二十一:速写帳

 主は未だ戻らず、医院の中は静まり返っていた。

 それ故であろうか、クロッキーはいちいち周囲の趨勢にびくついている。蝶番の軋みや床を叩く靴底の音、廊下を覗き込もうとするアザレアの所作にさえ、ひえ、だのひぃ、だのと情けない悲鳴を零すのだ。物殺しと付き人は内心舌を出しつつ、しかし冷静に少年の感情を探っていた。

 クロッキーの様子はどう贔屓目に考えても尋常ではない。仮に気弱さが生まれ持った気質であったとしても、これほどの過剰反応は、何かしら恐怖体験がなければ起こらないものだ。そう――例えば、虐められたとか。或いは、虐待されたとか。ならば、植え付けたものが何処かにいるはずだった。

 だが、それを探すのは後だ。とにもかくにも、この気弱な物から話を聞き出さなければ何も始まらない。物殺しと付き人は個々に、しかし同時にそう結論し、目配せもなくそれぞれの役目をこなす。即ち、アザレアは医局へ顔を出し、キーンはクロッキーを伴って二階へと上がっていった。


「おかえ……ありゃ、違った。キミは?」

「アザレアです。ファーマシーさんに部屋を貸してもらってます」

「嗚呼! 聞いとる聞いとる、物殺しのお姉さんよね。僕はシンシャ、ファームの留守居を頼まれとります」


 医局には物が一人。ファーマシーでないことは一目で分かった。

 じっくりと眺める。白地に黒襟の和服を着込んで朱色の帯を締め、白足袋と赤い鼻緒の草履を履き、羽織の代わりに白衣を纏う若い男。その頭に置き換わった薬包紙には、何かの散薬が包んであるらしい。

 幾分ちぐはぐな恰好であるが、恐らくは伊達や酔狂ではなくこれが仕事着なのだろう。丁寧に洗いが掛けられ、綺麗にアイロンが掛けられた白衣。その取り去れぬ薬品の染みや、彼自身からどうしようもなく漂う薬草のにおいが、無言の内に雄弁だった。

 手持ち無沙汰なのか、シンシャの手は雑多に積み上げられたカルテをランダムに手元へ引き抜き、その名前や既往歴を斜め読みしては元に戻している。鳶色の目でそれを見下ろしながら、アザレアは机の角に少しだけ寄り掛かり、決心したように話を切り出した。


「殺されてくれます?」

「やだ」


 即答。ほっとアザレアは胸を撫で下ろす。

 彼が還すべきものであると、物殺しは直感していなかった。それでも問いかけたのは、己の直感が一体どんな判断基準を持っているか確かめる為だ。そして今の所、彼女が直感しない物に同じことを問えば、その全てが否と返している。望まない物を無理に還すことは、どうやらしなくても良さそうだった。

 ですよね、と苦笑。すぐに表情を引き締めて、問いの続きを放った。


「どうして?」

「んー……僕ね、元の持ち主に御守り扱いされてたんよな。ずーっとお守り袋の中に僕入れてさぁ、面接のときとかに掌に秘めて、ぎゅーっと握り締めて。……分かるかな? 僕でないと癒せないってひと、僕の手ェ借りて前を向きたいひとがさ、大勢おるんよ。だからやだ」

「御守りですか」

「ん。僕のこれに入ってるの、朱砂安神丸しゅさあんじんがんって言うてね。まあ……品のない言い方すりゃ、漢方の精神安定剤やな。僕はその最後の一包いっぽうで、飲み切ったら治療が終わるはずだった。でも、元の持ち主は僕を薬として頼らんと、「お前がいるから大丈夫」って、ずーっと呟いてさ。……あれには薬やなくて、言葉を聞いてくれる誰かの方が必要やったんやな」


 ――僕の生業は薬剤師。必要な人に必要な処方箋を書いて、薬研やげん使って混ぜ合わせて、薬包紙に包んで出す。これでお金もろてる物や。でも僕、元々僕自身が薬になれるんやないかと思う。実際なってる。

 ――ちょっと分かりにくいか。なら、僕の副業はカウンセラーやね。薬じゃどもこもならん不安やらおそれやらを一緒に探し出して、それと一緒に向き合って癒していく。それが僕の役目。薬でどうにかなる場所を探すのも役目やけんどな。


 ぎぃ、と背もたれに身を預け、組んだ手の親指を擦り合わせながら、しみじみとシンシャは述懐する。シズの声――のんびりとして危機感の欠片もないそれ――とは似て非なる、ゆったりとして柔和な響きには、確かに何処か安心できるものを感じた。

 彼は違う。今までも確信していた直感を改めて認識し、アザレアは丁寧に頭を下げる。突然妙なことを聞いて申し訳ない、そう詫びの言葉を述べる物殺しへ、シンシャは寸秒沈黙していたかと思うと、ふと思いついたように組んだ手を解いた。

