スカウト編
第2話 エレベーターは止まらない
〈悪いんだが、渋谷まで出てきてもらっていいか?〉
家に帰ってから、再び届いたLINEに、俺はまた〈了解〉とだけ短い返信をして、床につく。缶ビールはいつものように2本空けていた。
やがて3月がきて、少しだけ暖かくなったと思ったら、また寒波が押し寄せて、冬の空気がぶり返した。約束の金曜の朝、スヌーズは何度繰り返されただろう。何度目かの目覚ましのベルに叩き起こされて、いつものように一日が始まりを迎える。
AM08:55。始業時間の35分前だ。幸いにも俺は会社の近所に住む徒歩通いの私服サラリーマン。通勤ラッシュなんて知らないね。始業はAM09:30。通常なら歩いて15分ちょいというところだ。だから15分で身支度をして、マンションを出なくてはならない。朝シャン5分、着替え5分、髪のセット5分だ。TVをつける暇なんてない。リモコンを探す時間だって惜しいのだ。そんな金曜のAM09:10。
出かける間際に、冷蔵庫から昨日買っておいた半額のサンドイッチをカバンに詰め込む。1L紙パックのオレンジジュースをそのままラッパ飲みする。AM09:12、2分ロスした。
玄関を出てから、エレベーターを待つ時間がいつも俺を苛立たせる。地下1階地上13階建てのマンションの、3階。微妙な階数だ。そのままエレベーターを待つが早いか、はたまた階段を使って降りるが早いか。素早い判断力が要求される。
今の停止位置はLの表示。つまり地下1階ロビーだ。よし。俺は迷いなく、エレベーターのボタンを押す。カゴが上昇を始める。乗り込む準備は万端。ドアが開いた瞬間に、身体を潜り込ませ、<閉>を押すのだ。<L>はドアが閉まる3秒間の間にゆっくり押せばいい。よし。カバンを握りしめ、エレベーターの到着を待つ。
L
1
2
3……あれ?
4
5
6
7
おいおい、勘弁してくれよ……。カゴは無慈悲にも上昇を続ける。
8
9
10
10階で停止する。また、あのババアかよ……。
スマートフォンに表示されたデジタル時計は、AM09:15を刻んだ。
繰り返す。始業はAM09:30。そして会社までは、15分と少し。1分のロスも許されない状況下で、よくも俺のバッファを見事奪ってくれたな、高飛車の厚化粧ババアよ。相変わらず憎いぜ。
時間は伸縮するとはよくいったもので、そんな物事の真理を感じさせてくれるのが遅刻するかしないかの瀬戸際の、自宅エレベーターの前だなんてなんてほど情けないんだろう。こっちはこんなに急いでいるというのに悠久とも思える時間を経て、ようやくエレベーターが下降を始めた。
10
9
8
7
6
5
4
3……チン!
エレベーターは、途中停車することなく順調に俺のもとに舞い降りてきてくれた。
ホッと胸をなでおろす。
チンという音ともに、ドアが開く。案の定、そこにはスーツ姿のババアの姿。このババアは、どうやら俺と通勤時間がかぶるらしく、頻繁にエレベーターで会ってしまう。そして、俺のマンションは待機時間が30秒を超えると、乗り込むときに
『オマタセシマシタ』
なんて機械音が流れる親切設計。つまりその音声が流れるということは、ババアも俺が長時間待っていたことがわかってしまうということだ。
自分のせいで俺が迷惑被ってるというのに、このババアときたら、反省なんぞはどこ吹く風。勝ち誇った顔を隠しもしないで、
「あら、お早うございます。昨夜は冷えましたね」
だなんて余裕振りまいてきやがる。
若くなんかないよ。ババアってのは決して比喩なんかじゃなくて、PTAの会合で文句ばっかり言ってそうな、そんなババア。
俺は俺で
「おはようございまーす」
なんて愛想振りまいて、奥のほうに乗り込む。相変わらずの厚化粧に香水の匂いがきつくて、ドア近くの操作ボタン前に立つババアのうなじを斜め後ろからジロリと威嚇しつつ、おそらくどこぞの弁護士なのだろうと勝手に想像している。だって、スーパーのパートに行くようなババアは、黒地に白のストライプが入ったパンツスーツを着こなして、 茶色に染めた髪をロールアップなんかしないだろ?つまりそういうこと。
AM09:17。
エレベーターが下降を始める。
3
2……チン!
そうして、やっぱり嫌な予感は的中するもんだ。2階で乗り込んできやがったんだよ、太ったメガネの冴えないリーマンが。俺は不快感を隠すことなく、デブメガネを睨みつける。スーツだけは、高そうなの着やがって。舌打ちしそうな勢いだ。低層階の奴は、階段使えよ。
1
L……チン!
ロビーについた頃には、もうAM09:19。俺の遅刻が濃厚になってきた。たとえ全力ダッシュでも10分はないと、流石に間に合わない。
どうしようかな、上司に遅刻連絡をしておくか。それともまだ間に合う可能性に賭けるか……。そんなことを悩みながら、外に出てようやく気づく。
雨だ。
昨日再び降った雪が夜のうちに雨へと変わっていて、それにあわせて俺の心もまた水浸しの状態へと変わる。これだから内廊下のマンションは嫌なんだ。雨音なんかろくに聞こえやしない。調子に乗って、デザイナーズマンションなんか住むんじゃなかったよ。
ババアは、バッグから折りたたみ傘を取り出し、悠々と玄関ロビーの自動ドアを抜けていく。苦虫を噛み潰していると、デブメガネすら、なんとビニール傘を持っていやがった。しまった。焦りと怒りでこいつらの傘にまで注意が行かなかった。
変なプライドが邪魔をし傘を持っていないのがこいつらにバレるのが嫌で、ババアとデブメガネに続いて自動ドアを抜ける。雨音が地面を叩いている様を眼前に、ぽかんと口を開けたまま、鼠色の空とスマホ画面を交互に見比べる。
時刻は、AM09:21。つまりそういうこと。
いいよ、こんな日はどうせ会社のエレベーターもろくに捕まらないだろうよ。息せき切って走ってって、誰かにイライラしながら、遅刻かどうかの瀬戸際生きるくらいなら、堂々と遅刻してやる。
今日一日の遅刻なんて、宇宙から見たら大したことないんだからな。そうして、俺は何かを諦め、惨めにも再度マンション内へと戻り、ホールのエレベーターボタンを押す。カゴはもう上昇していて、今度は13階にいる。ほんとに悪いことは連続するもんだな。遅刻も確定したので、待ってる間に上司にチャットツールで連絡をすることにする。
〈お疲れ様です。ババアのせいで、数分遅れます。申し訳ございません〉
ダメだ、こんなの。
改めて文章を書き直す。
〈お疲れ様です。私用のため、数分遅れます。申し訳ございません〉
そう、これが大人ってもんだ。
再度マンションロビーに降りた頃には、オンタイムだったよ。AM09:30、そう出社時間オンタイム。言ったろ、時間は伸縮するんだ。それが真理だよ。
(今日の飲みは、開口一番愚痴で始めてやる。きっとそうしてやる)
打ちっぱなしのマンションロビーを背に、安物のビニール傘を開きながらそうひとりごちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます