2 静寂の人(ⅱ)

 朝、僕が目覚めると、すでに謐君がベッドサイドに佇んでいた。

 「―――おはよう、謐君」

 時計を一瞥する。

 おおよそ、長針と短針が縦一直線に並んでいた。

 僕は毛布を畳み、シーツの皺を伸ばして寝室を出た。もちろん、謐君も後からついてくる。

 顔を洗い、簡単に朝食を用意する。

 僕は朝食は米でなければ、その日一日調子が出ない人間である。

 謐君と朝食を済ませると、身支度をして玄関に立った。

 「謐君、行ってくるよ。留守番よろしくね」

 僕が出かける時は、謐君が上品に手を振って見送ってくれる。

 

 僕は、FEDを始めとする各種のヒューマノイドを製造する企業の研究開発部に勤めている。大学では、ヒューマノイドに特化した、理工学や医学、人文科学、社会科学の融合したような第二人類学を専攻していた。

 第二人類自体が欲張った学問なので、やっていることは多岐に渡るが、専門性に些か心許なさがあり、器用貧乏に陥りやすく、僕のように、第二人類学を修了して、少々名のある企業に就職出来るのは極めて稀である。

 これは僕が優秀だと自画自賛したいわけではない。大学院では僕の研究が続けられないと早期に悟ったこと、突然その企業で不可思議な空き枠が出来たこと、しかもその空き枠にほとんど人が来なかったこと、その他諸々の幸運が重なって、今に至る。つい最近までは、その空き枠が出来た理由など、知る由もなかったのだが。

 僕は目的地のビルに着くと、カードを通して自動ドアを通る。


 「おう優哉!」

 背後から声がして、僕は歩みを止めた。

 駆け足で寄ってきたのは、同僚の海葛洋貴君だった。僕とは正反対の、明朗で健康的な男だ。同僚と言っても、数ヶ月くらいは先輩なのだが。

 「おはよう海葛君」

 「今日は一回も信号に捕まらなくてな!幸運が溜まった気がする」

 「おめでたい人だね、君は」

 彼といると調子が狂う。

 僕の欠けている物を全て持っているようで、羨ましく、妬ましい。知れば知るほど敬遠されがちな僕に、好き好んで声を掛けてくる変人であることが、彼の欠点とでも暫定しておきたいくらいだ。相手にすべき者が沢山いる中で、彼が僕に時間を割く理由が見当たらない。八方美人であるか、よほど鈍感であるか。それとも何か裏があるのか。考えたくもない。

 しかし、どう見ても体育会系の彼だが、僕と同じ研究開発部の研究員で、頭の方は同田貫並みの切れ味を持つ。今、同田貫と表現したが、よく切れる剛刀のような様子は、全く的を射ていると思う。

 

 僕らは一旦オフィスに寄ると、大小二つの挨拶をして、席に座った。研究開発部は二十人で構成されていて、僕はその一つの歯車だ。

 当面の僕たちの仕事は、アンドロイドの耐久性を上げることだ。地味だが、僕はアンドロイドの為ならどんな仕事も引き受ける。何もかも、僕の理想の礎だからだ。

 会議に回す資料を作成したり、面倒な書類を片付けていると午前が終了した。デスクワークは、嫌いではないが、頭にあると大事な実験の邪魔になるので、いつも午前中に終わらせている。

 

 昼休憩に入ったので、僕はいつもの場所に移動する。嬉しいことに、緑化計画を推進しているこの企業では、敷地内にいくつかの小さなガーデンが設けられている。

 僕はその内の屋上庭園がお気に入りだ。

 

 僕が仕事に出掛けている間、謐君は何をしているかというと、家事をしたり、家で育てているたくさんの草木の手入れをしながら、僕のいない時間をすごしている。食事はというと、謐君は、僕よりも料理が上手くなったので、家で自分で作って済ませている。

