四十三:水場

 ――大きな捨て犬を洗う気分。

 四回ほど洗っては流しを繰り返し、すっかり意気消沈した男を浴室から引き出して拭き、ファーマシーが見繕ってくれた服をどうにかして着せ。水に濡らせぬテレビの頭を乾拭きまでして、ようやく一仕事を終えたアザレアが、最終的に抱いた感想はそんなものだった。

 酷かった見た目もきちんと洗えば存外良くなるもので、今の彼はその辺りを普通に歩いている物と大して変わらない。ただ違うのは、少しばかり露出した手に見えるおびただしい傷と、未だ言葉を紡げぬほどに剥落はくらくした知性か。

 砂埃と泥に薄汚れた頭を大人しく拭かれながら、時折画面を明滅させる様に、物殺しは伝わらない意志を見る。何か考えているらしいことは確かだが、それを疎通する方法は、今のところアザレアにはない。一方的に送りつけた精一杯の好意を、相手が理解していると思い込むしかなかった。


「終わりましたよ。お疲れ様です」

「……、ぁ、……!」

「どうかして――ぅわっ」


 押さえていた頭を解放し、にっこりと笑うアザレア。その華奢な身体を、男の両腕が強く抱き締める。感極まっての行動であろうことは察しがついた。それが得体の知れないことをされ続けた恐怖のせいか、感謝の意を表明したせいかは分からないが、とにもかくにもガタガタ震えながら抱擁してくる男を、物殺しは黙って許容する。

 湯を浴びた後で上気した肌は、しかし何処か冷たい。家電の表面に触れているようだと思い、実際家電なのは間違いないかとアザレアは心中で苦笑した。

 しばらくの間そのままの体勢が続き、静かだった扉の向こうから足音が聞こえたところで、男は自然と体を離した。続けて、何かを恐れた風にアザレアの後ろへ隠れようとする。胡乱な視線がしばらく部屋中を彷徨い、やがて入り口の一点で止まった。

 視線を辿る。脱衣所の扉を開けたのは、白衣を脱いで小脇に抱え、楽なニットのベストを着込んだファーマシー。空いた手には、先程男の服を持ってきたものとはまた違う紙袋を提げていた。


「やっぱり十五分じゃ終わらなかったな」

「すいません……」

「気にしなくていいさ。しかし何だ、そう怖がらなくても良いだろうに」


 眉尻を下げ頭も下げるアザレアへ、いかにも愉快げに院長は一笑。おろおろしながら少女の背から出、またおろおろした後で行動を真似た男へ意識を移し、綺麗になったじゃないかとまた笑う。

 “廃物”――もとい、“粗悪品”。知性も理性もなく、無差別に人を襲う物をフリッカーが抱えてきた、と聞いて少なからず訝ったのは事実であるし、心情的にも衛生的にも立ち入らせるのはそれなりに躊躇した。しかしながら、きちんとした服を着せるだけでも印象は変わるものだ。頭の損壊が激しすぎることと彼方此方が傷だらけなこと、そして挙動不審なことを除けば、その辺りにいるただの物に見える。これなら他の物と連れ立って街路を歩いていても、“粗悪品”と勘違いされて襲われることはあるまい。

 ひとしきり男の出で立ちを観察し、少女の努力に合格点を下して、ファーマシーはアザレアに再び紙袋を押し付けた。

 今度は一体何を持ってきたものか。怪訝な顔でアザレアは中身を検める。朽葉色のストールとクリーム色のワンピース、少しばかりの柄が入ったタイツ。店のロゴが入った紙袋に、花柄のポーチまで入っている。明らかに女物の洋服やめかし道具の一揃いを袋の中に見て、少女は不審げに目を細めた。


「何処から持ってきたんですかこれ」

「少し前――ああ、君が招かれる前にピンズから渡されたものなんだがね。事情があって渡せず仕舞いだったものだ。サイズは合っていると思うが」


 こともなげに語るファーマシーに、悪びれるとか気後れがするとか言う感情は見えない。丁度良さそうな衣服ざいこがあったから今に乗じて捌けてしまおうと、本心からそう思っているに違いなかった。そこに、アザレアは言いようもない苛立ちを覚える。

