人魚と魔王の恋煩い

村瀬香

第1話 恋の訪れ


 ――人間の青年に恋をした人魚姫は、海の魔女に自身の声と引き替えに人間の足を貰いました。

 青年に会うため、人間となり陸に上がった人魚姫。

 しかし、青年と再会することができた人魚姫は声を失っているため、自分の想いを伝えることができませんでした。

 やがて、彼は別の人間の女性と恋に落ちました。

 悲しみに暮れる人魚姫に、彼女の姉達は人魚に戻るための短剣を差し出します。これで青年を殺め、その血に触れれば人魚に戻れると。

 けれど、人魚姫は愛する青年を殺めることができず、海へ身を投げて泡になって消えてしまいました。



   ◇◆◇◆◇◆



 海の底深く。珊瑚礁で出来た山や岩の陰に隠れるように、一つの大きな宮殿があった。

 そこには上半身が人間、下半身が魚の、『人魚』と呼ばれる者達が棲んでいた。

 その宮殿の一室で、古くから伝わる物語を読んでいたのは、十代半ばを少し過ぎたくらいの美しい少女だった。

 腰を過ぎる金髪は癖を知らず、深い青の目は周囲を彩る深海と同じ色だ。


「はぁ……。私もいつかこんな恋がしてみたい……」


 少女はうっとりと溜め息を零して、読んでいた本の文面を白魚のような指でそっとなぞる。

 ここは海の底だが、人魚が持つ魔力で本が破れてしまわないように相応の魔術をかけているため、本は陸上と同じ状態を保っている。また、深海でも海上とさして変わりない明かりを保てているのは、『陽光石ようこうせき』と呼ばれる、魔力を秘めた石を発光させて明かりにしているからだ。

 物語の余韻に浸る彼女を現実に引き戻したのは、隣からにゅっと顔を出した一頭のバンドウイルカだった。


『正気かい? リリィ。それ、悲恋だよ?』


 どこか呆れの滲む声音で、イルカは本と人魚の少女――リリィを交互に見る。

 リリィは本を閉じて大事そうに胸に抱くと、拗ねたように頬を膨らませた。


「もう! 恋をするのが大事なの!」

『ええ……。けど、それって、「異種族間の恋愛は辛い思いをするだけ」っていう教訓本じゃないの?』


 人魚だけでなく、他の種族にもこの話は知られている。

 人間達には悲恋の悲しい物語として、人魚達には異種族間の恋愛への戒めとして。

 だが、リリィにとっては結末よりも「恋をする」ということが大事なようだ。


「バンちゃんはまだまだお子様だから、恋愛は分からないのよ」

『物語の恋に恋をする君には言われたくないな』

「最近のバンちゃん、なんだか冷たい……」


 ふい、と視線をリリィから逸らしたイルカ――バンにいじけて見せるも、バンはさして気にした様子もない。

 宮殿で人魚達と暮らすバンは、一族で昔から人魚達に仕えている。バンはリリィが産まれた後に誕生したバンドウイルカだが、いつしか関係は『姉と弟』から『兄と妹』に変わっていた。

 手の掛かる「妹」に小さく息を吐いたバンは、ここへ来た用件を伝える。


『カモメの夫婦が、君に報告したいことがあるって、砂浜近くの岩礁に来てたよ』

「えっ。そうなの? じゃあ、急いで行かないと!」


 本を岩の壁をくり抜いて作られた本棚にしまうと、リリィは丸く開けられただけの窓から外に滑り出る。

 バンも後に続いて部屋を出ると、尾鰭で何度か水を打ってリリィの隣につき、カモメの夫婦が待つという岩礁に案内した。

 海面から少しだけ顔を出す岩礁は、長い時間をかけて表面が削られ、やや平らになっている。海中からでもすぐに上がれる場所のため、リリィは海鳥達と会うときは大抵、この場所を選んでいた。

