セルリアンブルーより……

吉浦 海

肥料

肥料

 鼻水をすする音で、僕は眼を覚ました。

結樹ゆうき、起きているの?」

 すんすんと声をつまらせながら、瑞樹みずきは囁いた。熱い息がかかるたび、耳の奥が振動してこそばゆい。

 なんだ、なんだ。君は、まだ生きているんだね。笑っちゃうくらい、しぶとい奴だよ。何度も、何度も、何度も、この手に掛けたのに、必ず蘇っては僕を悩ませるのだから。

 居間から聞こえてくる、テレビドラマやニュースや、ときには家族の会話から、人を殺める方法を手に入れては、いつ、どうやって決行しようかと、僕は、眠ったふりをして考えているのに。

 それは、至福のときさ。だから、神様、感謝しよう。彼は生きてここにいる。

 僕の快しみはまだまだ続くんだね。嗤ってやる、嗤ってやる。眼をひらかずに、声をあげずに、彼に気づかれないように。




 ああ、そういえば、ずうっと昔にも、こんなふうに、鼻水をすする音で眼覚めたことがあったよなあ。あれは……嗚咽の声だった。僕は二段ベッドの透き間から、こっそり覗いていたんだよ。大きな窓際に座り込んだ、小さな肩が上下するのを……。前のめりに転がってしまいそうな、丸まった背中を……。

 産まれたときから僕らは平等で、肉体にも精神にも同じモノが植えつけられているはずだと信じ、蟻の糞ほども疑ったことがなかった頃だったね。あんなに泣いている瑞樹を見たのは、久しぶりだったかなあ。


 確か、家族みんなで動物園に行ったときのことだったよね。僕と瑞樹は、大好きな動物園に連れて行ってもらえたことが嬉しくて、いつもよりずいぶんとはしゃいでいたね。

 どちらからともなく上り坂を走り始め、赤ん坊が乗ったベビーカーにぶつかったときには、母さんにひどく叱られた。〝ふれあい広場〟のポニーたちに餌をやろうとしたときには、並ぶ順番で揉めたっけ。

 そのうち、何が原因かもわからないまま、喧嘩を始めてしまったんだよね。「ウザイ」とか、「キモイ」とか、意味も使い方も知らないくせに、思いつく限りの侮蔑の言葉を並べ立て、どうにかして相手を言い負かそうとしていたっけな。

 日頃から、「出先で騒いだら、すぐに帰るよ」と言っていた母さんだけど、朝早く起きて作った弁当を無駄にはしないだろうと、僕らは高を括っていたんだよ。

 だけど、ポケットのビスケットをうっかりこぼしてしまったことや、檻の中のゴリラの臭いが鼻腔を衝くことさえ互いのせいにして、言い争うのが我慢できなかったんだろうな。「帰ります」とだけ言った母さんは、さっさと来た道を引き返したんだ。

 いつも穏やかで、家族の前ではへらへらと笑ってばかりの父さんも、やっと取れた休日を不愉快なものにされてしまったことが腹に据えかねたんだろう。僕と瑞樹の手を引いて、母さんの後ろを歩きながら、「ほら、帰るぞ」と言ったんだ。

 とても楽しみにしていたのに……。

 特に気に入っていたのは昆虫館だったな。そこでは、カマキリや蜘蛛のような天敵がいないおかげで、蝶々がひとつも人間を怖がらずに近寄ってくるんだよ。それは、もう御伽噺の世界さ。ぶたくさ、つゆくさ、ひめじょおん……その間を舞う小灰蝶さえ幻想的に描かれた、誕生日に贈られた図鑑と同じくらいきれいだったよ。

 蝶々は、花の香りの整髪剤が好みなんだと知ったよね。だって、母さんの頭には、いつも数頭が留まっていたもの。父さんは僕の手を取って、母さんは瑞樹の手を取って、薄い翅を壊してしまわないように息を止め、人差し指に留まらせてくれたね。

 それなのに、あの日は、僕らのつまらない喧嘩のせいで、目当ての昆虫館にも行けずに帰ることになってしまったんだよ。まだ昼前だというのに、弁当も広げないまま、家に向かう車の後部座席で、ふたりして息苦しいほど泣いたんだよなあ。


 ははは……。あんなに悲しかったのに、どうして今は、こんなに笑えるんだろう。


 そうだったね。僕がベッドの上から見た瑞樹は、あのときと同じか、それ以上の泣き方だったね。

 だから、ベッドの梯子をそっと降りた僕は、君の背後から忍び寄ったんだよ。大声などあげたら、驚愕が喉に詰まって死んでしまいそうに見えたから。

 瑞樹の丸まった体に囲まれていたのは、ハムスターのケージだったよ。


 あのハムスターはどうしたんだっけ。そうそう、隣町の小さなスーパーマーケットへ買い物に行ったとき、買ってもらったんだっけ。

 スーパーマーケットの一階に在る、狭くて小汚いペットショップでは、店頭にケージを幾つも積み重ねて販売していたよね。しとしとと雨が降っていたのにさ。

 小さな二羽の綿花鳥は鳴くことを忘れ、止まり木の端で、ずっと寄り添っていたね。足に鎖を科せられた、産まれたばかりのシマリスは、ケージの屋根の上で、健気に客引きをしていたよ。太って薄汚れた白いウサギは、狭すぎる住まいに身動きもとれず、死んだ瞳で僕らを見上げていたね。

 そぼ濡れた生き物たちは、とても商品には見えなくて、僕らは「もらってください」とか、「里親募集中」なんて張り紙が、どこかにあるかもしれないと、周りを探していたんじゃなかったかな。

 それなのに、かわいそうだと思えなかったのは、スーパーマーケットの鮮魚売り場で眼を引く、水槽の中のドジョウと同じに見えたからなんだけどさ。

 それでも、ケージの隅でおしくらまんじゅうしながら眠るハムスターは、とてもかわいらしかったよ。ペットショップから救済しようなんてつもりは、毛頭なかったけれどね。

 白くて赤い眼が、僕。背中に黒い線のある灰色が、瑞樹。僕らは、おもちゃでも買ってもらう感覚で、小さな命を手に入れたのさ。

 飼うことをあっさり認めてくれたのは、父さんや母さんが、ハムスターの寿命を知っていたからなんだろうな。どうせ、すぐに飽きてしまうのだろうと、それならば、二、三年我慢すればいいのだろうと思っていたに違いないから。