 深い、深い溜息一つ。キッと眦を決して睨み上げた目の鋭さに、ファーマシーは無意識の内に後退った。


「ファーマシーさんって、意外と無神経ですね」

「何だって?」

「どう考えたってこれピンズのお友達宛の服でしょ。そんなの着られません」

「……贈る相手が既に居ないとしても、同じことを言えば良いのかね」


 今度はアザレアがたじろぐ番だった。今が幸いと低い声が反駁を紡ぐ。


「五年以上は前だ。その間ずっと新品のまま此処にあった。それがどういう意味か、君なら分かるだろう?」

「ですが!」

「何かの記念品として取っておけとでも言う気か? それこそ無神経だ。彼女は物殺しに殺されて居なくなったと言うのに!」


 ――これはただの女性物の洋服で、ただ着られる為に作られたものだ。それ以上でも以下でもない。

 ――そうだと思い込ませてくれ。あんな忌まわしい過去を、服一枚に思い出させられるなんて御免だ。


 熊の肝でも舐めたかと言わんばかりの苦々しい声で吐き捨て、医師の手がより強く紙袋を押し付ける。それでも尚受け取ることを躊躇った物殺しに、最早それ以上の強要はしない。床へ落ちるとさりと言う音も顧みず、半ば走るように立ち去っていった背を、アザレアは渋面じゅうめんのまま見送った。

 緊張の糸を引っ張ったような、引き攣れて不快な静けさ。今にも誰かに飛び掛かりそうな少女の横で、男がそっと倒れた紙袋を拾い上げる。その妙な滑らかさに、物殺しが首を捻るより早く、彼はアザレアに拾った紙袋を差し出した。


「……、ガ、ッ……ぁ」

「――分かってる、分かってます」

「ッザ――ガ、ぁ゛……ち、が……ぅ」


 霞んだ知性が否定を綴った。

 弾かれたように見上げたアザレア、その視界に、何かの画像を吐くテレビの液晶が映る。色飛びや色ずれを起こし、輪郭どころか元の色も曖昧だが、何故かそれが海であると、アザレアは直感した。

 ノイズのように海鳴りの音を吐き出しながら、男はいじらしいほどゆっくりと、何かを確かめるように言葉を紡いでいく。


「ぁザ――レァ゛? ビ……しょ、ぬ゛レ……だ、ヵ……ら……ぁ゛、ガ――かゼ、ひく……で、しょ?」

「――嗚呼、もう。そういうこと?」

「ん……」


 ――自分はもう濡れていない。でもそうしてくれた方はずぶ濡れも良いところ。このまま居れば風邪を引くだろう。だから、着替えたら良いんじゃないか。

 とても単純な思考回路だった。今し方目の前で交わされた会話から、何の事情や感情を汲んだわけでもない。ただ目の前の女の子が風邪を引かないかと心配し、その解決策として着替えないかと提案するだけ。幼児の如く純真無垢な言動に、アザレアは何とも居た堪れぬ心地になって、ぽりぽりとわざとらしく頰を掻く。

 否とも応とも言えないまま、状況は外から動かされた。


「お疲れ様、アザレア。それに君も」

「アーミラリさん……ケイさんも」


 大怪我をしたと言う割には元気そうな、シャツとベストだけを着た付き人の姿を目にして、ほっと安堵の息を吐く。思わず走り出しかけたアザレアの手は掴まれ、やや強引な手付きで持たされたのは紙袋。俯きがちに渡してくる男へは困ったような笑みを返して、少女は付き人と半歩の位置まで駆け寄る。

 無事で良かった、と顔を綻ばす。その頭へ、少し気だるそうにキーンの手が伸ばされた。くしゃり、と遠慮がちに髪を掻き回してくる大きさに、綻ぶ顔には少々の気恥ずかしさが混じる。


「大丈夫でしたか? ケイさん」

「いや……少し、疲れた」


 微かにかぶりを振りつつ応えた声には、言葉以上の疲労が滲んで聞こえた。普段は感情を内に隠す彼が、かくも大人しく己の不調を認めるとは。気が滅入っていると言うのは間違いではなかったらしい。

 そっと下ろされかけた手を咄嗟に両手で取る。ひゅう、と茶化すような口笛が案内人の方から聞こえてきたが、気にしない。ぐいっと己の側に腕を引けば、無理をして保っていた直立はあっさりと崩れた。動揺した風に数歩たたらを踏み、耐えきれず膝を屈し座り込んだキーンの、やや恨みがましさが篭った視線を受け止める。返したのは慈母のように柔らかい笑みと、伸ばされた両腕による抱擁。何を、と思わず身を引こうとした付き人を、しかし主はより強く腕の内に抱き寄せた。


