大鎧
@nodati
序章
帝歴一八七七年。早春。
東の空が淡く赤らみ出したばかりの早朝の帝都の町並みは、朝霧に包まれていた。
大通りの石畳の上を濡らしながら緩やかに流れる靄の中、等間隔で並ぶガス灯の白い光が燐光を纏って浮かびる。
その光に沿うように黒く浮かび上がる瓦屋根の列の先は霧に呑まれ、何処まで続くのか知れない。
その水墨画の様に色彩が抜け落ちながらも精彩で壮大な景色は、この大陸最大の巨大都市である帝都をして、目にした者に、まるでここが古に姿を消した幻の都の様にすら思わせる。
そんな幻想的とすら言える情景の中、その静寂を打ち破る大音声の叫びが響き渡った。
「キィェェヤァァァァ!」
絶叫。もしくは、咆哮。まるで巨大な怪鳥が威嚇をしているかの様な奇声。
その声とも鳴き声ともつかない叫びに重ねる様にして、まるで巨大な木槌で力任せに杭打ちをする様な重く鈍い打撃音が連続して聞こえる。
その奇妙な叫びと衝突音は幾度も幾度も、帝都西部を縦断して流れる桜瀬川の河原を中心として朝霧に覆われた未明の帝都の空の下に響き渡った。
声の主は一人の少年だ。名前を稲郷継守という。
少年の生まれは帝都から遥か北方の猛州の地の出身であり、歳は十七になる。
黒い髪と黒い瞳。太い眉と通った鼻筋が印象的ながらも、それなりには整った顔。
ゴツゴツとした稽古着の間から覗いて見える、その鍛え抜かれ引き締まった身体は、冬を終えたとはいえ未だ肌寒い早朝の空気の中でも滝の様な汗をかいていた。
継守は、手にした己の腕ほどもある太さの木刀を構え直す。
そして乱れかけていた荒い息を整えると、その口からは再び、今朝で幾度目になるかも解らない絶叫を迸らせた。
継守が走り抜ける先の河原の地面には、打ち立てられた幾本もの丸太が起立している。
その全てが、継守が駆け抜ける際に木刀による全力での打ち込みを受け、再び鈍い打撃音を響かせながら削られた表面から木屑を撒き散らす。
そして、その木屑が地に落ちるよりも先に、再び駆け戻ってきた少年により再度の打撃を叩き込まれた。
その行為は、幾度も幾度も繰り返される。
その目ばかりを獣の様にギラギラと光らせ、人のものとは思えない奇声を張り上げ、腰を落とし上半身を揺らさない独特の走法で疾走し、継守は狂った様に丸太を殴打し続けた。
もし知らぬ者が継守の姿を観れば、彼を狂人だと思うだろう。
もしくは、この帝都からは二百年も前に総督府軍によって駆逐された筈である鬼族(亜人)の生き残りだと思うかも知れない。
だが、継守という少年は断じて狂人ではない。無論、鬼族でもない。
この一見は狂態の様に見える行為こそが、彼の生国である猛州に伝わる剣術稽古の流儀なのだ。
その猛州剣術の流儀において特に重んじられているのは、以下の三点に尽きる。
叫ぶ。走る。打つ。
無論、この三つは現在において主流である竹刀剣術でも決して軽んじたりはしていない。気合の叫びも、その俊敏な足運びも、刹那の隙を突く素早い打ち込みも、積み重ねた鍛錬が有ればこその物だ。
だが、竹刀剣術が生まれるよりも古くから続く猛州剣術においては、その性質は大分異なる。
猛州剣術は、戦国期の武士が戦場において行うものとして編み出されたものだ。
もし戦となれば戦国期の武士は一日中でも、敵を威嚇し味方を鼓舞する叫びをあげ、重い甲冑を着込んだまま戦場を駆け回り、鉄塊である刀や槍を振り回して敵を屠る事となる。それを行えるだけの肉体と精神を磨き上げる事こそが、この鍛錬の目的なのだ。
実際の刀と同じ重さの木刀を持ち、鉛を仕込み鎖帷子と同じ重さにした稽古着を着込み、足場の整えられていない野外で疾走し、ひたすらに目の前に並ぶ標的を打ち続ける。
東の空から太陽が顔を出し、少年のいる河原に白い朝日が差し込んでくる。
僅かに川の水面から霞が立ち上るのみで周囲の朝靄も薄れて来た頃、それまで響き続けていた叫び声と打撃音が止む。
継守の日課である百本の打ち込み稽古が終了したのだ。
一つ大きな息を吐くと、継守は近くの木の枝にかけていた手拭いを手に取り汗を拭き始める。
その顔には先程までの獣の様な形相とは変わり、気優しそうで物憂げな表情が浮かんでいた。
この顔こそが継守という少年の本来の姿であり、先程までの鬼神の様な姿こそが仮面と言える。
だが継守自身は、己を勇猛で誇り高い武士として振る舞う様に心掛けていた。
そうで有りたいと願っていた。
そして己の武勇により名を上げ、その剣の腕で自分は生きて行くのだと半年前までは信じていのだ。
それ自体は、決して叶わない夢では無かった。
継守が帝国陸軍抜刀隊なり警視庁抜刀隊なりに仕官すれば良い話だ。
一五年前の戦争の時に継守の生家である東郷家から財産も名誉も奪い取った新政府に対し、継守が無心の忠誠を誓って仕えるのであれば、それは叶う事であった。
だが、それは実現しなかった。
その為の唯一の道は断ち切られてしまった。それも他の誰でもない継守自身の手によって、半年前に断ち切ってしまったからだ。
「・・・帰ろう」
その誰に向けるでもない呟きを残し、少年は帰路につく。
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