 ケージやペレットや給水器などの、飼育に必要な物が思ったより高くついたので、ねだったことを少しだけ後悔したけれど、それぞれがかわいい名前をつけて、それなりにかわいがっていたよね。僕のハムスターが〝チャッピー〟で、瑞樹のハムスターが〝チャック〟と。


 あの朝、うなだれた瑞樹の視線の先にあったのは、ケージの中で顔から血を流している、白いハムスターだったね。

「ゆ……ゆう……結樹の……え……えっ……チャ……チャッ……ピーが……」

 瑞樹はしゃくりあげていた。体の中身を全部吐き出してしまいそうなほど、赤い顔と蒼い顔を交互に繰り返し、咳き込んでは舌を出していたね。

 僕は悲しかったよ。

 それは、確かなことなんだ。

 だけど、顔に大きな穴が開き、くちが裂けるほどかじられていた僕のチャッピーは、気持ち悪さの方が際立っていたんだ。

 痛かったんじゃないか、という想像をするよりも、母さんが鯖の腹を割いているのを台所で見ているような、赤黒い臓腑の生臭さを連想させたんだよ。

 涙は頬を伝ったよ。だって、瑞樹が本気で泣くから。

 もらい泣きかもしれないね。けれども、飼い主の僕が悲しまなかったら、あまりにも冷酷に見られはしないかと、無理に泣き顔を作ったのかもしれないね。

 不思議だったな。一所懸命泣いていたら、本当に、ぼろぼろ止め処なく涙が溢れてきたんだもの。

 僕らは、玄関横に造られた、三畳程度の細長い花壇に、チャッピーを埋めたんだよ。どっちが穴を掘ったのかなんて細かいことは忘れたけれど、いつまでたっても瑞樹はぐずぐずと泣いていたよね。


 誰が決めたことだったんだろう。ペットの墓は、昔から、ここだったね。

 そうさ、どれだけの魂が、ここに眠っていたんだろう。


 よく晴れた五月に、夜中から車を飛ばして潮干狩りに行ったこともあったね。

 父さんは、「小さいものは海に帰せ」と厳しく注意しておきながら、ジョレンに引っ掛かった気味悪い貝たちは持ち帰るんだ。

 生物図鑑で毒がないことを確かめた後で、母さんに調理を頼むけど、ツメタガイもカガミガイも少しも美味しくなかったよ。結局、アサリの殻と食べ残した貝たちは、花壇の隅に埋められたね。

 あれ以来、母さんは、潮干狩りにはついてこなくなったよ。


 毎年、夏になると、父さんと山へ行き、カブトムシや沢蟹を捕ったけど、やっぱり母さんだけは来なかったね。

 新月の夜、プラスチックケースの中でカブトムシたちが騒ぐのを「合コン」と呼んではうるさがっていたけれども、冬が来る前には必ず死んでしまうから、そこは、僕たちのために我慢してくれていたんだろうけど……。

 だけど、ゴキブリと間違えた母さんが、逃げ出した雌のカブトムシに殺虫剤を吹きかけてしまったときは、「だって、角がないんだもの」と、なぜか僕たち三人が叱られたんだよ。逃がす方が悪いってさ。

 死んだカブトムシを花壇に埋めるのは好きだったな。

 動かないカブトムシはゴムの作り物に見えたけれど、僕の手を引っ掻いていたギザギザの脚を一本ずつもぎ取って、小さな穴に放り込むのは快しみだったんだ。硬い翅を押し広げたら、裏からじわじわハダニが出てきてしまい、腕を無数の小虫に這われた気分になって、脚のないカブトムシを投げ捨ててしまったけれどね。

 そんな僕に、瑞樹は憐れみのまなざしを向けていたね。命を弄ぶ僕が、まるで地面に這いつくばり土を喰らうミミズであるかのように、「かわいそうな奴だ」と、その顔には書いてあった。

 でもね、瑞樹。せっかく産まれた卵も、しわしわの幼虫も、ちっとも上手に育てられなくて、一匹残らず土になってしまうじゃないか。

 それに、バケツいっぱい捕ってきた沢蟹だって清流でしか生きていけないようで、数日で死んでしまうんだよ。死体を発見するのは、なぜか、いつも母さんで、「お腹を上にして、香ばしいニオイを放つのよね」と、どうしてか楽しそうに教えてくれたのさ。

 それを聞いたときの僕の頭には、おかしなことに、総菜屋に並んだ沢蟹の唐揚げしか浮かばなかったのだけれどね。

「死ぬのがわかっているのに、なあんで捕って帰るかなあ。こんな狭い水槽で暮らして幸せだと思うの? 自然の中でそのままにしておけば、この子たちだって子孫を残せたし、もっと長生きできたんじゃないの? 本当に考えていることが解らないわ」

 母さんは決まってそんなことを言っていたよ。

 だけど……あの死んだ沢蟹は、誰が庭に埋めたんだろうね。春になって、真っ赤なアザレアが幾つも花を咲かせたときには、きれいだと賛美していたけれど、その下には……。

 ねえ、母さん?


 沢蟹やカブトムシが、その後どうなったかなんて知りたくもなかったのに、僕は、一度だけ、花壇を掘り返したことがあったんだよ。瑞樹は知らなかっただろう?

 君よりも一足先に下校した僕は、ランドセルを背負ったままシャベルを握っていたんだ。それは、どうにも抑えきれない衝動だったんだよ。

 生き返ってこないかと、心の片隅で祈ってはいたけれど、それ以上に、土の下のチャッピーを見てみたかったんだ。

 きっと、ハムスターの体にも、僕らと同じ真っ赤な液体が流れていたことを知ったからだろうね。だから僕の心臓は、チャッピーの変わり果てた姿を見た途端、きりきりした痛みと快感に喘いだんだろうね。

 だって、白くぞわぞわ蠢く蛆虫に覆われた小さな醜い体には、愛おしさの欠片さえ生まれてこなかったんだもの。


 心臓の中にある僕の種は、こんなふうに芽生えたのさ。


 おまえが殺したんだよね───

 薄暗い子供部屋の片隅で、瑞樹のチャックは寝息をたてていたよ。はじめから、僕のチャッピーなんかいなかったかのように、広いケージの中で穏やかに仰向けになってさ。ケージの扉を開けて、寝ている鼻先を爪で弾いてやったら、

「痛っ」

 チャックは眠りを妨げられたことに腹を立て、瞬時に指先に噛みついたのさ。思わず舐めた血の味に、奇妙な昂揚感を覚えたなあ。

「どうしてくれるんだよ、チャック」

 おまえは、チャッピーだけでなく、僕まで消してしまいたいの? 