「無茶しないでくださいケイさん。これでも私、凄ぉく心配したんですよ」

「すまない、と言えばいいのか」

「そんなの知りません」

「……すまなかった」


 顔を見せず放たれた声の熱が、否応もなしに謝罪を零させた。縫われた上に薬を打たれ、収まったはずの胸痛が再発したような気がして、耐えるように背を丸めうずくまる。

 そんな二人の肩を、無神経にも叩く手一つ。今度こそハッキリと恨めしさを籠めて見上げれば、桜色にガラス球を光らせた案内人の姿が映る。浮かぶ色が何を示しているのか、キーンは持たされた知識を少し漁って、それから面白そうに喉を鳴らした。


「そんなタマじゃないだろう」

「いやぁー……百年ご無沙汰だと流石に厳しいかなぁーこれはねぇー。うん、見てるこっちが恥ずかしいから早く立って?」

「ムードも糞もないなお前」

「そう言う雰囲気ムードは浴室じゃなくて寝室で出してくれない?」

「デリカシーも糞もないな貴様……」


 アーミラリがこんな男なのは分かり切っているのだが、それと湧き上がる感情は別の話だ。頭痛を堪えるように包丁の刃を覆う鞘を撫でつけ、肺腑から漏れる溜息を隠そうともせずに、付き人はのろのろとその場に立ち上がる。僅かな逡巡の後、惜しむように身体を離した物殺しは、案内人の方を見ない。アーミラリもまた、わざわざ少女の顔を覗き込むほど野暮ではなかった。

 状況が分からず突っ立っていた男も腕を引いて傍に寄せ、案内人は集うものどもの中心に立つ。空いた手が持つ黒いステッキが、コツコツと軽い音を二度立てた。然れども何も起きず、はてと首を傾げたアザレアの耳に、届く声は低く低く。


「目を閉じて」


 有無を言わさぬ口調にすぐさま瞼を引き下ろす。再び床を叩く音が二度。

 微かな浮遊感が三半規管を突き上げ、すぐに収まった。


「はい、大丈夫。いいよ、目開けて」


 次に声が掛かったのは、時間にしてほんの一、二秒の後。ゆっくりと目を開いた前にまず映ったのは、少し離れた位置に独り立つアーミラリの姿。

 視線を巡らす。男性らの姿は天球儀以外にない。医院の白い壁も最早なく、四方を暖色のレンガと棚が囲んでいる。木組みの天井にはランプが数個吊り下げられ、温かみのある光を足元の絨毯まで落としては、柔らかく部屋を照らしていた。

 更に観察。棚の下段に収められているのは、見るからに古い木箱や鉄箱の数々と、古今の地球儀や望遠鏡。時たまランプの光を返して眩く輝くのは、何かの賞で得たらしい楯やトロフィであろうか。いずれも地球や星をモチーフとした刻印が成され、埃一つなく燦然と棚の中央を飾っている。上段は何か見られたくないものが入っているのか、黒い天鷺絨ベルベットの布が掛けられて隠されていた。

 調度は書き物机と椅子、少しばかり大きめの寝台一つ、衣装箪笥一棹。どれも手入れは行き届いているものの、使い込まれた年季が滲み出ている。少なくとも、己の部屋に置いてある寝台は此処まで渋くないだろう。

 ほえぇ、と間抜けた感嘆を最後に、アザレアは一旦意識を家主へ移した。


「あの、此処は……」

「此処は僕の家の客間。場所は尾白山おじろさんって言う、まあ高い山の八合目辺りだね」


 くら、と眩暈。後ろにひっくり返りそうになったのを、アザレアは何とか耐えた。

 荒野のど真ん中に位置する物の街から、それなりに高いと言う山の八合目。とんでもない大移動を、まあこともなげに語られたものである。先刻の汽車の件でも、ピンズの件でも、もっと言えば“案内人特権”を貸与された時点から、案内人の能力は思い知らされていたものの、自分で体験すると一層凄まじさが身に染みた。

 ともすれば皺が寄りそうになる眉間を揉みつつ、成程と上の空の相槌一つ。アーミラリは敢えて気にしないようにしたか、アザレアの有様に何も言わず踵を返す。細い背越しに投げられた声は、初めて出会ったときのものと何も変わらない。


「お風呂とかそう言うのは下にあるから、諸々自由に使ってくれて構わない。物はあんまり乱暴に扱わなかったら触って遊んでもいいから」

「ありがとうございます」

「うん。困ったことがあったら遠慮なく言っておくれ、出来る限りは対処する」


 それじゃあと手を一振り、家主の後ろ姿が扉の奥に消えてしまうと、後には何とも居心地の悪い静寂だけが残る。

 ふぅ、と。ずっと溜めていた息を、そっと吐き出した。



「うわっ! ニ、ニトさん」


 雨に降られ、男一人の入浴の世話までした身体でいるのは、流石に抵抗著しく。服は服だと割り切り、名も知らぬ誰かへ宛てた贈り物を抱えて浴室へ降りたアザレアを迎えるは、シャツのボタンを半分ほど開けて前を晒したニト。

