桜下の夢
歌峰由子
偽りを重ねて明日を望む
二月も終盤。都心は梅が盛りの季節だが、
念のため、厚手のコートを着ておいて良かったと安堵する。多少白髪が混じる駒場の髪を、山から吹き下ろす北風が舞わせた。
深い山地の春はまだ遠い。レンタカーを降りた駒場は革靴で雪を踏みしめながら、住んでいる世界の違いを実感する。都内から航空機も使って約三時間。まさに深山幽谷という風情の場所に、目指す屋敷はあった。
山脈と呼ぶにはなだらかな山々を渓流が深く深く抉り取り、切り立つような急勾配の渓谷を作っている。冬枯れの雑木林と時折混じる針葉樹は雪を纏い、モノクロームの世界は山水画のようだ。俗世間とは断絶された、幽玄の空間だった。
真白い漆喰を塗られた土塀と、風格ある四脚門が綿帽子を被っている。年季の入った檜の柱には多少不似合な、最新式のインターホンから来訪を告げた。すぐに門が開かれて、中に招き入れられる。
「こんな寒い中、遠路はるばるご苦労なことですね。宮内庁の管理職ともあろうお方が、私のような者の所へ御足労痛み入ります。しかし生憎ですが、ご希望にお応えすることは出来ませんよ」
庭園の見える客間に通され、待たされること数分。ゆったりと現れた屋敷の若き主は、つんと取り澄ました顔で言い放った。応接テーブルの向こうから氷の美貌が、挨拶のため座礼した駒場を睥睨する。
「せめて内容をお聞きになられてから、お返事を頂ければと思うのですが」
来訪理由を切り出すより先に一刀両断され、しばし絶句した駒場はどうにか言葉を返す。目を細めて片眉を上げ、青年がふん、と小さく息を吐いた。
「その程度のこと、『予知能力』がなくとも分かります」
気位の高そうな冷たい口調で、彼は駒場の言葉をはねのけた。白磁の額や頬を、闇を吸ったような黒絹が飾っている。少し長めの髪が、作り物めいて整った容貌に良く似合う青年だ。切れ長の眼には怜悧な光が宿り、深く艶のある縹色の長着と鉄紺の羽織が、容貌の冷たさを際立たせていた。
駒場よりも一回り以上若い青年は、
宮内庁といえば皇室の御世話係というイメージが強い。しかし宮内庁の業務は他にも、宮中祭祀の継承や皇室関連書籍の編纂など様々にある。なかでも駒場の所属する書陵部外部調査課は特殊な任務を負っていた。彼らは宮内庁、かつての朝廷専属の占術師集団なのだ。
出来事の吉凶、作物の豊凶を占い、国を導くのは古来より朝廷の役割である。それらを実際に行うのが彼らの重要な仕事だ。しかし今回、年占の結果は重大で、より詳しい予知を必要とした。
国内最高峰の占術師集団である彼らよりも強力な先見の力を持つ者は、先天的にしか生まれない。現在駒場らは、より詳細な「予知」の出来る者を探している。
「何と言って父を言い包めたのかは知りませんが、余程の国家の大事と見える。同情はしますが、私にあなた方がお望みのような力はありません」
幽閉同然の生活を強いられているという青年は、駒場を冷淡に拒絶する。しかし、と反論しかけた駒場を目顔で制し、橘領は「たとえば、」と続けた。
「私に分かるのはこのくらいです。明日は未明から大雪でしょう。航空機も午前便は多くが欠航する」
駒場を正面から見据え、漆黒の双眸がきらりと光った。橘領は懐から扇子を取り出し、形の良い唇に添えて笑みを作る。
「空港で時間を持て余しているあなたが視える。職場に連絡をしているようですね」
能力を否定したその口が、歌うように駒場の明日を読む。橘領の意図が読めず、駒場は困惑したまま曖昧に頷いた。戸惑う駒場をしばし観察し、ぱらりと扇子を広げた橘領が肩を揺らす。