 じわりと浮かんだ液体の滲む指先をチャックに突きつけた僕は、ぢりぢりと憎悪が燻ぶるのを感じたよ。けれども、チャックは反省する様子もなく、小刻みに鼻をふるわせながら眼をほそめると、僕の指に前足を掛けてぺろぺろと舐めたんだ。

 ほら、チャック。僕の指から滴る血は、甘くて美味しいだろう?

 おまえは、そんなふうに、チャッピーの汁もすすったんだね。

 やがてチャックは、てのひらによじ登ってきたよ。どくどく鳴る拍動と体温が伝わってきたよ。だから、僕は、チャックを包み込むように、ぎゅっとてのひらを閉じたんだ。

 ちゅっ…………………………

 鳴いた?

 そのとき、僕の鼓動が早鐘を打ったんだ。

 チャックが鳴いたことよりも、そのことに衝撃を受けた僕は、すぐにてのひらをひらいてしまったよ。ころりんとおが屑の中に転がったチャックは、また鼻をひくつかせながら、鋭い前歯でがじがじとケージをかじっていたな。

 誰かに見られはしなかったかと、僕は辺りを見まわしたけれど。


 その日から、僕は何度も同じことをやったんだ。もちろん、家に誰も居ないときを見計らってだよ。ハムスターの声を聞きたかったのか、別の理由だったのかは、当時も今もわからない。

 当然なんだろうな。チャックが人の手にすぐ噛みつくようになるのには、それほど時間はかからなかったよ。

「ちっとも懐いていないよね。このハムスター」

 友達が遊びに来てはそう言った。

「瑞樹がちゃんとお世話しないからだよ」

 僕は意地悪く言うのさ。瑞樹が僕に言い返せないことは、わかっていたからさ。


 臓腑に生えた新芽が、清らかに成長するわけがない。

 季節を廻るたびに毒々しさを増し、同じモノが瑞樹にも植わっていることに、僕はすぐに気づいたよ。

 大人たちが、血管のように隅々まで葉を繁らせていることだって、僕には見えていたんだ。そのくせに、知らぬ顔で説教をすることも。なだめたり、すかしたりしながら……。

 あの人たちは、気づいていながら見えないふりをして、僕らをいったいどこに導こうとしていたんだろう?


 父さん、母さん……。

 残暑が厳しい秋の日には、河原でバーベキューをするのも楽しかったね。

 いつもスーパーマーケットの特売品ばかり買っていた母さんが、この日に限っては、地元で有名な肉屋の前で車を止めさせたっけね。

 そこで毎回、父さんは、揚げたてのコロッケを買ってくれたね。僕と瑞樹は、それを頬張ることが、楽しみで楽しみでしかたなかったんだよ。

 いつだったかなあ……。ふたりで肉屋の駐車場をうろついていたら、広い駐車場の片隅に人だかりができているのを見つけたことがあったよね。

 人だかりの中心には、黒光りする牛が一頭、繋がれていたね。岩のように大きかったのを憶えているよ。それに、あの丸い眼の愛らしさも。

 むおう…………と、腹に響く大声でひと鳴きした途端、驚いた僕らは、ひきつった顔で笑い合ったよね。

 あれは、牛の総重量を当てたら肉をプレゼントする、という肉屋のイベントだったんだ。

 父さんは、よろこんで応募用紙を箱に投げ入れていたけれど、賞品ってあの子だったのかなあ。あの大きな鳴き声は、僕たちに対する怒りだったんだろうか。それとも運命を嘆いていたんだろうか。


 料理なんかしやしない父さんが、バーベキューの日だけは、ずいぶん張り切っていたよね。火をおこし、肉を焼き、お腹いっぱいの僕らに、「もっと食え、食え」と言うんだよ。そのあと、あまり見たことのない短パン姿で、折り畳み式の小さな椅子に腰掛けて、長いこと釣り糸を垂らしていたよね。

 母さんは、たぶん、後片付けで忙しかったに違いない…………ああ、待てよ、待て待て、そうだ日傘だ。黒い糸で刺繍が施されたグレーの日傘。あの日傘は、今でも愛用しているじゃないか。父さんの隣に腰掛けた母さんは、日傘を差して雑誌をめくっていたんだ。

 その間、僕らは虫取り網を振り回し、夢中になって遊んでいたよね。ハーフパンツを濡らしながら川に入り、タナゴでもかかりはしないかと懸命に網をゆすっていたんだ。

 網にかかった河蝦の透明な背中が描く曲線に、僕は見とれていたんだろう。突然、ざぶん、とあがったしぶきに、シャツをびしょびしょと濡らしてしまったんだよ。起こったことがわからなくて、濁った川面を覗いたら、立派なニジマスがくちを開けて浮かんできたんだ。

「ああっ、鳶だ。鳶がくわえていた魚を落としたんだ。せっかくの獲物だったのに、大きすぎて重かったのかなあ」

 空を仰いだ瑞樹は、そう言っていたね。

 遥か上空で舞う鳶は、うっかり落としてしまった獲物に、悔しそうな甲高い声をあげていた。僕らは眩しさに眼をほそめ、小さくなっていく鳶を追いかけたね。いつまでも空を見上げていたら、今度はパッカラパッカラと、お椀を伏せてテーブルで叩くような音が聞こえてきたよ。

 川の中を悠々と歩く一頭の馬は、動物園にいるどっしりした、どこか間の抜けた奴と違い、首が長くスマートで恰好よかったね。近くの乗馬クラブから散歩にでも来ていたらしい葦毛の馬が、あんまり恰好いいものだから、もっと近くで見てみたかったんだ。

 けれども、急に立ち止まった馬がひょこんと尻尾を上げ、結構な量の糞を落として平然と立ち去ったのには、正直、唖然としたけれどね。どこかのおじさんが、「馬のクソが流れてくるから川からあがれ」と、大声で家族を呼び戻していたのを、父さんと母さんは笑って見ていたっけ。

 

 すっかりくたくたになって家に帰ってからも、父さんは機嫌よく釣ってきた魚を居間の水槽に移していたよ。それを眺めながら、出前のラーメンで夕食を簡単にすませるのが、毎回恒例だったよね。

 僕らの運動会や遠足のときも、家族で遊園地に行くときも、前日から準備を始める母さんは、四人では食べきれないほど豪華な弁当を作ってくれるから、バーベキューの日だけは、父さんひとりで頑張っていたんだね。