 先客がいると予想はしていた。いたが、実際に見るとそれはそれで動揺するものである。後ろに数歩たたらを踏み、少女は真視界の中央へ飛び込んできた胸から、出来る限りの最速で目を逸らした。

 しかしながら、それがニトには気に入らなかったらしい。たわわな胸の下で腕を組み、誇示するように身をくねらせる。


「ちょっとぉ、何その反応」

「でっだっ、だってシャツが……!」

「女同士でしょぉ、何にも恥ずかしくないってーほらほらー」

「ゆっ、ゆさゆさしないでください! やめて! 目に毒ですーっ!」


 ゆっさゆっさと腕で押し上げる度、白いブラジャーから胸が溢れ落ちそうになる。控えめに言って標準より明らかに豊かだ。そんなものを中々の近距離で揺らされ、アザレアはあわあわしながら自分の眼を手で覆った。


「やだぁ、アザレアってばピュアッピュアじゃーん。触ってもよいのよー?」

「触りません! もうっ」


 ほれほれ、と見せつけるように近づいてくるニトを避け、ズカズカと横をすれ違って、広い脱衣所の隅へ。恨めしそうな顔で物殺しが睨めば、流石に彼女も追いかけてはこない。爪先を返して背を向け、ふんふんと鼻歌まじりに残りのボタンを外す姿を最後に、アザレアは目を逸らした。

 高く結びあげていた髪を解き、ゆったりとしたニットのワンピースを脱ぎ去る。朽葉色のハイネックと、ワンピースの下に穿いていた短いズボン、ついでに焦げ茶色のタイツも脱いで籠の中に放り込み――

 さて残りも取ってしまおうかと伸ばしかけた手は、無遠慮極まりないドアの開閉音が強引に止めた。


「…………」

「――――」


 顔だけその方に向ける。バスタオルを巻いたニトがドアの前に仁王立ちしていた。時が止まったように凍りつく目覚まし時計の頭の奥、ドアを半分ほど開けた状態で同じく固まっていたのは、ガラス球を無軌道に偏光させた骨董品の天球儀。

 ――案内人。アーミラリ。いやそれ以前に男の姿をした物が、何の断りもなくドアを開けている。

 驚きと困惑と、それから沸々と湧いてきた羞恥と。諸々の感情は渾然となって喉に詰まり、アザレアは最早声も出せずにアーミラリを呆然と見るばかり。

 対する案内人の方はと言えば、まるで動揺の欠片もなく。立ち塞がるニトを上から下まで眺め回したかと思えば、そんな彼女へ瓶を一本差し出した。


「何これぇ」

「入浴剤。トバリの所のから貰ったけど、どうもこう……香りがね、女性向けな感じがする。良かったら使って。後、何で部屋のど真ん中で着替えてるの君は」

「いいじゃん開放的でさー。見られたって減るもんじゃないしぃ。とりあえずこれ使うねぇ、ありがとー」


 ニトはニトでさして驚きもせず、磨りガラスの瓶をアーミラリの手から受け取る。そのまま何事もなく――アザレアの心中は嵐そのものだが、表面上は平穏に――別れかけて、ふと男の足が止まった。

 頭を巡らせ、視線をニトの肩から奥へ。脱ぎかけの状態で硬直する物殺しをちらと見たかと思うと、すぐに戻した。


「失礼、まさか一緒に入るとは思ってなかったよ。事前に確認しておくべきだった」

「はい……?」

「いやあ、人の女性って人前で肌を晒すのに抵抗あるみたいだし? ニトだけなら別に確認取らずに入ってもいいかと思ったけど、君がいるならこれから配慮すべきかと思って。別に構わないのかな」

「いっ!? いやいやいや言って下さい! 今度からは! 絶対っ!!」


 案内人の言葉は、つまり今後も浴室へ立ち入るかもしれないということだ。見られて恥ずかしいものが自分に付いているわけではない、そうは理解していても見られたくないものは見られたくないし、それがほとんど面識のない男性を対象にするなら尚更嫌だ。

 大慌てに大慌てで首を振った物殺しから、アーミラリは意識して視線を外した。


「ま、僕はどうせ一晩中仕事してるし、男どもは起きたら入るっていう話だし。後続のことはあんまり気にしないで、ゆっくりしといで」

「は、はい」

「うん、宜しい。それじゃ」


 ひらりと手を一振り、歩き去る。

 ゆっくりと閉じられるドアは、最後まで見ない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る