第32話
夕焼けのおかげで石の色が変化していて、広場の地面には奇妙な模様が描かれていることに気付く。そして同時に、そこに人がいることにも気付いた。
誰もいない噴水の傍らでしゃがみ込んでいる、男の子だ。黒のジャケットの背中が、今は少し赤い。まるで血を流しているようだと、ネノンはまた考えてしまう。もちろんそんなことはなくて、その男の子、ハスラットはただ、ネノンに背を向けてしゃがんでいるだけだった。
何かをしているのか、何もしていないのか。わからないけれど、周りには誰もいないし、聞こえてくるのは朝から鳴り続けている笛や太鼓や変な歌、それとネノンの後ろについてくる湿った引きずる音だけだったから、ハスラットも誰かが歩いてきたことには気付いたはずだ。それでも彼は顔を上げることもなく、しゃがんでいるだけだった。
だけどネノンにはそれでよかったかもしれない。ネノンはハスラットに声をかけるどころか、顔を見ることも、近付くこともできなくて、すぐにくるっと引き返した。そして噴水の近くを通らないように、近くの脇道に入り込んで、遠回りすることにしたのだ。
ネノンの頭の中はぐちゃぐちゃだった。何を考えていいのかも、もうわからなくなっていた。空を見ても、もう血の色とも思わない。そもそも空を見ることも考えられない。ただ走っていた。誰もいない、ネノンがようやく通れるくらいの建物の隙間を走って、早く家に帰りたいという一心だ。それだけは、どうにか考えることができていた。
そうして噴水を迂回して、よくわからない奇妙な店が並ぶ見慣れた道に出る。そこまで来るとネノンの家へ続く丘まではあと少しで、坂道を登っていけばいいだけだ。ネノンはどこか安心するような、だけど躊躇うような気持ちで、そのあと少しを進もうとして足を出した。
その時、またいつもみたいに穴が空いた。ネノンが進もうとした部分にぽっかりと暗闇が口を開けて、そのままネノンの身体を吸い込んだ。音もなく落ちていく。ネノンはもうそれに慌てることも、抵抗することもなかった。真っ暗闇になって、自分の身体も見えなくなるけれど、今はそれがずっと続けばいいのにとさえ思ってしまうほどだった。
だけどずっとは続かなくて、ほんの一瞬だけのこと。ネノンはすぐに、いつものようにころんっと管から放り出された。また逆さまになりながら、布の壁にぶつかって止まる。
そして逆さまの世界で天井に落ちようとするぽんぽんたちを見つめて……ネノンはとうとう、泣き出してしまった。
逆さまの格好のまま、上にある床に向かってぼろぼろと、目から涙が上っていく。ぐしぐしと目を擦っても、歯を食いしばっても、それは止まらない。口と鼻の間がつーんと痛くて、だけど他の部分には何もないような、奇妙で気持ちが悪くて、とても辛い感覚だった。
潤んでほとんど見えない視界で、ぽんぽんたちがもそもそと集まってくるのがわかる。みんな心配しているのか、それとも新しい遊びだと思っているのかわからないけれど、いつもよりは飛び跳ねるのが小さいのかもしれない。
きっとまた新しく増えているだろうぽんぽんも含めて、ネノンは逆さまの格好のまま、ずっとぼろぼろ泣き続けた。ぽんぽんたちが手に触れて、身体に乗って、心地良い毛を当ててきたりするけれど、心はちっとも晴れなかった。
ずしずしと、家の外から音が聞こえる。何かがせり上がってくるような音だ。
一緒に鳥の羽ばたくような音や、街でも聞こえていた笛や太鼓、なんて言っているのかわからない歌も聞こえてくる。
ギチギチと軋むような音は、外か中かはわからない。家全体、家そのものから聞こえてくるような気がした。ネノンはそれがなんなのかと考えることもしなかったけれど、外から壁ごと何かに押されて、ころんと逆さまから横向きになった。
だけど涙は止まらない。広間がすごく狭くなっているように感じるし、天井も低くなっているように感じるけれど、そんなことはどうでもよかった。
ネノンは近くなった、そしてあと一本だけになった金色の管を見つめて、ようやく少しだけ考えられるようになっていった。だけど楽しいことなんかじゃない。考えたくなんかないことだ。
管もこっちを見つめている。いつも急に真っ暗な中に閉じ込めて、ころんっと吐き出す金色の管。もちろんなんにも喋らないから、ネノンはひとりで考える。
これが正しいことなのか。大人になるってことなのか。
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