 バーベキューも美味しかったけれど、ラーメンだって楽しみにしていたから、僕にはとても特別な日に思えたよ。

 水槽は、まるで主のように、狭い居間を大きく陣取っていたんだ。それは、偉そうにさ。だけど、その中で泳いでいる魚たちが、川で釣ってきた鯉やら鮒やらで、どうにも、熱帯魚屋で見るようなきれいなものではなかったよね。父さんだけは、満足そうに眺めていたけどさ。


 僕は、なんだか……大事なことを思い出しそうだよ。


 そうか……最後に、河原に行った日のことだ。


 僕の時間が止まってしまった、あの日のことだ。


 あの日も、釣り糸を垂らした父さんの傍で、母さんは日傘を差していたんだよ。僕と瑞樹は肩から虫かごをさげて、網を片手に川を渡ろうとしていたよね。

 向こう岸は山だった。「ウサギの巣穴を見つけに行こう」と、先に言い出したのは、どっちだったかなあ。

 虫取り網を杖のようについて、ふたりで手を繋いでいたよね。台風が去ったばかりの濁った川底を探る足裏に、刺さる石ころの感覚がビーチサンダルから伝わってきたよ。

 川は……たおやかにゆらいでいるように見えた。

 形のない重い流れを、脛で蹴とばし抗うことが、面白かったんだよね。

 瑞樹の笑顔を見て、僕も笑っていたよ。たぶん、笑っていたよ……。膝下で渦巻く茶色い水が、「道を開けろ」と、僕らを押し退けようとするまで……笑っていたんだ。

 けれど、川の真ん中で立ち止まった足は、何とかして流されまいと、川底に吸いつくことをやめなかった。だから、ウサギの巣穴を見つけることは諦めようと、僕らはどちらともなく言ったんだ。

「戻ろう」

 動けない僕らは、それでも、まだ笑っていたよ……。僅かに、父さんや母さんが待つ方向へと親指を向けただけのつもりだったのに、無数の糸となった水が、ビーチサンダルと指の間に絡みつくまではね……笑っていたんだよ。ただ、素足に刺さる石ころは痛かったけどさあ。

「ああ」

 叫んだ瑞樹の眼の前に、青いビーチサンダルが一瞬だけ浮かんで濁流に消えたね。

「母さんに叱られちゃうよ」

 失くしたビーチサンダルを探さなくちゃいけないと、笑い顔は泣き顔に変わったよ。だけど、母さんの怒った顔が僕の頭によぎったとき、同じことを考えた瑞樹は、握り締めていた虫取り網まで水に奪われてしまったんだよ。

 戯れる川に脚をすくわれ屈み込んでしまった瑞樹は、頭からしぶきを浴びながら歯を食いしばったせいで、もうすっかり、ぐじゅぐじゅ丸まったティッシュペーパーのような顔で奇妙な声をあげていた。

 なんとか瑞樹を立ち上がらせたくて、僕は繋いだ手を引いたよ。膝を曲げて腰に力を入れ、虫取り網の柄に体重をかけたんだ。

 だって、あのときは、僕しか君を助けられなかったでしょう?

 それなのに、一所懸命がんばったのに…………駄目だったんだ。杖代わりの虫取り網は、弱々しく水に弾き飛ばされ、僕の手を離れてしまった。その瞬間、僕は初めて使者の声を聞いたんだ。

 ごうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……ごうぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……

 地獄からの使者の声だよ。

 そして、川は、強い力で、その場にしゃがみ込む僕を抱きしめると、瑞樹と繋がっていた指を引き離してしまったね。

 瑞樹の悲鳴が聞こえたよ。まるで鳶のように、空をつんざく悲鳴が……。

 僕は水に浮かんだ木の葉と同じ。くるくるくるくる回された。

 遠くに、麦わら帽子をかぶった赤い水着の小さな子が、母親と遊んでいるのが見えたよ。泡の中で見上げた空が青く滲んでいたよ。

 それから、ぼこぼこぼこ……と、不気味な嗤い声をあげる濁り水が、鼻とくちから浸入してきたんだ……。


 僕は、どうなってしまったのかなあ。


 あとのことは、産まれる前と同じくらい、何も憶えていないんだ。

 小さな部屋に籠りっきりの日々の中で、朝も昼も、窓に映る花壇を眺めているだけさ。


 そして、みんなが僕の名を呼ぶ。

 わかっているよ。みんなが気を遣っていることくらいね。わかっているんだ。


 だから、僕は、今日も花壇を眺めるんだ。



 そうして、黒い学生服の瑞樹が玄関から出て行くのを窓越しに見送って、僕は計画を実行に移すことにしたのさ。

 洗濯物を干す母さんに気づかれないように、そうっと階段を上るんだ。

 瑞樹と同じ部屋で眠らなくなって、もうずいぶん経つけれど、君のチャックは今でも窓際のケージの中にいたよ。いつの間にか灰色の毛は艶をなくし、まんじゅうのようだった体は小さくやせ細り、鼻の横にはでっかい出来物ができていたね。回し車をのろのろと漕いでも、その速さについていけなくて、両手足をへばりつかせた恰好で、ぽうんっと弾き飛ばされていたよ。

 老いてしまったチャックは、照れ隠しにペレットをかじっては頬の奥に詰め込んでいたけれど、おが屑の中を泳ぐようにゆっくりした足取りでケージの隅まで戻ると、前足をくちもとにあてて眼を閉じたんだ。

 パシンパシン、パンパン。ベランダから身を乗り出した母さんが瑞樹の白いワイシャツを風に打ち付けていたので、僕は、こっそりとケージを開けたよ。

 まるでビデオの停止ボタンを押したように、動きを止めたチャックの背中を撫でると、背骨がこりこりと指の腹にあたったね。


 瑞樹は、もう、泣くことはなかったね。すっかり興味を失くしたように、冷たく硬直したチャックを淡々と花壇に埋めていたね。

 きっと、そこに咲くクリーム色の木香薔薇は、一層強く香りを放つのだろうね。


 その様子を薄ら笑いしながら見つめる僕に、君は気づいてしまったの?