 以前まではある程度の外出を許していたのだが、とある噂が実しやかに囁かれ初めてから、念には念を入れて、外出は僕と一緒でない限り許可していない。

 非常に心苦しいが、これも謐君が最も大切故の仕方ない犠牲なのだ。

 だが、僕の家の敷地内であれば、何をしてもいいと許可を出している。品が高く一般の良識を備えた謐君は、きっと静かに過ごしていることだろう。最近は読書が謐君のブームらしい。

 

 屋上の扉を開けるとすぐに、鈴蘭や薔薇、沈丁花などの芳香を含んだ微風が僕を包む。

 今日は人影はなく、僕の定位置にもいつも通りの空白があった。

 花を背にして、石の長椅子に腰をおろした。ほんの数十分だが、静かで穏やかなひと時を過ごす―――はずだった。


 「よう、優哉!俺も一緒にいいか?」

 突如響き渡る例の大きな声が、僕の薄弱な意識を圧迫する。

 「………」

 「へえ…三年勤めてて、初めてここに来たよ。いい場所だな」

 正直いい迷惑だったが、所詮僕の発言など、海葛君を動かすほどの力を持ち合わせていない。すでに実証済みだ。

 彼が隣に座る。体格のいい彼に、僕は窮屈さを感じずにはいられなかった。

 

 彼は、僕の昼食に目をつけると、興味深そうに言う。

 「そういや、その弁当、謐君さんが作ってるの?」

 「君は敬称だと何度言ったら理解するんだ……今日は僕の自作だ」

 「へえ。お前、料理できるんだな。すげえな」

 彼は素直に感心しているようだが、事故で脚と共に両親を失くした僕にとっては、これまで当たり前の事だった。

 だからなのか、一層彼の感心が大げさに聞こえてしまう。

 僕にとっては、褒められるよりも静かにしてくれることが最も嬉しいのだが、彼はそんなことはお構い無しに、僕のゆるりとした静寂を裂いていく。

 「そういや、その謐君さんもヒューマノイドなんだろ?いや、ガイノイドか」

 「だから、君は………まあいい。言っておくが、謐君を他のヒューマノイドと同一視するな。謐君は謐君だ」

 「悪い悪い。よく分からないけど、お前にとっては特別なんだな」

 僕が何か返事を口にする前に、彼は話し続ける。

 「じゃあ今日は、ヒューマノイドを溺愛しながらも、世間に疎いお前に、お得なバッドニュースを教えてあげよう」

 「……?」

 「人間愛護会って知ってるか?最近また問題になってきてる過激派組織だよ。そいつらの言い分だと、ヒューマノイドが人間を脅かしているんだと。それで、ヒューマノイドを見つけ次第、さらっては分解して処分したり売却しているらしい。必要があらばそのオーナーでさえも、という怖い噂も立っている」

 「それは僕も知っている。だから、謐君は一人で外出はさせてないし、識別証は常に隠している」

 「それでよ、あんまり大きな声では言えないけど…」

 彼が辺りを見回して、急に声を潜めた。

 「お前が入ってきた時の空き枠、あれもその団体の仕業だって聞いたぜ」

 「それもこの間知った」

 彼は俄かに落胆の表情を浮かべた。

 とはいえ、知らないと言って説明されるのも、釈迦に説法で面倒だ。

 

 「なんだ、そうなのか…それならいいけど、また最近この辺りでも出たってことを耳にしたから、とにかく気をつけろよ」

 彼がそう言い終わるか終わらないかのうちに、僕の社内端末がポケットを震わせた。空間ディスプレイに映ったのは部長の峰町さんの名前だった。

 「はい、木津です」

 『昼休憩が終わったら私の所に来て。昨日出してもらった分で言いたいことがあるから』

 「はい…分かりました。失礼します」

 通話を切って、溜息を吐いた。

 海葛君が、部長?と訊いてくる。どうやら、あの高く張りのある声が、機器から漏れ出していたらしい。

 僕は彼の問いに頷き、昼食をすぐに済ませて、オフィスに戻った。

 海葛君は、もうしばらくあそこにいるみたいだった。


 人間愛護会か何だか知らないが、先の話からすると、対策を急がねばなるまい。

 僕は早足で階段を降りた。

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