花の下に死す 4




  4.



 駒場の用意した薬湯は、恐ろしく良く効いた。


 その場しのぎであるのは間違いない。鎮痛成分や興奮剤など、痛みと倦怠感を誤魔化すものばかりだろう。それでも何とか身体を起こせるようになった斗織は、先見の準備を始めた。


 準備といって、格別の作法があるわけではない。要は自分が集中できれば良いだけなので、我流のルーチンを行うだけである。主には禊と瞑想だ。


 駒場は常に、斗織について看護や介助をしていた。さも当然の顔で黙々とされるそれらを今更拒絶する気にはなれず、斗織は駒場の為すがままにされている。時折、ぽつりぽつりと他愛のない話もした。主に駒場が話題を振って、斗織が簡素に答える。会話は大して長く続かないし、盛り上がりもしない。だが斗織にとって、数年ぶりの心地良い時間だった。


「――大学では何を勉強しておいでだったのですか」


「物理です。理論宇宙物理学といって……そうですね、天文台や宇宙望遠鏡からのデータと数式から、宇宙の創成や進化について研究していました。あなた方のお仕事とは、無縁の世界でしょうね」


 頭から爪先まで「科学」に漬かっていた当時、呪術や占術は遠い世界の荒唐無稽なおとぎ話のように思えていた。無論、自分に妙な第六感があるのは幼い頃から知っていたが。今では逆に、空を見上げて僅かなデータをかき集め、ひたすら数式をこねまわす方がよほど荒唐無稽で夢見がちなようにも思える。


「そうですな。浅学ゆえ、私には想像出来ぬ世界ですが……お好きなのですか、宇宙が」


 斗織の背を支え、布団の上に座らせながら、駒場が間近で訊いた。


「ええ。好きでしたよ。宇宙というよりも、世界の理に興味があった」


 視線を合わせて答える。駒場の声音は深く穏やかだ。優しい、とすら思えるのだが、彼の顔に笑みが浮かんでいるのを見たことはない。思い返せば、初めて顔を合わせてからこちら、一度も斗織は、笑う駒場を見たことはなかった。


 自分の好きなもの、興味のあること、感じたことを、誰かに話すことすら数年ぶりだ。橘領家の用意した使用人は、必要最低限しか斗織には関わって来ない。自分で思っていたよりも遥かに、斗織は孤独だったのだ。


「他人よりも視えるモノが多いだけ、『理』の世界に惹かれたのだと思います。私が視ているモノは何なのか……結局、今『科学』と呼べる理論の範囲では説明出来ませんでしたが」


 この屋敷に閉じ込められる前、自由の身であった時すら、先見のことは誰にも言えなかった。こんなにも思ったままのことを口に出来るのは、生まれて初めてなのかもしれない。それが人生の終わりも終わり、残り僅かになってから、己が絶命する原因を作った相手というのも皮肉だが。


 身体を布団に横たえると、駒場が丁寧に上掛けをかける。今日はもう、休む時間だった。


「明日には、実際の先見を始めます」


「かしこまりました。――これが最後の先見ですな。終わったら……どちらの店にご案内すればよろしいですかな」


 店、とは何のことだろう、と斗織は一瞬考え込んだ。一拍置いて合点する。そう言えば、全て終わればハンバーガーを食べさせてもらうという約束だったか。あまりにも馬鹿馬鹿しい条件に、自分で苦笑いが漏れる。


 店や商品を指定したところで、食べられないのは分かり切っている。先見が終わって、生きて結果を伝えられれば上々。途中で絶命することも十分もあり得る。


「全て終わってから考えますよ……。全て、きちんと終えられれば、その時に」


 言って目を閉じる。鎮痛と入眠作用を持つ薬が効き始めてきた。ふわり、ふわりと意識が輪郭を崩す。夢うつつに、斗織は呟いた。


「明日が最期になっても……あなたに死に水を取って貰えるならば悪くない……自由は、叶わなくとも……」


 あなたの役に立てたのならば。そんな風に思える相手が、最期に隣にいてくれるのは幸せなことだ。薬の効能もあって、穏やかな多幸感に満たされほどける意識の端で、温かい手に頭を撫でられたような気がした。






 だいぶ上手くなった鶯の啼き声で、斗織は目覚めた。


 日付や曜日感覚のない日々が続いているが、外はもうすっかり春なのだろうか。


「いや、まだ桜の咲く時期ではないか……」


 寝室に結界を張る都合で、障子は閉め切られており庭の様子は見えない。山桜の中には開花の早いものもあるが、大抵の桜が四月も下旬になるまで眠っている。斗織が倒れたのが三月半ば、どう長く見積もっても、あれからひと月以上は経っていないだろう。


 身体が鉛のように重い。


 駒場の薬湯に頼らなければ身体を起こすのも辛い日々が続いているが、それも今日で終わりだろう。ぼんやりと感慨に耽っていると、定刻になったのか駒場が薬湯の椀を盆に載せてやってきた。枕元に座ったお役人の、相変わらず堅苦しい表情にくすりと笑う。結局、最初から最後まで笑顔を見せない男だった。