 東からの強い陽射しが瞼の裏をオレンジ色にする朝、瑞樹の視線の鋭さに、僕は慄いてしまったのだもの。眼覚めた僕の頬をぴたぴたと手の甲ではたきながら、憎しみに満ちた眼で僕のことを見下ろした君は、朝の挨拶もしなかった。

 よく日焼けした肌に、朝陽の透けた産毛が金色に輝くのが憎々しくて、僕もまた睨みつけてしまったけれど。


 何もかもが気に入らないのは、僕も瑞樹も同じだったのさ。


 僕はすっかり天井の模様を見慣れてしまい、間違い探しのように変わった所を見つけるのが日課になっていたのだけれど、ぐっと見据えたところを見計らったのか、ドッスンっと大きな音が降ることは度々経験したよ。顔の真上にある子供部屋で、瑞樹の唸り声と壁を激しく殴る音が同時に聞こえ、また、ドッスンドッスン、と天井がゆれるんだ。

 最初こそ鼻が砕けるほど驚いたけれど、慣れてくると、降り注ぐ埃の粒子が激励するようにきらきら輝くものだから、昂る気持ちが抑えられない僕は、

「わあははは……わあははは……」

 と、幾度も幾度も笑い声をあげたんだ。

 そのときの母さんの顔は見ものだったよなあ……わあははは……。

 しょうがないよ……。

 僕も瑞樹も、体の真ん中に、覗けば向こうが透けて見えるほどの、大きな穴が開いているんだから。穴の中には、黒くしわしわのカーボン紙が丸まって浮いていて、取り出そうと手を伸ばせば、てのひらまで真っ黒になるんだ。

 だから、僕らはつかむことができないでいるのさ。

 どうすればいいんだろう。

 僕も瑞樹も体がよじれるほど考えたんだよ。これでもね。

 襖を隔てた隣の居間で、父さんと母さんが、「僕らの扱いに気を遣う」と、小声で話すのが聞こえたよ。「ハリネズミの兄弟のようだ」と、溜め息をつくんだ。溜め息に交じり、ぐずぐずと押し殺した泣き声が聞こえてくると、僕らはどうしようもない痛みに苛まれながら、細く長い針が皮膚を裂いて生えてくるのを待つんだ。

 触れると痛い。でも、触れられる僕らも、痛い。瑞樹と僕が互いに触れ合うのが、たぶん、一番、痛い。それを解っていながら……。

 だから、僕はひとつの答えを出したんだよ。


 どちらか一方が消えてしまえばいいのだ───と。


 瑞樹が暴れ疲れて眠る頃、なぜだかいつも、僕の頭は冴え冴えとするんだ。それは、聞き取ることが困難な寝言さえ、すとんと理解できるくらいにさ。

 君が何も知らないうちに、すべてをやり遂げる自信はあったんだよ。だけど、干したばかりでふかふかの枕は、君の顔を覆い隠しても余るくらい大きかったのに、染み込んだお陽様は何もかもを許す匂いを放ったんだ。君の胸にまたがった僕の、なまっちろい腕まで浄化しようとするんだよ。

 おかげで、ぎしぎしとベッドを踏み鳴らしたのに、空をつかむ君の手が萎えるまでの時間が長かったこと…………。

 襟首をつかんでベッドから下ろすまでが大変だったな。いつの間にか君は、こんなに大きくなっていたんだね。廊下を引きずり歩くだけで、ひ弱な僕の拍動は乱れてしまったというのにね。

 階段の上に座り込み、両足で君の体を押し出しながら踏み込んだけど、途中で何度も引っかかるから、蹴飛ばし、蹴飛ばし、どうにか玄関まで落としたんだ。

 そして、僕は、花壇を掘るんだ。

 掘って掘って掘って……。いくら掘っても掘り進まないけれど……。

 そりゃあ、そうだ。僕が手にしているのは園芸用の小さなシャベルだもの。母さんは、雪掻き用のスコップをどこにしまったんだろうな。

 だって、掻いても、掻いても、土はざらざらと穴の中に流れ込み、瑞樹が眠れるだけの大きさにならないんだから。それでも、きっと終わりはやってくるはずと懸命に掘ったのに……願いは叶わず、やがて、色のない空から陽光が射し始めたんだよ。


「おはよう、結樹」


 やあ、おはよう瑞樹。どうしたんだい、君は? 黒い土の中から、どうやって這い出してきたの? やっぱり僕の埋め方が甘かったんだな。

 今日は機嫌がいいじゃないか。僕の方は、ほら、昨夜の大仕事でこんなにくたくただよ。父さんも母さんも、心配して体温計を差し出すくらい、体のあちこちで何かが煮えたぎる。

 苦しい、痛い。

 ふふふ……。だけど君には、それが心地いいんでしょう?


 ほら、ごらん、夕立だ。

 ガラガラと天から放たれた矢が幾つも刺さり、花壇に横たわる僕の体に無数の穴を開けてくれれば、どれほど楽になれるだろう。僕は、僕の手で、僕を亡者にすることができないのだ。だから、今日も、瑞樹を殺るんだ。

 ああ、重そうに荷物を背負い、髪の毛の先から丸い雫を落としながら、瑞樹が駆けてくるのが見える。黒い顔に色々な物がひっついて、汗と埃と太陽と、雨の匂いをまとった瑞樹が、くもった窓に霞んで見える。

 そして、せっかく身に着けた、その全てを洗い落とすために、バスルームへと滑り込んで行くんだ。「ただいま」と、僕にひと声もかけないで。

 だけど、チャンスだ。

 瑞樹が、バスルームの天井にできた、人の顔をしたシミを、じっと見つめながら浴槽の中で疲れて眠るのを、僕は、待つ。ぞくぞくするじゃないか。今日は首だ、首を掻いてやる。確実に、確実に。

 だって、この間は、手首を切ろうとしたところをうっかり間違えてしまい、肘の裏を刺してしまったんだもの。

 引き出しの奥で定規に隠れ、密かに出番を待っていた小刀で、だ。小学校に上がるとき、父さんに教わりながら瑞樹と僕とで鉛筆を削った、あの小刀で、だ。筆箱に入れていたのを先生に見つかって母さんまで注意を受けた小刀が、瑞樹の肘の裏に赤い一筋の線をつけたんだ。

 赤い線が浴槽に溶け出して見たこともない形象を描き出していく様は、まるで、ラズベリーソースのかかった大量のヨーグルトと、そこにトッピングされた巨大な苺のようだったね。美しい現場を、僕は、恍惚として見入っていたんだよ。

