いていただろう。

 メイが閉じたドアが再び開かれたかと思いきや、入ってきたのはオズだった。

 反射的に手元にあった籠を投げれば、予想していなかった彼の顔面に綺麗にぶつかる。


「いたっ!」

(しまった! こんなことしたら、殺され――)

「元気そうで何よりだ。だが、そう恥ずかしがらなくてもいいだろう」

(そのポジティブはいらなかった!)


 一瞬、やってしまった事に冷や汗が流れたものの、彼は籠を拾うとどこか拗ねたように言った。

 恥ずかしいのもあるが、夫婦になる気もないのだ。それこそ、オズと入るくらいならばメイと入ったほうがいい。


(出て行って!)

「はぁ……。しょうがない。今日は引き下がろう」

(今日!?)


 籠をオズから受け取ったリリィは、彼がすんなりと引き下がってくれたことに呆気に取られそうになった。ただ、彼の発言にあった引っ掛かりのせいでそれも驚きに変わったが。

 初めに感じた嫌な予感はこれか、と納得しつつ、リリィは深い溜め息を吐いた。



   ◇◆◇◆◇◆



 手間取りながらも入浴をなんとか済ませると、脱いだ服を入れていた籠には新しい服が入っていた。

 デザインは着ていた物と同じワンピースタイプだが、先がゆったりとした長い袖は手首の辺りで少し絞られ、裾にはふわりとしたレースがあしらわれている。

 体を拭いてから袖を通すと、肌触りの良さに一瞬固まってしまった。

 部屋を出て、待ってくれていたメイに再び手を借りながら歩き、階段へと向かう。下りのときよりも恐怖心はさほどなかったが、最上階に着く頃には疲労で足が震えていた。


(二足歩行の生き物って、よく生活できるわね……)


 段差の上り下りなど、海ではまずあり得ない。

 これで走ったり跳んだりする者達に感心しつつ、リリィは元の部屋に歩を進める。

 精神的にも体力的にも疲れたこともあって、あのふかふかのベッドで早く眠りたい。

 メイが開けてくれたドアをくぐり、よろよろと歩きながらベッドに近づく。後ろにいたメイが何かに気づいて「あ」と小さく声を上げたが、もはや気にする余裕はない。

 だが、ベッドに倒れたリリィは、望んでいたふかふかの感触には包まれなかった。むしろ、堅い何かに当たって痛いくらいだ。

 また、何故か「ぐっ」というくぐもった声が聞こえ、リリィは怪訝な顔でベッドに手をついて体を起こす。

 よく見れば、ベッドに何かいる。リリィが寝ていたときに被っていた、厚めの白い布の下に。

 もぞり、と動いたかと思えば、布の下から現れたのは先ほど浴場で追い払ったオズだった。


(なんでいるの!?)

「一人で寝るのは寂しいだろうと思ってな! 先にベッドに入っていたら、いつの間にか寝てしまっていたようだ」

(余計に寝られないから!)


 初対面で、しかも異性の上に自分を妻にと狙っている者と同じベッドで寝られるほど貞操観念は薄くない。危機感はそれなりにあるほうだ。

 すると、様子を見ていたメイが小さく息を吐いてベッドの横までやって来た。


「魔王様。少々、気が早いです」

「そう、か?」

「今日は止めておいたほうが宜しいかと」

(今日!?)


 またしても次回なら良いと言わんばかりの言い方だ。しかも、今回はオズからではなく、メイから言われた。

 魔族とはこういう者が多いのだろうかと、少し頭が痛くなった。

 オズは渋々ベッドから出ると、「幻聖族は難しいな」とぼやいた。それなら早く解放してほしいと思ったが。

 オズが部屋を出た後、メイも頭を下げてから「また明日、ご朝食の前に参ります」と言って部屋を後にした。


(……疲れた)


 目を覚ましてからいろいろとありすぎたせいか、頭が重い。

 リリィは今度こそ、倒れ込むようにしてベッドに入った。




 部屋から出たオズは、階段とは反対の突き当たりにある自身の部屋へと歩いていた。

 少し遅れて出てきたメイはオズを見ると、深い溜め息を吐いてから床を軽く蹴って跳躍し、身を丸めて宙で一回転する。小柄な体が黒い靄に包まれ、その中から一羽の黒い梟――メルが飛び出した。

 メルはオズの肩に乗ると、彼の行動にやや驚いたように言った。


『女性に慣れている貴方様にしては、珍しく手を焼いていらっしゃいますね。らしくありませんよ』

「しょうがないだろう。相手は幻聖族だから、俺達魔族とは考えが違うし……どういけばいいか分からないんだ」


 珍しがるメルに、オズは拗ねたように返す。

 嫌われることはしたくないが、何がダメなのか分からない。今は距離感を計っているところだと思っておかないと、焦れったさで自制が利かなくなりそうだ。

 メルはメルで、「リリィの身の回りの世話を頼む」とオズから言われたものの、同性の姿でないと許さないと明らかな嫉妬を向けられたため、仕方なく少女の姿を取った。あのときはオズが何か変なものでも食したのかと心配したほどだ。

 リリィに会う前は今までの魔王みたく傲慢で、何か気に食わないことがあればすぐに激怒していたため、彼を知っていれば誰でも「らしくない」と思うだろう。

 メルはこれが良いのか悪いのか分からず、とりあえず、そっと息を吐いて同じ言葉を言った。


『らしくありませんね』

「おい、二度目だぞ」

『本当にそう思ったから言ったまでです』


 やれやれ、と本日何度目かの溜め息を吐き、返す言葉の見つからないオズを横目で見る。

 リリィを連れ帰ってからというもの、彼は魔王としての役目をあまり果たせていない。彼女が目を覚ました後も、喜んでもらえる物は何か考えていたほどだ。

 配下の魔族に知られれば厄介だ、と思いつつ、メルは今日の成果を訊ねた。


『ちなみに、贈り物は決まりましたか?』

「……骨?」

『あれは犬ではありませんよ』

「分かっている! 魔族なら喜んでいたのだが……」


 魔族でも稀だろう、と口には出さずに言い、さっさと贈り物を決めてほしい一心で、メルは先ほど「メイ」としてリリィのそばにいたときを思い出す。

 メルが適当に持ってきた寝具を、彼女は肌触りが心地良いと言っていたのだ。


『寝具は気に入っていたようですし、服などでも良いのでは?』

「なるほど! それがあったか!」


 最初に思いついてもいいであろう物に、どうやら彼は気づけていなかったようだ。

 あとは彼のセンスがうまく働いてくれればいいのだが、と心配になりつつ、メルは仕立屋を手配するためにオズの肩を離れた。

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