 その手が向かう先は、上げかけた少女の頭。ぽんぽん、と優しく二度叩き、くしゃくしゃと子供へするように引っ掻き回す。それこそ唐突なシンシャの行為に、アザレアは思わず赤面した。

 無言の間に過ぎる時は数秒。頭に手を置いたまま、薬師は言い放つ。


「僕は人の街の朱砂あかさご薬店ってトコにいる。何か困ったことがあったらいつでも呼び、出来る限り力になろや」

「いいんですか」

「勿論。心苦しいことやねんけど、僕にも誰にも取り除けない腫瘍しこり抱えてさ、物殺しに還されなきゃ救われん物ってのもおるんよな。そらま、前の芝刈り機のこともあるし、物殺しをどうしようもない殺人鬼や思うひとは多いけど……少なくともキミはそんなんとちゃうやろ。そんな人の助けにならんと、僕ァ胸張ってカウンセラーやって言えへんわ」


 な、と念を押すように頭を小突き、手を戻す。薬品焼けの痕や胼胝の目立つ、筋張った大きなその手に、アザレアはじっと視線を落としていた。

 そして、やおら自身の右手を差し出す。細く白い繊手、まだ傷も何もないそれを。


「それじゃ、遠慮はしません」

「ん。頑張りや」


 薬を扱い荒れた手は、少しだけ冷たかった。



「……あのぅ」


 薬師と別れ、二階へ至る階段を少しだけ駆け足で上がり、廊下を突き当たった角部屋へ。明らかに誰かの長期停泊を意識した広い病室――今はアザレアたちの居住スペースと化しているそこに、彼女がそっと足を踏み入れたとき、出迎えたのはガリガリと何かを削るような音だった。

 見れば、狭い机にひょろひょろとした少年と図体の大きな男が向かい合い、細々と何か手を動かしている。何とも不気味なものを感じたアザレアの声はか細い。当然聞こえるわけもなく、二人は黙々と作業を続けるばかり。

 そっと、足音を殺して近づき、肩越しにキーンの手元を覗き込む。……鉛筆を削っていた。今時使う人がいるのか、そもそも何処にあったのか、使い古された肥後守を新品の鉛筆に当てて滑らせ、木材の部分を削り取っていく。瞬く間に黒鉛の芯が露出し、それもすぐに鋭利な先端が作られ始めた。

 削り終わるまで約一分。アザレアより一回りは大きい手から出るとは思えない、恐るべき器用さだが、一体全体鉛筆の早削りが何の役に立つと言うのか。考えて分かるわけもなく、物殺しはキーンに疑問符を投げつける。


「ケ、ケイさん?」

「何だ」

「何してるんです?」

「鉛筆を削っているが」


 まるで話にならない。

 思わず眼を手で覆う少女に対して、キーンはその方を見ることなく。しゃかしゃかと小気味良い音を立てて刃を滑らせ、刺さりそうなほど芯を尖らせたところで、無造作に傍らのペン立てへと鉛筆を放り込んだ。既に五本ほど削り終わっているようだが、その内の一本の削り具合はひどく歪だ。

 流れるように新しい鉛筆を一本。しかしすぐには削らず、手の内でそぞろに弄びながら、付き人は主人に告げる。


「随分と怯えてくれたものでな。気を逸らすために単純作業をやらせた」

「ケイさんも付き合ってたんですか」


 ゆっくりと点頭。静かに肥後守を畳み、キーンは差し向かいのクロッキーへと意識を向けた。アザレアもそれに続く。

 先程までの極端な緊張は何処へやら、クロッキーは一心不乱に肥後守と格闘し、鉛筆を削っている。たどたどしくも確実に成し遂げようと奮闘するその様は、何処か楽しそうな空気を含んでいた。

 彼は、速写帳クロッキーブック。絵を描くための物である。ならば、鉛筆という絵描きの為の道具に触れるのは楽しいことなのだろう。生きがい、存在意義と言い換えてもいい。

 ――ならば、包丁たる彼は。おおよそ絵とは縁遠いキーンが、クロッキーに付き合って五本も六本も鉛筆削りに興じていた理由は何なのか。

 果たして、答えは出された。


「誰かが一緒にやってやらないと乗り気にならない気質だったから付き合った。曲がりなりにも刃物を扱う作業だ、嫌いなことでもない」

「へぇぇ~?」

「何だその声は」


 優しいところもあるじゃないか。茶化すように笑ったアザレアへ、キーンはただ肩を竦めるのみ。肥後守を置いて腕を組み、きしりと椅子の背に軽く身を預ける。その軋みに気付いたか、クロッキーもまた削りかけの鉛筆と刃をその場に置き、物殺し達の方へ真っ直ぐに向き直った。