 それなのに、次の朝、瑞樹は傷痕ひとつ残さぬ顔で、僕の部屋のブラインドを上げたんだよな。落胆した僕の顔を、とても不思議そうに覗き込んでいたよね。

 失敗は数知れずあるけれど、あれは、大失敗だったなあ。僕は〝いける〟と確信したのに……。


 母さんは、香る紅茶をいれるのが得意だったね。それから、庭に色とりどりの花を咲かせることも。

 だからね、庭の角の物置から白い容器を取り出して、その中身を紅茶の入ったカップに数滴垂らしてみたりもしたんだよ。ああ、もちろん、瑞樹のカップにさ。水族館に行ったときに買ってもらった、イルカの絵が描かれたおそろいのカップにさ。

 父さんは、調教師の指示に従って空中に吊るされた輪をくぐるイルカや、器用にビーチボールを操るアシカを僕らに見せたくて、水族館に行くとまず一番に、ショーが開かれるステージへと向かっていたよね。

 首をふりふりきゅっきゅと歌うイルカも、口角をうんと上げて笑顔を作るアシカも、そりゃあかわいくて、声をあげてよろこぶ僕らを嬉しそうに見ていたけれど、イルカショーを誰より楽しんでいたのは、父さんだった気がするよ。

 だって父さん、僕と瑞樹が何より見たかったのは、かわいいイルカでも、巨大水槽を優雅に泳ぐシュモクザメでも、ライトアップされて群舞を披露するイワシでもなく、暗幕に閉ざされた向こう側で、うねうねと触手を延ばすクモヒトデだったのだから。彼らの幾つも枝分かれした触手は網のように広がって、僕らの興味を脳みそごと受け止めてしまいそうだったんだよ。

 けれども、土産売り場では、なんでもかんでもかわいい物ばかりで、欲しい物なんてなかったけどね。僕らに相談もせずにレジに並ぶ母さんの手には、爽やかな青いマグカップがふたつ握られていたね。

 毎朝、瑞樹のカップからは、いい香りが立ち昇っていたよね。僕のカップは、食器棚に飾られたままなのにさ。

 だから、僕は、あのカップを利用することを思いついたんだよ。母さんは害虫駆除の折、白い容器の液体を薄めて花壇にまいていたからさ。

 でも、この木酢液というのは、臭いがきつくて、すぐに勘付かれてしまうんだよ。そもそもが、これで人は死なない気がしたし……。


 思い切って瑞樹の背後に迫り、首に手ぬぐいを掛けたこともあったよなあ。あの手ぬぐいにも、跳ねるイルカのイラストが描かれていたよね。だって母さんは、「想い出」だと言っては、遊びに出かけた先で、必ずひとつ土産を買うんだもの。必ず、ひとつ、僕と瑞樹とおそろいで……。

 キコキコと椅子をゆするのは瑞樹の癖だったんだよ。ふたつ並んだ学習机に仲良く隣り合っていると、瑞樹の体がカタカタとゆれ始め、釣られた僕まで椅子を鳴らすんだよ。父さんに何度も注意されたのに、結局、直ることはなかったね。

 その癖が、台所のダイニングテーブルでも始まるものだから、過敏になった僕はつい、ベッド柵に掛けられたイルカの手ぬぐいを手にしてしまったんだよ。

 きりきりと手ぬぐいを絞りながら、足音をたてずに近寄ると、鶏の解剖図が載ったページの開かれた図鑑が、テーブルに置いてあったよ。ふたりで仲良く勉強ができるようにと、買ってもらった高価な図鑑がね。

 それを食い入るように見続ける君のやわらかな首は、僕の手によってカクンと垂れた……と、思ったのに…………


 だけど、今度こそ、殺れそうなんだ。


 浴槽の縁に頭をもたれた君は、顎が浸かるほど湯に沈み、眼を閉じている。馬鹿なくらい無防備じゃないか。

 濡れた髪の毛を片手でつかんで引っ張って、天井を仰ぐ喉に小刀を突き立てたよ。力いっぱい手前に引き裂こうとしたけれど、ボッキリと鈍い音をたてた小刀は、てのひらに柄の部分だけを残して折れてしまったから、僕は勢いに任せて刃を握り締めたんだ。

 ぴゅるるるるるるるるるるるるるるるっっっっ………………

 刃を抜き取った瞬間、瑞樹の喉と僕の手からは、ケチャップ容器を踏みつけたように、赤いモノが飛び出した。

 それでも、真っ赤なケチャップの中で、瑞樹は気持ちよさそうに舟を漕いでいたけれども……。


 そうやって、僕がどれだけ傷つけても、瑞樹は平気で眼の前に立つんだ。それは、安堵するほど腹立たしくて、僕は悦びながら、悩み、傷つく。

 こうすることでしか、僕は僕を虐げることができないから。


 残忍な種から生まれた若葉は、僕を喰い尽くそうとしているんだ。

 そうなる前に、僕は〝確かに、ここに居た〟という、鉛筆で描いた点のひとつも置き汚さずに───いいや、産まれてさえこなかったモノとして消えてしまいたいのに。

 なぜなら僕は、小さな頃と殺人の記憶を鮮明に思い出すことで、自分自身に折り合いをつけているんだもの。天井の迷路は既に端から端まで制覇してしまい、暇で暇で仕方ないのだもの。




 すん、すん、すんっ……。

 瑞樹の鼻をすする音は、本当に耳の入りぐちで聞こえるので、顔の奥深くまで響いてくるよ。


 ごめんね───


 そう言ったの? 

 ああ痛い、痛いよ。頬ずりをする瑞樹の、乾いたニキビ痕がぽちぽちと痛いよ。

 僅かに動く眼で、僕は瑞樹を見る。ずるっと一度鼻水をすすり、親指で目頭をおさえたね。

 見慣れた詰襟が新しい制服に変わってから、どのくらい経ったのかな。エンブレムの縫いつけられたねずみ色のジャケットに、黒い縞のネクタイが恰好良くて、ここのところ羨ましいと思っていたんだよ。

 僕は泣いていたんだろうか。いいや、きっと、一日に何度も泣いているんだ。だから君は、いつも、あのイルカの手ぬぐいで、僕の眼尻と小鼻の周りを拭ってくれるんだろう? それから、意味があるとも思えないのに、丁寧にブラシで髪を梳いてくれるんだ。