 リリィが海から顔を出せば、岩礁に引っ掛かった流木に留まっていたカモメの一羽が嬉しそうに羽を広げて言った。


『お呼びして申し訳ありません、末姫様!』

「ううん。いいの。久しぶりに会えて嬉しいわ」


 リリィは岩礁の縁に手をついて上がる。下半身を覆う薄紅色の鱗が太陽の光を反射して輝き、まるで宝石のようだった。

 カモメの夫婦は美しい鱗に目を奪われつつ、リリィに向き直ってから呼んだ理由を話す。


『実は、私達夫婦の雛が、今朝方飛べるようになったのです』

「本当!? おめでとう!」


 カモメ夫婦の雛は卵の頃から話を聞いている。それが早くも巣立ちを迎えたようだ。

 時の流れの早さを感じていたリリィに、カモメ夫婦の妻のほうがどこか申し訳なさそうに口を開いた。


『本当なら本人も連れてくるべきなのですが、若輩故か姿が見えなくなってしまいまして……』

「ふふっ。すごく嬉しかったんでしょうね」

『恐らくは。末姫様には良くしていただいているので、先にご報告だけでもと思いまして……』

「ありがとう。けど、私は何もしてないわよ?」


 リリィはカモメ達に餌となる魚が多くいる場所を教えたり、海の中で見つけた珍しい物を話すくらいだ。また、カモメ達からはリリィが見ることのできない陸地の様子を聞いている。

 ただ、カモメ達からすれば、リリィには他者を魅了するに十分なものは他にもあった。

 夫のカモメは両翼を広げると、どこか興奮した様子で言う。


『何を仰いますか。末姫様は素晴らしいお歌を歌われます! 我々には勿体ないものです』

『それに、「幻聖族げんせいぞく」であらせられながら、我々海鳥にも分け隔てなく接していただいているではありませんか』

「種族はあんまり気にしてないだけなんだけど……」


 この大陸には、人間や動物以外にも二つの種族が暮らしている。

 人間と長く対立し、強大な魔力を有する魔王配下の『魔族』。そして、魔族と同じく魔力を有しながらも争いを嫌い、人目を避けて暮らす『幻聖族』だ。

 幻聖族はプライドの高い者が多く、リリィのように親しみを持って接してくる者はほとんどいない。

 苦笑を浮かべるリリィに、バンは『そうだ』と何かを閃いた。


『せっかくだし、お祝いの歌でも歌ってあげたら?』

「お祝いの歌かぁ。それなら私にもできるかしら」

『なんと! よろしいのですか!?』

「もちろん。お安い御用よ」


 喜色を滲ませるカモメ夫婦にリリィは笑顔で頷く。

 歌はリリィも得意中の得意だ。それで喜んでくれるなら、やらないわけにはいかない。

 リリィは音を確かめるように口ずさんだ後、静かに息を吸い込んだ。


「……――」


 ゆっくりと、記憶の中に刻まれた音を紡ぐ。

 歌を邪魔しないよう海が配慮しているのか、波が徐々に静まっていく。柔らかい風がリリィの長い髪を揺らす。

 人間達の歌には楽器を用いて歌を際立たせるものが多いが、リリィの歌の前ではどんなに美しい楽器の音であっても邪魔になりそうだ。

 うっとりと聴き入るカモメの夫婦と、いつの間にか岩礁に集まってきた他の海鳥達。さらに、バンとはまた別のイルカの姿もある。

 それらを視界の隅に捉えたリリィは、離れていても聞こえるようにと少しだけ声を大きくさせた。



   ◇◆◇◆◇◆



 聞いたことのない、美しい歌声が聞こえてくる。

 風に乗って運ばれてきた声に誘われるように、青年はゆっくりと砂浜へと近づいた。

 荒波を消すために山から削り出されて置かれた岩を越え、声の主を探す。


(……いた)


 砂浜にいると思いきや、歌声の主がいたのは海の方……砂浜から少し離れた岩礁の上だった。

 足下に気を配ることさえ忘れそうになるほどの美声。透き通るその声は磨き抜かれた水晶を思わせる。

 美しい金糸の髪が風に遊ばれて揺れ、腰から下を覆う薄紅色の鱗が太陽の光を反射して宝石のように輝く。横顔はまだ幼さを残すものの、人間の女性にはない現実離れした美しさを秘めている。