「この程度の『予知』は誰にでも出来ます。天気予報くらい、先に調べておくのは簡単だ。そして、移動手段は立地から想像できる。天気の次に交通への影響に触れて、あなたの表情を観察すれば『予知』は完成だ。最後に、よくある行動を『視える』と言えば大抵は騙される……そういうからくりです」
典型的なインチキ透視の手法である。まず、話題とする事柄の情報を先に集めておく。続いて調査した内容を、さも今読み取ったように語りながら相手の表情を観察し、相手の心を読んでいく。二つを上手く組み合わせることで、あたかも今この場で全てを読み取ったように見せられるのだ。
「……つまり、偽の能力だとおっしゃるか」
詐欺師の手法にまんまと騙された宮内庁の役人が平身低頭する様を、小馬鹿にしながら眺めていたのか。流石に膝の上で拳を握り、表情も険しく駒場は問うた。
「私の能力はこの程度だと言うことです。それでも宜しければ、お話くらい聞きましょう。無論、ただではありませんが」
駒場の怒りなどどこ吹く風で、扇子を玩びながら橘領が言った。苛立ちをぐっと堪えて、駒場は目の前の青年を改めて観察する。
橘領家は大手商社を経営し、都内に居を構えている。下界と隔絶した屋敷に住むのは彼と、数名の使用人のみだ。橘領家は彼の能力を独占するため、彼に幽閉同然の生活を強いている――駒場の部下が掴んだ情報には、必ず何か裏付けがあるはずだ。全く根拠のない噂に踊らされるほど、宮内庁も甘い組織ではない。
駒場の視線に気づいた橘領が目を細める。その眼差しに嘲りはない。むしろ氷の仮面の向こうで、注意深くこちらを窺っているように見えた。
「なるほど。では、何をご用意すると申し上げれば、お聞き頂けますかな」
ひとつ呼吸を整えて、背筋を伸ばした駒場は尋ねた。続けて、あからさまに余計な一言を付け加える。
「――もっとも、『その程度の能力』にお返し出来るものは限られておりますが」
駒場は橘領の戯言に、乗ってみることにしたのだ。
意外そうに目を瞬かせた橘領が、そうですね、と顎に扇子を当てながら思案する。しばしの沈黙の後、ふむ、と無表情に頷いて青年は口を開いた。
「そう高いものは要求しませんよ。では、ハンバーガーを一度奢ってください。一番安いファストフード店のものを」
淡々とした口調で述べられた要求は、やはり一見ふざけたものだ。だが、裏に隠れた本音を直感した駒場は、よろしいでしょう、と真剣な面持ちで頷いた。わずかに橘領の肩が揺れる。
「……本当に天気予報と大差ない、ささやかな力です」
しばし逡巡した橘領は、小さく呟いて窓の外へ視線を向けた。手入れされた和風庭園は白に染め上げられ、灰色の雲に蓋をされた空から、はらり、はらりと雪が舞い落ちている。
雨の降る日には、魚が見えるのだと橘領は言った。
宙を泳ぐ水色の魚が、降る時刻や雨量を教える。彼の無意識が、どこからか受信した情報を抽象的に視覚化し、表層意識に伝えているのだろう。
「私が視るのは『未来』などではありません。『今』起きている事象について、五感で把握できる以上の情報をどこかから得て、無意識で解析している。つまり、私がしているのは精度の悪い『予測』であって『予知』ではありません。それだけは先に御承知頂きたい。人の決断が左右する事象は観察者効果が働いてしまうので、予測はほぼ不可能です。大雪が降ることは誰にも変えられませんが、あなたが何時に帰宅できるかはあなた次第だ。結局、私に予測できるのは自然現象に限られてきます」
一旦言葉を切り、橘領は冷え切った茶を一口啜った。
それは間違いなく、先天的にしか得られない「異能」だ。しかしこのご時世であれば、既に観測衛星が把握しているようなことばかりである。青年は、己の力をこともなげにそう説明した。
「どうです、期待外れでしょう?」
笑うように目を細めて問うた橘領に、しかし駒場はゆっくりと首を振った。