 緊張は随分と緩んでいる。ならば、無理に尋問の空気を作って刺激することもない。アザレアは普段の――同級生か、それ以下のものに対する態度で彼に接した。


「名前言うの忘れてたっけ。私、アザレア。こっちは私の……保護者? 後見人? まあそんな人。ケイさん」

「うん。よろしく、アザレア」


 気軽な調子に安心したのか、クロッキーも力を抜き、トーンを明るくして答える。少女もよろしくと大仰に眼を細めて笑った。無論、それは相手に安心感を与えるためと打算も入っているが、半分は本気の笑みだ。年上に囲まれて散々気を張ってきた彼女にとって、堅苦しい敬語を解いて話せる相手が居る嬉しさは大きいものである。

 と。空気が変わったことを察したのか、キーンが黙って席を立った。後は二人でやれ、と言わんばかりにシッシと手を振り、白い部屋を辞するその大きな背を、アザレアとクロッキーは揃って見送る。

 ややあって、口火を切ったのはクロッキーだった。


「ねぇ、アザレア」

「何?」

「シズを還したのは君なんだろ?」


 物憂げに揺れる、けれども理知的な声音が、まっすぐにぶつけられる。

 少し前なら、言葉に詰まったかもしれない。しかし今の物殺しは躊躇いなく首を縦に振ることが出来た。

 否定することなど許されない。物が命を喪うあの感覚を、手に生々しく伝わる死の予感を、内なる己の一体何処が否定出来ようか。


「うん。そうして欲しいって頼まれたし、私もそうしなきゃと思ったから」

「ボクにも同じこと思ってる?」

「そうね、確信してる。……でも多分、今殺されてって言っても嫌って言うでしょ」

「あ……当たり前だッ! 当然だよ、死にたいわけないだろ!?」


 突然の大声。

 ぎょっとして身を引くアザレアとは対照的に、激昂したクロッキーは両手を机に叩き付けると、弾かれたように立ち上がった。机の上で拳が握られる。微かな震えは強い興奮によるものか、或いは――

 物殺しはきゅっと口を一文字に引き結び、真っ直ぐにクロッキーを見た。対する彼も、臆することなく彼女を睨む。

 吐息のように漏れ出すは、支離滅裂な述懐。


「ボクにはやりたいことがあるんだッ! 命をくれた人のためにッ、どうしても、ボクが、ボクしか……やらなきゃ、やれないんだ、いけないんだ……!」

「本当にそう思ってる?」

「おま……」


 アザレアの問いに、クロッキーは一瞬硬直。

 そして、何かを誤魔化すように叫んだ。


「何を、何で、そんな……! このっ、ぅ、わッ!?」


 机越しに少女の肩を掴む。思いのほか力が強い。僅かに動揺したアザレアへ、クロッキーは激情のまま迫ろうとしかけて、激昂するあまりにバランスを崩した。

 少女の華奢な肩を固く掴んだまま、少年の身体は思い切り前につんのめる。椅子に座っていただけのアザレアに、それを受け止めきる力はない。きゃ、と微かな悲鳴も須臾の彼方。二人の身体は、挟んでいた机も巻き込んで、勢いよく床に倒れ込んだ。

 椅子と、人の身体と、机。様々な材が一緒くたに倒れ、床に叩き付けられる。耳をつんざくような轟音が医院中に響き渡った。


「いったぁ……」

「あ」


 抑えた苦鳴。

 はっとしてクロッキーが意識を向けた先では、頭と背を強かに打ち、机と己の重量を一身に受け止めて、柳眉をひそめる少女の姿があった。慌てて掴んでいた肩を離し、覆い被さっていた机を退ける。しかしアザレアは起き上がるどころか、呻きながらその場で背を丸めてしまった。机が直撃してしまったらしい。


 ――やってしまった。怪我を負わせてしまった。


 猛烈な後悔と罪悪感、そして不安がクロッキーの内で渦巻く。同時に全身を駆け抜けた悪寒に、細胞の隅々が震えあがった。

 どうする。どうすればいい。何か言えばいいのか。何かすればいいのか? 次なる選択肢がぼこぼこと腐れた水に湧く気泡の如く現れては消え、消えては出てきて、尻餅をついた少年は取捨選択に惑う。

 そうして一歩も動けず、一言も声を上げられぬまま、膠着は外部から破られた。


「アザレア?」

「け、ケイさ、ん」

「嗚呼構わん、無理に動かすな。留守居の物を呼んでくる」

「すいません……」

「主人の有事に付き人が動くのは当然だろう」


 いっそ穏やかと呼べるほどの静穏な声の主は、入り口付近に姿を現したキーン。黒衣の付き人は一歩も病室に入ることなく、横向きに臥した主とへたりこむクロッキーを交互に見て、足音一つなく去ってゆく。状況を確認してから動き出すまで、三十秒とかかってはいまい。

 気配が遠ざかってゆくのを、クロッキーはただ、呆然と見ているしかなかった。

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