四:舞台照明
――この物が。私の。
倒れ伏した探照灯の肩を支えながら、少女は目の前の男をじっと見上げた。
使いこまれ、柄の黒ずんだ、何やら見覚えのある形の出刃包丁。繰り返される研ぎにも動じぬ分厚い刃と、その中央の辺りに見える小さな欠けは間違えようもなく、自身が元の世界から持ってきた物であることの証左である。探照灯よりも大柄なその男は、やおらその場に膝をつく。
びくりと思わず肩を震わせる少女。その鳶色の目に、包丁はじっと鋭利な視線を向けていたかと思うと、ふと緩めた。無骨な手をそっと華奢な肩に置き、ずいと頭を彼女の耳の傍に寄せて、
「俺の名はキーン。だが、ケイと呼べ」
「ケイ……さん、ですか」
「嗚呼、人前ではこの呼称で通せ。――先程のは
「真名? じゃあケイさんって言うのは」
「通り名と呼ばれているものだ。とにかく、人前で真名を呼ぶな」
重く、密やかに。ケイ――もとい、キーンはそう告げる。その声音の低さ重さに吊られ、思わず声を潜めながら理由を問うた少女には、有無を言わさぬ威圧を含んだ沈黙だけが返された。
鼻白んで口を引き結んだ少女へは、ゆっくりと、安心させるように首肯を一つ。膝に手をついて立ち上がり、未だに座り込んでいる主を立たせんと手を差し伸べかけたところで、背後から声が掛かる。
「先程の戦いぶり、随分と慣れた御様子でしたが」
「……それが、何か?」
舞台照明である。彼は彼で“粗悪品”に苦戦していたのだろう、軍服は彼方此方の布地が破れ、砂埃で薄汚れていた。だらりと下げた左腕を強く押さえているのは、切られたせいか、はたまた殴られたせいか。しかし、人の身に傷を負って尚照明のレンズには一点の曇りもなく、灯りは点いていないにも関わらず、
一方で、一見無表情の無感動に立つ男もまた、己の動向と人品を観察しているのだと、果たして気付いているか否か。津々たる興味を丁寧に隠し、軍服の男は静かに問いかける。
「聞きそびれていましたが、貴方は?」
「ケイだ」
場の状況を考えなば、当然飛んでくるであろう質問である。むしろ、もっと返答に窮するような質問が飛んできてもおかしくない態度だ。しかして、何が来るにせよキーンは動ずることもなし。先程少女にも告げた偽名を無造作に放り投げ、きっちりと着こなしたスーツの裾を翻して、身体ごと意識を軍服の男へ向けた。
露わになるのは明らかな警戒の色。元より人を寄せ付け難い雰囲気を漂わせているが、今の彼はまさしく包丁の如く鋭く、指一本でも不審な動きをすればすぐにでも手を出しかねない。ぴりぴりとした殺気と剣呑さを真正面からぶつけられ、害すべき敵と
「俺はスペクトラ。街に流れてくる“粗悪品”の排除をしています」
「見れば分かる。……二人だけか」
「街の近傍では、と条件を付けるならそうですね。貴方を除けば」
瞬間、ぴりりと空気が一層鋭い棘を帯びた。静かに構えるキーンの前で、
それを傍から眺める少女には、それが互いの臨戦態勢であるとは理解出来たものの、これから何が始まるのかまでは分からなかったらしい。一体何を、そんな困惑も露わな少女の背後に聞き、キーンは首を巡らせ頭だけを少女に向ける。
「少し待て。すぐに終わる」
ぶっきらぼうな一言が放り投げられ、少女と付き人の会話はそれきり途切れた。転がってきた男の声音が、スペクトラに向けられるそれよりも柔らかくなければ、か弱い女子高生風情がこれほど落ち着いてはいられなかっただろう。
意識を失ったままの探照灯を膝の上に寝かせ、少女は小さく点頭。キーンも応えて首を縦に振り、そして向き直る。刹那。
スペクトラが、飛び出した。
「遅い」
夜闇を裂く
武骨な節くれ立った、しかして刃に対する防護など何もなされていない素手が、振り抜かれて減速した刃へ向けられる。しかし、いくら速度を減じたとは言え、人の目から見れば残像が残る速さ。常人であれば刃に直接干渉することなど不可能に近い。何やら無謀なことをするものだと、嘲り半分興味半分に心中で呟きつつ、スペクトラは返す刃をキーンに叩き込むべく腕に力を込め、一気に振り抜き――途中で、止まった。
ぎょっとして視線を送れば、ナイフの腹を、
「は……ぁがっ!」
振り切る前で最高速ではなかったものの、だからと言って決して遅くもない。普通であればまず避けるしかない刃を、受けも流しもせず指だけで挟み止めるなど。何百何千と“粗悪品”を
そのまま、持ち上げる。比較的細身の部類とは言え、常人以上には鍛えられた身体が、まるで幼子の如くあっさりと地を離れた。同時に首が締まり、引き剥がそうとしたスペクトラが慌てて両手を掛けるものの、どれだけ力を入れてもまるで歯が立たない。キーン自体かなり大柄な男性であることを差し引いても、異常としか言いようのない腕力である。
包丁は無言。砥がれたばかりの刃をぎらつかせ、スペクトラをじっと観察する。かと思うと、つまらないものを見たように呟いた。
「余興のつもりか、或いは小手調べか? 舐められたものだな」
「な、何、故……!」
「刃物がどれだけ長い間命を加工する道具として扱われたと思っているんだ? 高々数十年程度の努力で埋まる差などではない。況してや、俺は主の露払いを命ぜられて‟起こされた”物だ。無為に‟粗悪品”を殺すだけの貴様とは、存在意義の明確さが違う」
自惚れるな、と。キーンは心底呆れた声で舞台照明を責め、そして放り投げる。空中に投げ出されたスペクトラは、しかし素早く体勢を整え、足から柔らかく着地した。此処で無様に地面へ叩き付けられなかったのは、彼の卓越した身体能力の成せる技であろう。
とは言え、そのまま立ち上がれるほど屈強でもない。着地した勢いのまま膝をつき、万力のように挟まれていた首を無意識的に押さえながら、げほげほと肺腑の奥から絞り出すように咳き込んでは息を荒げる。理論的には心臓の鼓動も呼吸も生存に必要ない物にとって、所謂人間的な窒息の恐怖や苦痛と言うものは発生しないのだろうが、あくまでスペクトラは人間を模する物であった。
一方のキーンはと言えば、物に大なり小なり付随する人間臭さがとりわけ薄い。戦闘の後だと言うのに息一つ乱さず、打ちのめした相手にさしたる優越感や罪悪感も持たずに、ただ次の動き出しだけを観察している。その酷薄とさえ思える姿に、スペクトラが密かな慄きを覚えるのを余所に、少女が恐る恐るキーンへ声を掛けた。
「け、ケイさん。あの……」
「分かっている。立てるか?」
「大丈夫、です。多分」
会話は短く。臥したままの探照灯へキーンが肩を貸し、少女は改めて差し伸べられた付き人の手を借りて、その場にゆっくりと立ち上がる。そのまま迷いなく壁の方へ向かい始めた三人の後ろから、やや足を引きずりながらスペクトラが付いてきた。言葉はない。一行の間には静粛だけが横たわる。
赤茶けた壁が、夜の
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