窯、掃除する料理人
1
岩上都市リシアンが魔物たちに支配されてから幾月か経った。
リシアンにほど近い村々に住んでいた人々は、その事実を知るや否や生まれ育った故郷を投げ捨てて逃げ出してしまった。
この哀れな者たちのほとんどは農民で、命を取られるよりましと先祖伝来の土地を捨てて村を出たはいいものの、どれくらいの人々が助かったかは杳として知れない。
リシアンの北西部に位置するヌリという小さな村もまた、山積みになっている悲劇のひとつになろうとしていた。
いつ襲ってくるかもわからない魔物に脅えた村人たちはそのほかの例にもれず村を捨て去り、残されたのは足の遅い老人や捨てられた子供と女たちだった。
いくら獲物は食いでのない痩せっぽちばかりといっても、魔物たちに慈悲の心などない。
ある日、とうとう村の周囲が魔物に取り囲まれた。村人たちは戸を塞ぎ閉じこもった。このまま夜になれば、きっと皆、食われてしまうだろう。
その矢先、村長の家の裏戸を叩く者があった。
魔物が誑かしに出たのかもしれないと家人は恐れたが、その音が三度続くと、《恐れに震えたままでいるより、己を食おうとしている者が何なのか見てやろう》という恐れと蛮勇の入りまじった気持ちで覗き窓から見てみようということになった。
すると、拍子抜けしたことにそこにはヌリの村にはいなくなってしまった若い男が立っていた。
ただし、その容姿は村の者たちとは少し変わっている。
「誰なんですか、お父さん」
怯えながらも夫についてきた老婆が訊ねる。
村長は畑仕事で鍛えた逞しい体つきをしていたが、老いていることにかわりない。魔物に襲われたらひとたまりもないだろう。
「さあ……わからん。肌の浅黒い長耳族だ」
「長耳族……? なぜ彼らが人間の村になんか……」
長耳族、長命族、森の人、賢者……様々に呼び名があるが、もっとも有名なのはエルフだろう。
彼らは賢く狩りの技に長け、乱暴で森を汚す魔物たちと敵対している。
それなら魔物に襲われる人々を助けてくれてもよさそうなものだが、面倒なことに人を魔物と同じ下等な生き物だと考えているため、魔物と人との諍いには顔を出さないのが通例だった。
「しかも、あの肌の色となると……」
村長は苦い顔つきになった。老婆は知らないようだが、肌の黒い長耳族は、森に住む者たちとも違うのだという噂があった。彼らは邪悪な魔術を使い、エルフたちにも煙たがられ、ときには魔物とつるんで悪さをすることさえあるという。
「ええい、ここでまんじりとしていても、夜までの命だ!」
村長は農具を握りしめ、閂を開けた。
戸を開けると、若者はするりと家の中の闇に入ってきて、顔を隠しているフードを外した。紫水晶の色をした瞳があやしく輝いた。
「ひいっ」
と声を上げた老婆を背に庇い、村長は気丈に問いかける。
「何ものだ。こんな村に何の用だ」
「そちらは奥方か。脅えさせてすまなかった――俺の名前はノルン。……旅の者だ」
ノルンは懐からなめし革の袋を取り出した。
中には金が入っているのかと思いきや、どこで手に入れたのか宝石のついた指輪や真珠が入っていた。
「申し訳ないが、これで村の麦を分けてもらいたい」
「麦だと? 今、この村が置かれた状況がわかっとるのか?」
「ああ。魔物たちが村外れの森に潜んでいる。夜になったら一斉に襲うつもりだろう」
「だったら――」
村人たちは麦どころではない。村は恐怖に支配されてパンを焼く暇さえないのだ、と言おうとしたのをノルンは遮った。
「重ねてすまないが、俺にはこの村を救う力なんてない。剣を持ったことはないし、魔法も使えない。できるのはせいぜい……料理をすることだけだな」
「料理……? お前さん、料理人なのか」
「そんな上等の者ではないが、いまは料理が仕事だと言ってもいいかもしれない」
ノルンは難しい顔で、俯いた。
この緊急時に突然現れて、麦を分けてくれなどといった要求をどうしていいものか、村長は考えあぐねている様子だった。
その彼の袖を老婆が引く。
「ねえお父さん……。小麦粉なら蓄えがありますから、それを分けてあげましょうよ。この辺りも人がいなくなってしまって、畑の世話をする者もないし……みんなお腹を空かせてるのよ。きっと、私たちが作った最後の麦になるでしょうし……」
村長はしばし考え、むっつりとした表情で頷いた。
他人の腹具合などどうでもいいような気がしたが、最後の麦、という言葉は胸を突くものがあった。畑の世話しかしない生活ではあったが、そのぶん作物の実り具合に一喜一憂し、時には神の思し召しではないかという自然の逞しさ、奇跡を間近に感じもした。愛着のある作物を、ここで朽ちさせてやるよりは誰かの腹に入ったほうがそれは真っ当といえるのではないか、そんなことを考えたのだ。
「……有り難い」
小麦粉の入った大袋をひとつ受け取ると、ノルンはそれを指で掬って床に不思議な紋様を書いた。
「礼には足りないかもしれないが、俺が外に出たらこの紋様を戸や窓、暖炉や竈といった外に通じる場所に書いておくといい。ずっとは無理だが、魔物たちをしばらく遠ざけておく
「あんた、魔術は使えないとか言っていなかったか」
「ああ。使えない。俺の家に伝わるただのおまじないなんだ」
そう言って肩を落とした若者の表情には何かしらの苦い表情が混じっている。
肌の色も瞳の色も人とは違っているが、そこから読み取れる感情は後悔や申し訳なさといったものに違いなかった。
長耳族も、人と似た感情を持つ者たちなのだと老夫婦は考えた。
それじゃ、と短く言って彼は袋を背負い、俯きながら出て行った。
悪い子ではなかったわね、と老婆が呟いた。
村長もその行く先を見送りながら応じて頷いた。
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