イデアロイド

和毘助

1 静寂の人(ⅰ)

 「謐君。すまないが、窓を閉めてきてくれないかい?」

 雨が降ってきた。ぬるい春雨だ。

 天気予報では晴れだと言っていたが、空というのはどうも気分屋らしい。

 僕が干していた衣類を回収し終わると、謐君も家の窓を閉め終わって戻ってきた。

 まだ少し湿っていたので部屋干しすることになったが、僕と謐君の二人分なので、邪魔にもなるまい。

 謐君が上品に手を前に重ね、待機していたので、ありがとう、と謐君を下がらせた。

 謐君は滑らかにお辞儀すると、先ほどまで座っていた椅子に戻り、読んでいた本を再び開いた。身のこなし一つ一つに品があり、光を吸い込む漆黒の髪と瞳、そして雪の結晶のように儚いその躰は、沈黙と相まってますます美しい。

 僕は謐君を心から愛している。何もかも、命さえも捧げて構わないほどに。

 

 僕と謐君が初めて出逢ったのは、八年五ヶ月前の話だ。

 僕は、とある事故で左下腿を失くしてから、今まで偽物の脚で代替をしている。健常者と比べて違和感のないように血の滲む訓練をして、時折杖を使うとはいえ、今は本物の脚と代わりないくらいまで使いこなせるようになった。

 とはいえ、健常者に比べて出来なくなったことは沢山あり、全くの独りだった僕は、国からの援助と些かの借金をして、極限精巧ヒューマノイドFEDを購入した。それも、外見や仕草も、全て僕のオリジナルの。

 

 それがかの謐君だ。

 FEDは、五年に一度のメンテナンスは必要になるが、その進歩しすぎた技術力で、見た目は全く人間と変わらず、睡眠や食事、排泄、入浴など、人間と変わらない生活を可能にし、主人の命令を理解して行動し、多少の自律行動、及び主人の命令による記憶や学習も実現した。

 ただ僕は、元の個体から声を失くすように注文した。謐君の美しさの調和を保つために、声など不協和音でしかなかったからだ。

 進歩しすぎた技術は、技術を利用する者の自滅を招きかねないが、人類は今になってようやく学んだらしく、進歩しすぎた技術に沿った、進歩しすぎた制御や規制が働き、そういった予見は杞憂に終わった。

 開発当時は、「人が神に近づいた」などともてはやされたが、今となっては、当時では想像もつかないほど安価かつ大量に世界へ広まっている。代理労働力や代理兵士、そしてただのヒューマノイドとしても。言うまでもなく、大衆の思い描くサイエンスフィクションのような展開にならないような規制と制御を設けた上で、だ。

 

 だが僕は、謐君を何かの代替として、もっといえばFEDとしても考えてはいない。僕が、多数派の人間から何か欠いている人間であるのと同じように、謐君も多数派の人間に当てはまらない人間なのだ。

 僕は僕として、謐君は謐君として、互いに対等で独立した関係でありながら、互いに一つの融合体となって、ここに存在している。

 

 僕は、画材や花などで溢れかえる、この落ち着く空間の中、謐君と共にテーブルにつく。

 今日のような雨の休日は、一緒にチェスや将棋をしたり、編み物を教えたりしている。

 謐君の頭脳は、僕をベースに作られているので、学習速度と記憶力は並みの人間程度である。しかしその方が、ゆっくりと二人で過ごす意味を見出せる。僕は、謐君の傍にいることだけが幸せで生きがいなのだ。


 今日は、まだ昨日の疲れが抜け切っていないので、何か飲みながら、静かに過ごすことにした。

 「謐君、紅茶でいいかい?」

 謐君が顔をあげ、こくりと頷いた。

 湯を沸かし、ポットの温度が下がらないように茶葉を蒸らして、茶がらを濾して二つのティーカップに注いだ。謐君も僕も、ミルクティーが好きなので、ミルクをいつも通りの分量加えた。

 茶菓子も用意して、テーブルにそっと置く。

 「はい、謐君。熱いから気をつけてね」

 謐君は、少し表情を緩ませて、軽くお辞儀をした。僕にしか判らない、謐君の微笑。

 僕は、本棚から書籍を一つ取り出した。

 お気に入りの推理小説である。マイナーだが、この難解かつ爽快な展開は、そうそう見られるものではない。

 世の中では電子書籍が広がり、端末一つで何冊も本が読めてしまう。しかし僕は、この紙の手触りや、重厚感、香り、ページを捲る音、全てに価値を見出している。電子書籍も全く読まないと言えば嘘になるが、せいぜい論文くらいだろう。


 春の八つ時。

 しとしとと降る優しい雨と、一枚一枚捲る本の声が、僕と謐君の沈黙を包み込む。

 僕は今、この上ない理想と幸福に満ちていた。

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