「いえ。我々には間違いなく、貴方の力が必要だ。お話を聞いて確信いたしました」
駒場は両手を畳に突き、力を込めて断言する。橘領が意外そうに片眉を上げた。
「私の『依頼』が何か、お分かりになりませんか」
真正面から秀麗なおもてを見詰め、駒場はあえて挑発的に問う。すっと目を細めた橘領が、扇子で口元を覆った。怜悧な目元に、うっすらと好奇心が光る。
「作物の豊凶は人為が関わる。天候の長期予報など、それこそ気象庁にでも訊けば良い。そうですね、私に読めそうな事柄で、いまだ科学が追い付いていない国家の大事……」
それは、この国が始まった時から常に人々を恐れさせ、悩ませてきたものだ。そして現代にあっても「予測」が難しく対策のしようは限られている。
「地震、ですか」
いかにも、と駒場は頷いた。地震については未だ極々曖昧な長期予測か、発生寸前の速報しか出せない。それでは、この国を護るには不十分だ。
「地震、あるいは火山噴火。これらは同じ自然現象ながら、気象に比べ遥かに予測精度が低い。貴方の力には及ばないでしょう」
大地のうねりに、人為の介入する余地はない。ならば彼の能力で読み取れるはずだ。説明を聞いた駒場はそう確信していた。
「緊急地震速報よりマシという程度しか、保証出来ませんが」
「対価がハンバーガーひとつなら、安い取引です」
牽制を入れる橘領に、駒場は澄まして答える。僅かに橘領が笑った。
「確かに……私は軽く大地を読んで、貴方に安い昼食を奢ってもらう。簡単な話ですね」
先ほどまでよりも、若干柔らかい口調で青年が言う。いまだ戯言のような応酬を続けているが、実際の話がそう簡単でないことは互いに承知の上だ。
異能は、概してその「対価」を必要とする。
自ら進んで「先見」をすることが、橘領に何を強いるのかを今尋ねても、気位の高い青年は答えないだろう。背筋を伸ばして端座したまま、全く姿勢を崩さない姿にそう感じる。
「それでは、詳しいお話をしてもよろしいですかな?」
「どうぞ。手早く済ませて、あの安っぽい味を楽しみたいものだ」
大学では物理学を学び、当たり前の学生として街中に暮らしていたという青年は、柔らかく笑んで言った。
彼の表情に、駒場は妙な違和感を覚える。その正体が知れたのは、いよいよ橘領が先見を始めた時だった。
ひとつ「視る」たびに、橘領の美貌はやつれ、身体は細っていった。
「約束が嘘になるのは、最初から分かっていました」
力なく、それでも満足げに笑った青年が、なぜ命を削ってまで駒場に協力したのかは分からない。薄紅の花弁が舞い散る季節。死の匂いが充満する枕元で、駒場は拳を握る。
やり場のない悔しさを飲み下して不格好に笑い返し、駒場は橘領を抱き起した。
「貴方には国として、心より感謝申し上げる。公には知られずとも、貴方の功労を決して忘れは致しません。……あと一度、最後の『先見』を頂きたい」
腕の中で、蒼白く痩せ細った青年が頷く。その口元に、傍らに用意していた椀を宛がった。
「薬湯でございます」
最近は鎮痛作用と覚醒作用を持つ薬湯を飲んで、無理矢理身体を起こしている。それも、これで終わりだ。
空になった椀を取り上げると、浅い呼吸を繰り返していた橘領が目を閉じた。椀に添えられていた手が床に落ち、駒場の腕にかかる重みが増す。
意識を失った橘領を布団におろし、駒場は脈を確認した。椀に残る雫を入念に拭き取り、本来の薬湯を懐から取り出すと、椀に注いで立ち上がる。
廊下に向けて、叫んだ。
「誰か! 医師を呼んでくれ! 橘領殿の呼吸がないぞ……!」
了
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