 僕は、今、神様に感謝していたところだというのに、君は何も知らないで……。  

「ねえ、あがってもらわないの?」

 母さんの声がする。誰か客でも居るのかな。

「うん、今、行くから」

 開け放した襖からキャラメルティーの匂いがするよ。

「もう……知っていればクッキーくらい焼いたのに、どうして言ってくれなかったのよ」

「いいんだよ、ちょっと寄っただけなんだから」

「ちょっとって何よ。出かけるの?」

「うん……」

「ねえ、ねえ、ダンデリオンでケーキでも買ってこようか?」

「もう……いいから、引っ込んでてよ」

 〝ダンデリオン〟だって? あそこのケーキは小さいけれど美味しいんだ。それをわざわざ買ってこようなんて、どれだけ大事な客なんだい。

「どうぞ……こっちの部屋」

「おじゃまします」

 聞き慣れない……女の子の声だ。

「いらっしゃい……ほほほ……」

 母さんの声が、いつもよりやわらかく聞こえるのは、気のせいだろうか。

「……ねえ、やっぱりケーキ……」

「いいからっ」

 むずむずするよ、母さん。なぜなら、僕にはケーキより甘く優しいものが、すぐそこに在るように思えるんだ。だから、もう一度……。

「え……と……」

 瑞樹、もう一度、その子の声を聞かせてくれよ。

「紹介するよ。俺の兄貴」

「うん」

 とても遠慮がちで消えてしまいそうな声だね。

「お茶、ここに置いておくね」

「ありがとう……もう、いいよ、すぐに出かけるから。あとは自分でする」

「ごゆっくり」

 居間の座卓にキャラメルティーを置いた母さんは、台所へ引っ込んでしまったようだね。瑞樹が初めて連れてきたガールフレンドに気を遣ってさ。

「窓側……そっちに回った方が、顔がよく見えるよ。兄貴は、そっち側を向いていることが多いんだ。外の様子が見えた方が少しは退屈しないだろうから」

「う……ん」

 君は、誰? 顔を見せてよ。

「あの……大きな声で喋った方がいいの……かな?」

「わからない。でも、眼は動くんだよ。耳はさ……ときどき、くちびるを動かして応えようとしているから、聞こえていると思うんだ」

 聞こえているよ。君の声も、窓を打つ風の音も。

 ああ、これは何の匂いだろう。花のような、蜜のような、キャラメルティーの香りより、もっと甘く芳しい。僕の鼻先で、温かく漂う。

「こんにちは、お兄さん。ゆ、結樹くん……だっけ?」

「そう、結樹」

「同じ年だから、お兄さんなんておかしいよね……じゃあ、結樹くんにするね。こんにちは、結樹くん。あたしは、中村瑞樹くんの友達です。え……と……同じ高校の、同じクラスの……同じテニス部の……いつも仲良くしてもらっていて……」

 内緒話でもするように、僕の耳元で彼女は喋った。瑞樹の方にちらちら視線を送りながら、甘い息を吹きながら。

「名前、言わないの?」

 ふふん、と笑って瑞樹は言う。知らなかったよ。聞いたことのない、高さと幅と僅かなゆれを持ち、ほわりと心地好い喋り方だ。君がこんなふうに喋るなんて、今の今まで知らなかったよ。

「言ってなかったかな。ええっと……名前は、森岡明日美といいます。よろしくお願いします」

 瑞樹と同じ黒い顔をして、大きなくちから白い歯がこぼれている。短いさらりとした髪が丸い顔を一層まん丸く見せて、まるでミカンのようだね。

「こうすると、たぶん、もっと伝わると思うよ」

 やわらかい指先が頬に触れた。瑞樹が導いた指先は、かさかさした母さんの手とはまるで違っていて、それだけで心臓が破裂しそうだ。

 やめろ、やめろ、頼むから、やめてくれ。

 ねえ、瑞樹。僕は今、心の底から君が羨ましくて、憎らしくて、仕方がないんだ。今夜、生霊となって君の内部に侵入し、その身を全て僕の手で粉々にしてしまいたい。そうすれば、これまでの、僕と瑞樹に関する記憶の全てを、明日美の頭から消し去ってやれるだろう?

「本当。そっくりだね、ふたり」

 笑いながら明日美は言ったよ。

「でしょう」

 瑞樹も笑いながら応えるんだね。

 確かに昔はそうだった。僕らを見分けられる人間なんて、そうそういないと思っていたくらいさ。だけど、今は……。陽が落ちてから、窓に映る僕の顔は、死人のようじゃないか。

 神様、今すぐ時間を止めてくれ。偶さか、この世に瑞樹と共に生を受ける前の、ただの宇宙の気よりも、更に何モノでもないモノに戻してくれないか。

「いいな、あたし、ひとりっ子だから」

「ねえ、冷めないうちに、お茶、飲んだら」

 ああ待って、もう行ってしまうの。もう少し、もう少しだけ、傍にいてくれてもいいじゃないか。

「ありがとう、いい香り。中村くんのお母さんってオシャレだよね。うちなんか、紅茶といえばティーバッグだし、コーヒーだってインスタントだよ。ほら、あの花壇だって、ものすごくきれいじゃん。思わず、声が出そうになっちゃったもん。大変なんでしょう、手入れするの」

「母親の趣味だから、わかんないや。でも、カブトムシやらハムスターやらが、いっぱい埋まってんだぜ」

「あは……ペットのお墓って、こんな感じだよね」

「あ、それがさ。昨日、そこの水槽の鮒が死んじゃって、浮いていたんだけどね。うちの母親、網ですくってゴミ箱に棄ててんの」

「ゴミ箱なんだ」

「そう、台所のゴミ箱。ビニール袋に入れてさ。でさ、どうして、って訊いたら、何て答えたと思う?」

「臭いから?」

「死んだ魚は生ゴミでしょ、だって」

「あ、なんとなく、わかんなくもないなあ。魚屋に並んだイワシだって、よく考えたら魚の死体じゃん」

「でもさあ……」

「冷蔵庫の奥で賞味期限の切れた子持ちししゃも、わざわざ庭に埋めたりしないもん」

「そんなこと言ったら、肉屋の肉だって、死んだ牛や死んだ豚だぞ」

「肉は丸ごと売ってないもん。あ、そうだ、うちの近所の商店街歩いていたら、珍しいものがあったの。かわいくて、写真撮っちゃった。見てよ」

「何これ、クリオネ?」

「クリオネ、かわいいでしょ。鰤の切り身と一緒に陳列されていたの」

「まさか、売り物?」

「違うと思う。値札がついてなかったし。小さなガラス瓶に入ってひらひら泳いでた。わざわざ〝クリオネ〟って書いたカードが貼ってあったから、一瞬、売ってんのかと思っちゃったけど」