 人魚だ、と青年は心の中で呟いた。

 青年は幻聖族の存在を知ってはいるが、姿を見ることはほとんどなかった。


 ――もっと、近くで聴いてみたい。


 ごく稀にしか見ない幻聖族。その一つである人魚を前にそう思った青年が一歩踏み出したとき、足の下で嫌な感触がした。

 しっかり踏みしめたはずが海草でも引っ掛かっていたのか、ぬるりとした感触のせいで足は本来の位置よりずれ、結果、岩から滑り落ちてしまった。


「いたっ!?」

「っ!?」


 反射的に上げた声に歌が止み、集まっていた海鳥達が一斉に空へと羽ばたく。

 申し訳ないことをしてしまった、と思いつつ上体を起こした青年は、まだ岩礁に歌声の主である人魚がいることに気づいた。

 格好のつかない場面を見られてしまったことは恥ずかしいが、時間を巻き戻すような力は残念ながら青年にはない。


「邪魔をしてしまってごめんね」

「…………」


 人魚は驚きで声が出ないのか、青年を見たまま固まっている。

 深海のように青い瞳は大きく見開かれ、警戒の色は若干あるものの、硬直しているせいか逃げる気配はない。

 それなら、と青年も去ることはせずに思ったままのことを伝えることにした。


「あんなに美しい歌声は初めて聴いたよ。だから、ついどんな子が歌っているのか気になって……」


 人魚が喋らないということもあってか、やや一方的な話し方になってしまう。

 距離があるために声を張り上げていた青年は、一度言葉を止めて息を整える。初めて目にする人魚を前にしているからか、それとも美しさに心を奪われでもしたのか、心臓の鼓動がいつもより早い。

 そして、また話しかけようと口を開いたが、言葉は紡ぐ前に聞こえてきた別の声によって喉の奥で止まった。


「キース様ー! どちらにいらっしゃいますかー!? 船の準備が整いましたよー!」

「……ああ、もう。こんな時に……」


 青年――キースは、やや年老いた男性の声に悔しさを滲ませつつ、人魚に向き直って言う。警戒をさせないよう、笑顔を浮かべて。


「出発前に聴けて良かった。ありがとう!」

「あ……」


 幻聖族は人目を嫌う傾向が強い。今回、人魚と会えたのも奇跡に等しい。

 そのため、彼女を他の人の目に晒すのは可哀想だと思い、キースはまだ自身を探す声の主のもとに向かって去って行った。

 残された人魚は呆然とキースの去った方向を見つめる。

 すると、海面に顔を出した一頭のイルカが彼女に声を掛けた。


『びっくりしたぁ……。まさか、人間がやって来るなんてね。リリィ、大丈夫かい?』

「…………」

『リリィ?』


 まるでイルカの言葉が聞こえていないかのように、人魚――リリィは呆然としていた。

 キースが声を上げたときに反射的に海に潜っていたイルカことバンは、返事をしないリリィに不思議そうに顔を横に動かす。人間であれば首を傾げているだろう。


『ちょっと、リリィ。聞こえてる?』


 機嫌が悪かったり、ふざけて敢えて無視をすることはあれど、今の様子はそれとは違う。

 砂浜を見つめる瞳は熱を帯び、頬には僅かに朱が差している。決め手は、バンへの返答の代わりにリリィがぽつりと呟いた、他の人魚に知られれば大問題に発展しそうなほどの爆弾発言だ。


「……素敵」

『……はぁ!?』


 恋に恋する人魚が、産まれて初めて恋に落ちた瞬間だった。



   ◇◆◇◆◇◆



 海に面した切り立った崖。崖の上は踝を隠すくらいの草花が生い茂り、内陸の方に行けば様々な種類の花が咲き乱れる花畑になっていた。

 その崖の縁に立つのは、黒を基調とした服を着た端整な顔立ちの青年だった。

 漆黒の髪は襟足が肩を過ぎ、ロングコートの首元の飾りとしてついた紫色の羽に隠れている。首から提げたペンダントには、手のひらに収まるくらいの青紫色の石がついており、中心が淡く輝いていた。

 切れ長の深紅の目は、海上のある一点を見つめたまま動かない。

 視線の先では、一人の人魚がイルカに口先で尾鰭をつつかれて海中へと戻って行ったところだった。


「見つけたぞ……」


 深海へと消えていく薄紅色の鱗を見送ってから、青年は口元に笑みを浮かべて呟く。

 背後の空中で黒い靄が渦を巻いて発生し、中から一羽の黒い梟が飛び出した。

 黒梟は青年の肩に留まると、彼と彼の視線の先を交互に見つめる。

 青年が見ているのは何もない海面だ。近くには海面から顔を覗かせる岩礁もあるが、他には何もない。

 何故、青年が岩礁を見ているかは分からなかったが、理由を訊ねる必要はないと判断し、黒梟は東の方へと視線を移した。そして、見えた物に嫌悪感を表すように険しく目を細める。

 東には大きな港町があり、港には何隻もの大型の船が停留していた。遠くて人の目では認識できないであろうが、黒梟の目には確かに、船に積まれた大砲や砲弾、槍などの武器が映った。

 警戒の色を強めた黒梟だったが、青年は港町になど見向きもせずに力強く言った。


「我が妻に相応しい者を!」


 予想していなかった発言に、梟は驚いたように青年を見て大きな目をさらに見開いた。

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