花の下に死す 最終話

 


 5.



 各地に咲き誇る満開の桜に、日本中がお祭り騒ぎの季節。春の遅い深山にも、ようやく薄紅の花が咲き始めた。


 いまだ新緑の気配もないこの時期、冬枯れた山々の茶色の中に、ふわりと霞むような薄紅色が点在する様は独特だ。まだ遠い生命の季節を先取りし、真っ先に存在を主張する。我はここに在り。そう言っているような姿は、春の到来を告げるものであるのに、何故か酷く死に近しい。まだ辺りは死と眠りの季節の只中で、独り咲き急ぎ、散り急ぐ花だからだろうか。空港からのレンタカーを走らせながら、駒場は儚くもの寂しい幽谷の春を味わっていた。


 ほどなく橘領の屋敷へ到着する。手ぶらで来てしまったことを一瞬後悔したが、桜が孤独な春を謳歌している中に、花束を持ってゆくのも無粋かと思い直した。


 この屋敷を訪れるのもこれが最後だろう。


 門前で来訪を告げ、屋敷へ通される。玄関には上がらず、直接庭へと回り込んだ。


 目的の樹を求めて、ぐるりと視線を巡らせる。庭の奥、玄関側からは目に付かないほんの端に、隠れるようにして、駒場の探す山桜はあった。


 あれから七年の歳月を経て、桜は随分背を伸ばしていた。周囲よりも少し開花の早いこの樹は、既にはらりはらりと花弁を舞わせている。根元に立って見上げ、あの時庭師に無理を言って被せた、急ごしらえの温室を思い出す。


 つまらない、自己満足だけの行為だった。桜の開花を早めたことも、橘領に飲ませる薬湯をすり替えたことも、罪悪感に対する言い訳だと思っている。それでも柔らかく笑んでくれた青年に、駒場は感謝していた。


 かたり、と背後で引き戸の開く音がして、これ見よがしに呆れ交じりの溜息が聞こえた。


「……家主に挨拶もせず、他人の屋敷で花見ですか。一体何をしにいらっしゃったんです」


 相変わらずの憎まれ口に、口元が綻ぶ。振り返れば車椅子に身を沈めた橘領が、半眼でこちらを見ていた。縁側に取り付けられたスロープを使って、使用人が橘領の車椅子を庭へ下ろす。ずっと寝たきりの生活にも関わらず、来訪を伝えていればきっちり長着に羽織姿で出迎えてくれるのが彼らしい。


「桜鼠の羽織、よくお似合いですな」


 銀鼠の長着に桜鼠の羽織、滅紫の半襟と帯を合わせた姿は春めいていて風雅だ。何より、彼の純白の髪によく映えていた。


「褒めても何も出ませんよ。と言うか、手土産に茶菓子のひとつもないのですか」


 横柄な態度でのたまう橘領のもとへ歩み寄り、駒場は車椅子の取っ手を預かった。痩せ衰えて棒のような手足、病弱そのものといった風情の蒼白い肌。何よりも、一切の色が抜け落ちた純白の髪。先見のために、橘領が支払った対価は大きい。だが、気位の高そうな美貌は健在だ。


「リクエストをお聞きし忘れましたゆえな。代わりに見舞いの花を、とも思いましたが……この桜の前では無粋でしょう」


 言いながら、駒場は車椅子を押して桜のもとへ向かう。ひらり、ひらりと思い出したように薄紅の花弁が舞い落ちていた。


「確かに、またテイクアウトでハンバーガーを持って来られたら堪りませんからね」


 仕方がない、と天を仰いで、橘領が目を細めた。七年前のやりとりを思い出して、駒場もまた目を伏せる。昏倒した橘領が入院する病室に、一番安い店の一番安いハンバーガーを買って行ったのが、最初の見舞い土産だった。病人相手に何を持ってきたのかと心底呆れた後、橘領は可笑しそうに笑っていた。


 駒場が橘領に盛ったのは、人を仮死状態にする毒薬だ。脈が触れないほど弱まったのを確認して医師を呼び、救急車で病院へ搬送した。脳障害を残さず蘇生出来るよう調合した毒薬は狙い通りの効果を発揮し、橘領は最寄りの総合病院の、集中治療室で目を覚ました。


 一度この隔離環境から出てしまえば、再び先見が出来るコンディションを整えるのは難しくなる。橘領の体力、残る命数を考えれば不可能と言えた。駒場は上司に「突然の体調不良」として橘領の状態を伝え、最後の先見依頼を取り消した。


 自分が、橘領を殺してしまう。国という大義名分はあれど、駒場はその覚悟を背負いきれなかった。例え最後の先見ひとつ取りやめたところで、彼本人が言ったように、今まで削られた命数は戻って来ないのだろう。橘領の寿命を何年か先延ばししたために、救えるはずだった未来の何万人を殺すのかもしれない。


 だが何度選択を迫られても同じ答えしか選べないだろう。臆病風か、悲運への憐憫か。孤高という言葉が良く似合う美貌に、単純に絆されただけかもしれない。


「――市内の療養施設へ移られるそうですな。食事は、喉を通っておいでですか」


 二十年、三十年分と容姿が衰えたわけではないが、橘領の身体は間違いなく生命力を失っていた。内臓機能の低下も激しく、衰弱しきった肉体はどれだけ手厚い療養を施しても万全には戻らない。あれから結局、橘領は一度も自分の足で立上がれてはいないだろう。


「最近は、ゼリーのようなものしか食べていませんね。……そろそろ限界なのでしょう。丁度七年、まあ、よく保った方かと」


 満ち足りた、穏やかな表情で橘領は笑う。柔らかい西風が、橘領の純白の髪を揺らした。救急搬送された病院でひと月ほど療養した後、橘領は結局この屋敷に戻った。もう先見の出来る身体でないことは彼の親族にも説明し、了承を得ている。


「地殻変動解析も大体の目途が立ちましたからね。あとは、後任に何とかしてもらいましょう」


 屋敷に戻った橘領は、病床の上で地殻変動解析の研究を始めた。元の得意分野を活かし、「先見」で視ることの出来なかった、巨大噴火の場所を突き止めようとしたのだ。彼の直観力――膨大な情報を無意識の中に取り込んで解析する能力は、たとえ集合的無意識に接続出来なくとも健在だ。


 集合的無意識から情報を得る代わりに、世界中の観測所や研究所が保有する膨大なデータを読み込み、橘領は独自の地殻変動解析手法を組み上げた。まだまだ原理だけだが、画期的な地震予測手段になる可能性があるという。


「お疲れ様で、ございました」


 橘領が研究に携われるよう、手配したのは駒場だ。宮内庁以外の省庁へ働きかけるのは、転属経験のない駒場には不慣れで難しい部分もあったが、努力の価値はあったと実感する。


「疲れましたよ。でも、楽しかった」


 ありがとうございます。駒場を見上げて視線を合わせ、橘領が微笑んだ。駒場も目を細めてそれに答える。いえ、こちらこそ、と。


「このまま、ここで眠れればいい。丁度、あの日と同じ桜が咲いている……」


 橘領が仰のいたまま目を閉じる。ざわりと春風が桜の枝を揺らした。


 散り際の花弁が一斉に宙を舞う。


 目の前を乱舞したひとひらが、ふわりと橘領の瞼の上に乗った。


「お休み下さい。今度こそ、ゆっくりと」


 震えぬ瞼から、再び風に煽られた花弁が離れる。


 雫が一筋、駒場の頬を濡らした。





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