第3話 ビール飲まずに何飲むんだよ
水浸しの心はどうやって乾かすんだ?
乾いた心は、どうやったら潤う?
オフィスのトイレで、便器に腰掛け力みながら考える昼飯後の細やかな時間。
そうして午後の業務を終え、週明け月曜のタスクを整理し、
俺はこれから渋谷へと向かうわけだ。
時刻は、PM06:30。定時ピッタリ也。
今朝雨へと変わった昨日の雪は、いつのまにか止んでいて、眼前には、空気の澄んだ雲一つない冬空が浮かんでいる。
(こんな早い時間に出るのは久しぶりだな)
そう思いながらまだ紫色の空を眺めていると、LINEの通知が来る。新之助だ。
「ヒロと一緒に早抜けしてる。悪いが、一足先に飲んでるよ」
「了解。19時半までには着くよ」
そう返し、俺は高層ビルの15階から下界へと下り、渋谷へと都営バスで向かう。
どうして、六本木から渋谷への地下鉄が通ってないんだ?
俺は首都高の高架が嫌いなんだよ。
絶えることないクルマが吐き出す排気ガスが満ちる道路脇。
高架下を歩いていると気が滅入る。
大量に流れるタクシーの群れから一台を捕まえる。
後部座席の窓から見えるは、西麻布の街の盛り場の揺れる光。
麻布と渋谷を隔てる青山トンネル。
通勤リーマンを詰め込んだバスと並走し、渋谷の谷へとさらに下ってまいります。
暗い谷底で、終わることのない駅前工事の隙間をさっさとくぐり抜け振り返る。
渋谷ヒカリエの巨大ビルとそして隣に浮かぶ満月。
満月があってよかった。
少しだけ満足し、俺は駅反対側の道元坂上の居酒屋へ向かう。谷底から一躍武蔵野台地が生んだ高台の上へ。
渋谷は苦手だが、この道元坂の空気は嫌いじゃない。
皆が坂を下って帰巣していく中、俺だけはその流れに逆行しているのだ。
時代の異端児だ。
そんな異端児が入っていくのは、ありきたりな和風居酒屋なんて、情けないよなあ。
そんなPM07:15。
やたらに薄暗く、間接照明をふんだんに使った店内。
かつてのモダンは、画一化されとうの昔に陳腐化してしまった。
そんな店奥の壁際に、ガハハと口を開けて笑う新之助の姿を見つける。
無駄にデカイ声をあげるからすぐにわかった。
「お、雪哉が来たぞ」
新之助が、俺の方を指差しテーブルの向かいに座る小柄のヒロに言う。
テーブルに近づくにつれ、笑みが溢れる。
「新之助、ヒロ。お前ら久しぶりだなあ」
両手を広げかわいいヒロを抱きしめようとして、身をかわされる。
大学時代の毎日のお決まりの挨拶だ。
「阿呆」
新之助が突っ込み、ヒロは横顔に笑顔をいっぱいに浮かべ言う。
「ゆきやん、久しぶりー」
その声に、俺はなんだか懐かしくなって頬が緩んでしまう。
新之助がグーにした拳で、俺の頭をコツンと鳴らす。
「お前の方こそ久しぶりだよ。最初はビールでいいよな?」
「ビール飲まずに何飲むんだよ」
「さすがゆきやん。僕ら3人の中で一番酒豪」
「雪哉、お前体でかくなった?」
「でかくなったっつーか、ビールばっかり飲んでるから、腹がやばい」
「麻布ぐらしだと、毎日シャレオツなバーで飲んでんだろ」
「阿呆。そんな金あるわけない。毎日自宅で缶ビールだ」
会ってすぐにエレベーターの愚痴を言うつもりが、こいつらの顔を見た途端にどうでもよくなってしまう。予定調和の会話が、普段なら会社の連中とは気持ち悪くて耐えられなくなるような、どうしようもなくくだらない会話が何だか嬉しくて、俺の心は満たされていく。程よい量の仲間とビール、心の乾きを取るにはそれで十分だ。
席に着いたときには、そう思っていた。
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