23時30分のキャッチコピー
鎌田玄
人生はいつのまにか忘れているものでできている。
たまたま帰り道に見つけたお店が、バー『こぴー』だった。
人通りの少ない裏通り。最寄り駅から歩いてすぐのところにあるのに、今まで気づかなかったとは…。
建物は古い洋館のような感じである。甲子園球場のようにツタが壁に巻き付いている。
よく見ると壁は赤レンガ。明治時代の建物がモチーフなのかもしれない。
時刻は23時30分。
今日も残業していたら、こんな時間になってしまった。
まさか月曜日から残されるとは。このイライラは、お酒で流さないと。
そう思い、板チョコみたいな大きな扉を押し開き、お店に入った。
「いらっしゃいませ」
店内は、レトロな喫茶店のようだった。
カウンターが5席だけあり、奥にはマスターと思しき男性がグラスを磨いていた。
照明は…ランプがいくつか置かれ、オレンジ色の温かい光が室内を包んでいる。
私は、春用のコートを脱ぎ、椅子に座った。
「…あれメニューは…」
周りを見回してもメニューらしきものは見当たらない。
カウンターの奥には、洋酒らしき瓶がいくつもあるのに…。
すると、マスターらしき男性が口を開いた。
「今日の営業はもう終わりましたよ」
あっちゃぁ~、そうだったのか。
まだ当然やっているものだとばかり思っていた…。
私はそそくさと立ち上がり、コートを手に取って、お店を出ようと―。
「せっかくの縁ですから、少しだけいませんか?」
マスターらしき男性の優しい声がかけられた。
オレンジ色の光に移った彼の顔は、50代くらい。髪は短く切り揃えられ、少しだけ白いものが目立つ。丸いメガネと鼻の下のちょび髭が可愛らしい。
「ここはコピーのバーですから…今日もオススメのコピーがありますよ」
「…コピーって?」
私は席に着きなおして、問いかける。
「失礼しました。コピーとはキャッチコピーのことです」
キャッチコピーって、広告とかに書いてある短い言葉のことか…。
「そして、私はここで、色々なコピーを皆さまに紹介しています」
「ええと…」
少し話が早すぎて追いつけていない自分がいる。
つまり、どういうことだろう?
「メニューはあります?」
とりあえず場をつなぐために質問してみたけれど、マスターらしき男性は笑顔で首を横に振った。
「…ええと、あなたは何者でしょうか…?」
恐る恐る聞いてみる。もし訳の分からない答えが返ってきたらすぐに帰ってしまおう。今日はついていなかったと寝てしまおう。
「あ、申し遅れました。私はこのバー『こぴー』で店長をしている者です。皆さまからはマスターと言われます」
頭を搔きながら、恥ずかしそうに話すマスター。なんだ、普通の人みたいだ。
「じゃあ、今日のコピーって何があるんですか?」
少しだけ興味が湧き、この質問を振ってみた。
すると、マスターの目が一気に輝く。
待ってましたとばかりに。
「ええ、ええ。今日もありますよ。おすすめのコピーが。そうですね…今日は4月3日ですから…」
そう言って、マスターはカウンターの裏からボードを取り出した。
そのボードには、
『人生はいつのまにか忘れているものでできている』
と書かれている。
「ええと…どういうことでしょうか?」
何を言いたいのか分からない。でもマスターは笑顔だ。
「このコピーを読んでみてどう思いましたか?」
「ああ…ふうん…みたいな…」
しまった。私の適当な答えを聞いて、マスターの笑顔がしぼんでしまった…。
「そうですか…」
「いや、違います、違います!」
慌てて訂正する私。そこから必死に考える。
「…でも、確かに、人生振り返ってみても、覚えていることって少ないかも…」
ぼそっと話した言葉をマスターは聞き逃さなかった。
「そうですか?何もないってことはないですよね?」
「ううん…文化祭とか、体育祭とか、サークルの大会とか…そういう大きなイベントは、ふわ~っと覚えているけれど…」
マスターは目をつぶって頷いている。
「じゃあ、去年の4月3日に何をしていたかって言われても分からない…です」
必死に思い出そうとしても、何があったか思い出せない。
下手したら4月まるごと思い出せないかもしれない。
「ううん…もしかしたら来年になったら、今日のことも忘れちゃうのかなあ…」
少し心配だ…。そんな漫然とした生き方なんてしたくないって高校の頃は思っていたのに…。
マスターは笑顔で問いかけてくる。
「でも、大丈夫ですよ。きっと明日からは少しだけ変わりますから」
「え…?」
「ほら、一日一日、少しだけ大事にしようって思うようになりません?」
う…。確かに、このまま何も思い出せないような、一日一日を過ごすなんて嫌かも。
私は目線を逸らしながら、ちょこっと頷く。
マスターはクスッと笑ってくれた。
「それに、コピーの面白さはこれだけじゃないんですよ」
そう言ってマスターは、ボードの言葉を書き換えた。
『人生は忘れているものでできている』
「どうです?印象が変わりましたか?」
変わったなんてものじゃない。一気に体が拒否反応を示すくらいに、気味が悪い。
私は眉間にしわを作りながら、マスターを見た。
「やっぱり、お気に召しませんでしたか?」
気に召すはずがない!こう言い切ってしまうと、なんというか…嫌だ。
「このコピーのミソは”いつのまにか”という言葉だと、私は思うんですよ」
「確かに…そうかもしれないです。この言葉があるとないとじゃ、受ける印象が全然違います」
マスターはふふっと笑う。
「キャッチコピーって面白くないですか?たった6文字でここまで違ってくる。一文字一文字の重みがある…言葉ってすごく面白いんですよ」
マスターのスイッチが入ってしまった。
でも確かに面白い。たった6文字なのに、あるとないとじゃ、全然違う。言葉ってこんなに面白かったんだ…。
と、マスターが私の奥を見た。
そこには、古そうで高そうな時計が置いてある。
「お客様、申し訳ありませんが、そろそろ営業終了時間です」
時刻は24時になろうとしている。
「あ!ごめんなさい…無理矢理入ってしまって…」
マスターはゆっくりと首を横に振る。
「いえいえ、今日はどうでしたか?」
今日のコピー…『人生はいつのまにか忘れているものでできている』。
普段はまったく気にも止めないものだけれど、少し考えてみると、面白かった。
「面白かったです!」
「それはよかった…また来てもらえると嬉しいです」
マスターはそう言って、カウンターから出てきた。
そして、扉を開けてくれる。
私は荷物をまとめ、お店から出る。
後ろから、「また来てくださいね」と声がかかった。
『人生はいつのまにか忘れているものでできている』…そうならないように、ちょっとだけ頑張ってみようかな。
4月3日の『こぴー』…これが私とキャッチコピーの初めての出会いだった。
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