「珍しいモノが偶然捕れたから、客引きのために飾ったのかな」

「そんな感じ」

「ふうん……ねえ、もし、このクリオネが死んじゃったら、魚屋のゴミ箱行きだと思う?」

「う……ん、きっと、そうなるんじゃない? 魚屋さんからしたら、たくさんある商品に紛れ込んだ、どうでもいいモノなんじゃないの? かわいいから飾ってみただけでさ。自分が飼っていたペットなら別だけど」

「そう、ちゃんとかわいがって育てていたら、生ゴミと一緒になんかできないでしょ」

「ふふ……本当。それはできないね。でも、おかしいよね。魚や肉、植物だって、魚屋や肉屋に並ぶと、生き物が食い物になるんだよ。そうして、あたしらの養分になるの」

「色んな物に生かされている、ってことなのかな」

「そうなんじゃないかな。ね、それで、結局どうしたの? やっぱり生ゴミ?」

「ああ鮒ね。へへ……ゴミ箱から拾って花壇に埋めた」

「あっは……それって、中村くんらしいね」

 来たときには消え入りそうな声だったんだ。それなのに、お茶を飲みながら喋る声は、窓辺で集く雀みたいだね。僕には到底使えない魔法だよ。

 瑞樹、瑞樹、僕はどうすればいいの。消えるのは、君ではなくて僕の方なの?

 ならば瑞樹、どうか君の手で僕を殺して。そうだ、できれば、明日美の前で。

「俺、着替えてくるから、待ってて」

「うん……あ、じゃあ、花壇……お花、見ていていい?」

 かちゃかちゃと音をたてて遠退いていったのは、いつも僕らが使うマグカップとは違う、縁がはなびらのように円い客用のティーカップなのだろうね。

 窓の外で花に見入るあの子の、あの声と指先の感触を残して、キャラメルティーの香りも消えてしまったよ。


 結樹、ごめんね───


 瑞樹は、そう言ったんだね。


 僕の心は研ぎ澄まされて、些細な気配すら逃すことはなかったのに、きっと、あの子に見とれていたんだね。君が忍び寄って来たことくらい、空気の歪みで分からなければ、長い時間を小さな世界で過ごしてきた意味がないというのに。

 そして、僕の頭を撫でるように、てのひらで包んだ君は、耳元で言ったんだ。

「ねえ、憶えている? とても天気の良い秋の日だったね。ふたりで虫取り網を持って、川で遊んでいたんだよ。見た目より、ずっと流れが速くてね……怖かった……。生きてきた中で、一番、怖かった。失敗だったよ、あれは。取り返しのつかない、俺らの……。でも、繋いだ手を離してしまったのは……そのことは、俺の……俺の失敗だ。誰も、何も言わないけれど……。俺が気にするから、あの日の……あの出来事については、誰も話さないけれど……俺の失敗だったんだ。あの日のことをくちに出すのは、俺だって……俺だって、今日が初めてだろう? ねえ、結樹。俺は、もっと、ぎゅっと、あの手を握り締めておけばよかった。そうしたら、結樹は、歩くことや、話すことや、笑うことを失わなくてすんだのに……。俺のせいで……」

 ああ、あの日のことだね。憶えているよ、とても鮮明に。それは、昨日のことのように。僕も長い間考えていたよ。あれは、本当に、瑞樹のせいだったのかな、と。

「あの日から、母さんは結樹に付きっきりで、父さんも結樹の心配しかしなくなったから……俺のこと……きっと、憎かったんだろうな。あのとき溺れたのが、俺だったらよかったんだ。それは、今でも思うんだよ。だって、正直に言うと……羨ましかったから。父さんや母さんに大事にされる結樹のことが……。小さい頃から、服も靴も何でもおそろいで、愛情だって半分こだと思っていたのに……あの日を境に、俺は、もう愛されなくなったから……。違うな、愛されちゃいけないんだ。だから、本当なら、俺は結樹より幸せになっちゃいけないんだ。きっと、本当は……」

 瑞樹はこつんと額をぶつけた。

「怨んでいるんだろう? その眼を見れば判るよ。俺を見る、結樹の、その眼を見れば……。死んでしまいたいと思ったこともあったよ……できなかったけど……一方で、結樹なんか死んでしまえばいい、と思ったこともあったけど……ごめんよ。だって、恐ろしかったんだよ、結樹の眼が。でも、結樹が死んで、憎らしい俺が残ってしまったら、父さんも母さんも、今以上に悲しむに決まっている。ああ……ごめん、ごめんよ。俺って、ほんっとうに最低だ」

 僕の顔に何だか熱いモノが落ちてくる。

「……ごめんね、ごめんね。どれだけ言っても、一生、謝り続けても、許してもらえないことはわかっているんだ。だけど……あの子と並んで歩いたり、話したり……ごめんね……そんなことをしたいんだ……。結樹を……こんな体にしてしまったのに、自分だけ……自分だけ……ごめん、結樹、許して」

 瑞樹、瑞樹、聞こえているよ。応えることはできないけれど。

 だから、顔を退けてくれないか。君がそこにいたら、あの子が見えないんだもの。それに、その顔の方が最低だろ。早く、顔を洗って、行けよ。あの子が待っているんだろう。僕の分も、あの子に笑いかけてやれよ。

 どうか、よく思い出せ。毎日、母さんは、君のために弁当を作ってくれるじゃないか。健やかであるようにと願いを込めて。

 テニスラケットを買ってくれたのは父さんだったよね。君の報告する試合の成績を楽しそうに聞いているじゃないか。

 父さんも母さんも、君がかわいくて愛おしくてたまらないんだ。

 僕は知っているんだよ。びりびりと張り裂けた君の心が安らかに癒えるよう、祈りながらふたりで手を重ねていることを……。

 僕も祈ろうか。君が、いつまでものびやかであるように、と。


 僕は君、君は僕。ならば、僕は、今日から違う夢を見よう。

 僕にそっくりな君が、あの子と手を繋ぐ。今度は離さぬように。そして、ふたりで花など植えてみたらどうだろう。


 僕は解っているんだ。きっと誰よりも先に宇宙の果てに行くことを……。だから、これは、僕のささやかな願い。どうか、そのときは、花壇に埋めてくれないか。この窓から見える、あの花壇に。小さな頃の友達が、たくさん眠る花壇に。

 そして、花を植えてくれないか。僕は養分となって、どれだけきれいな花を咲かせることができるだろう。

 花は何がいい? そうだ、母さんのエプロンにプリントされている、あの花がいい。僕は花になって、毎日、玄関から出て行く君を見送るんだ。


 そうだ、お陽様のようにオレンジ色に輝く、大輪のクライムローズがいい。

 

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