「おはようございます」


 いつも通り、愛想のあの字もないような顔で、丁寧に駒場が座礼する。その肩に、不似合なものが乗っていた。


「おはようございます……おや、朝からどこに花見に行っておられたのですか?」


 駒場の肩に薄紅色の花弁を見つけた斗織は、からかうように言って手を伸ばした。視界に映る腕の、細く蒼白く力ない様子に自分で驚く。


 斗織の指すものに気付いた駒場が、ひとつ瞬いて花弁を摘まんだ。三月も終わりになれば、東京や海沿いの暖かい地域では桜が咲くだろう。しかし、この寒い山奥ではまだ到底望めないものだ。つまんだ花弁を斗織の指先に乗せ、駒場はふ、と小さく息を吐く。


「――これからお見せしようと思ったのですが、油断致しました」


 言って立ち上がると、駒場は斗織の枕元をすり抜け、庭に面した障子戸に手を掛けた。斗織はそれを追って枕の上で首を巡らせる。


「――もう、結界も必要ありますまい」


 呟くような低い声が、駒場の背中越しに部屋の静寂を揺らす。障子がほんの少し音をたて、久方ぶりの外の景色が斗織の目に飛び込んで来た。


「庭の端が見えますか。あの……桜が」


 振り返り、指差す駒場の表情は逆光でよく見えない。駒場の指先を追って視線を上げた斗織は、その薄紅色に瞠目した。


 背は低く、枝ぶりは細く貧相だ。無論、花も多くはない。だが、斗織が見守っていたあの山桜が、確かに花を咲かせていた。一体なぜ、と駒場に視線を戻す。


「もうそんなに、季節が過ぎましたか」


「いえ、まだ四月も始めでございます。東京は満開と聞きますが、こちらの桜はまだ蕾が硬いですな」


 ならば何故、と斗織は再び桜へ視線を戻した。


「桜の開花は、気温に左右されるそうですな。それならば、桜の感じる温度を上げてやれば開花を早められるということだ。だから、貴方は桜の開花を『先見』することは出来なかったのでしょう。こうして人の手で、変えることが出来ますからな」


 淡々と駒場が種明かしをする。地表にビニールマルチを張り、樹木を覆う簡易の温室を拵えて、気温と地温を上げたのだそうだ。説明する声音は相変わらずで、逆光にも深く眉間の皺が見える。


「いつから準備をされていたのですか」


「貴方が昏倒された日から。こちらの屋敷に逗留する許可は頂いておりましたゆえ」


 倒れた斗織が床に臥していた時、庭で桜を眺めていた斗織の様子を思い出して作業を始めたらしい。見た目に似合わず感傷的な男だ。建前はどうあれ、あの時既に駒場は斗織の死を予感していたということだ。


「なるほど……。ところで、少しは得意そうな顔くらいされたらいかがですか? そんな渋面で言われては、礼を言って良いのかさえ分からない」


 呆れを含んだ溜息と共に言って、斗織は目を細めた。まだ寒々しさを残す初春の庭の端で、若木が薄紅色の衣を纏っている。見慣れた桜よりも少し濃く小さな花弁は、遠目には枝を覆う霞のようだ。よくよく目を凝らせば、確かに根元をビニールシートが覆っていた。


「申し訳ありません」


 渋面のまま頭を下げられて、結局斗織はくすくすと笑った。ここ最近、ずっとこの調子だ。何でもないことが可笑しくて、気付けばこうして笑っている。顔を上げた駒場は、困ったように眉を下げて斗織の枕元へ戻ってきた。庭の桜を眺めたまま、斗織は言う。


「――お心遣い、感謝します。だが、貴方が何かを背負うような話ではない……約束が嘘になるのは、最初から分かっていました」


 ほんの少し偽りを混ぜた。最初から死ぬつもりだったわけではない。だがそれは伝えなくとも良いことだ。


 顔を傾け、駒場に視線を送って微笑む。悔しげに、膝の上で両の拳を握っていた駒場がひとつ瞬いた。駒場は僅かに唇を噛んだあと、気難しそうな顔に無理矢理笑みを浮かべる。不格好なそれは、泣いているように見えた。


「貴方には国として、心より感謝申し上げる。公には知られずとも、貴方の功労を決して忘れは致しません。……あと一度、最後の『先見』を頂きたい」


 壊れ物を扱うように斗織を抱き起し、押し殺した声で駒場が言う。頷くと、椀を口元に宛がわれた。身体を起こすための薬湯だが、これを飲むのも最後だろう。


(こんな、味だっただろうか……)


 促されるまま飲み切った後、口に残る後味に内心首を傾げた。違和感を確かめようとしたが、急速に意識が輪郭を崩す。駒場の顔を見ようと上げた瞼は重く、視界は朧に霞んだ。急速に四肢の感覚が消える。


 完全に瞼が落ち、意識が途切れる寸前。


 今度こそ、満足げに微笑む駒場が見えた。





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