Hack!!

遠歩 やいそ(おとほり やいそ)

Chap.0 プロローグ<知らざる者の場合>

「なるべく早く来て欲しい」


それが今日一番に彼女から受け取ったメッセージだ。正確にはこれは冒頭だが、続く言葉が果たして続きと言えるものなのか定かではない。

 件名だけに文章を打ち込まれたメッセージは、便箋を入れ忘れた封筒のように空っぽだった。

 もっとも、彼女の場合それを入れ忘れたわけではなく、故意に入れていないだけなのかもしれないが……。

 そうこうしている内に次の便箋が届いた。


「19時。MLにて待つ」


 もう多くは語るまい。待ち合わせは19時。今が17時55分だから少し急げば充分間に合う時刻だろう。

 MLというのは、マッシュルームリーフの略だ。誰が名付けたのかはわからないが、僕等の所属する組織の所有するビルの名前だ。形がウォーターマッシュルームという植物の葉に似ているかららしいのだが、僕はその植物を見たことがない。


「それにしても暑い」


 意識を介さず反射的に出た言葉は、ほんの短い間だけ空気中を漂ってから消えた。

 空調設備の整った部屋の中でもガラス越しの強い日差しは伝わる。

 朝早くからずっと消えない紫外線警報の文字はこの時間になってもまだ消えていない。こんな日はできるだけ外に出ないのが得策だろう。下手に肌を露出すれば、熱気はもとより強烈な紫外線に晒された体がどうなるかは火を見るより明らかだからだ。


 昨日、残りかけの仕事タスクをまとめて片付け、眠りについたのが今日の明け方のことだから、かなりの時間眠っていたことになる。

 すっかり機能が停止した脳を動かす為、グラス一杯の水を一気に飲み干した。

 腐りかけの果実は美味いと教わったが、この季節では怖くて口にできたものではない。

 仕方なくテーブルにあった昨夜食べかけのクラッカーを手に取り、冷蔵庫に残っているレーズンバターを一欠片乗せたものを口に運ぶと、まるでタイミングでも見計らったかのように電話が掛かってきた。

 毎度の事だ。僕は彼女からの無愛想なメッセージには返信しない。癇癪を起こした彼女がとる行動パターンは決まっている。電話を掛けるか、次のメッセージを送ってくるかの2択だ。急ぎの用でない場合、後者が選択されることがほとんどだか、今回はその場合にあてはまらない。すると必然的に前者が選択される。

 湿気ったクラッカーを噛むと同時に良く冷えたレーズンが口の中で弾けて甘い香りが口の中を満たした。


 7コールと1/3回電話が鳴り響いた後、パタッとそれが止んだ。静まり返った部屋の中で何も考えない時間が暑さを一段と際立たせる。

 倦怠感を残した身体は鉛のように重く、まとわりつくような湿度がそれを助長している。

 彼女からの連絡はほとんどが仕事に関する物だ。

 僕はいつものようにクローゼットへ向かうと、一面黒のどれも同じようなスーツの中から一番のお気に入りを選び、手に取って着替え始めた。仕事で着るスーツの色は黒と決まっていて、ジャケットの胸には組織名を模したバッジを着けることになっている。

 組織の名前は「ガラパゴス」という。21世紀半ばに起こった2度の大きな戦争にも関わらず、無傷のままに残った数少ない陸地だった。その功績にちなんで組織の名前として使わせてもらっている。僕等が何をしているのかは後述するとして、そのバッジは、ガラパゴスのイニシャル「G」を模って作られていた。


 初めてそのバッジを受け取った時、僕はそのデザインをとても気に入った。今となってもその輝きは色褪せないし、もちろん気に入っている。ただこの繊細なデザインをしたのがあの彼女であることだけは未だに少しの疑問を残すところだが黙っておこう。

 彼女と言うのは、他でもない、メールの件名にだけ要件を書いてよこす彼女のことだ。大事な要件がある時、他に生存確認のメールも届くが、どちらもえらく単調だった。

「生きているのなら――」という仮定から始まるその連絡が彼女にとって果たしてどれくらいの重要性を持つのかは定かではない。出会った頃はきっと世話好きなんだろうと思っていたが、しばらくして僕は彼女に貼ったそのレッテルを世話焼きに変えている。

 少し乱れたワイシャツの襟を正したら、準備完了だ。

 最後に大事なことだが、彼女は、僕のガールフレンド、文字どおりの彼女ではない。こんなこと冗談でも彼女が訊いたら、僕は遠く南極の氷面下数千メートルの湖に生きたままで沈められるだろう。これは冗談のようで冗談にならない。


 玄関へ向かう途中、新調したばかりの靴を履いて行こうかと悩んだが、ふと今日の降水確率が頭をよぎり、伸ばしかけた手を止めた。夏の天気はまるで当てにならない。

 天気予報はほぼ外れないが、それはそれ相応の天気予報での話だ。この時代、いくつかある天気予報の精度はばらばらで我々知らざる者が得られる情報の精度と言えば、いいところ97%くらいのものだ。そうなると残りの3%は推測で補わなければならない。3%といえば充分過ぎる可能性だ。それを誤差の範囲としてしまえば、一体何度地球に小惑星が衝突したかわからない。

 ロック解除のためのカードキーを玄関に差すと、開いたドアの隙間から湿気を含んだ生温かい空気が入り込んできた。

 IDカードを忘れていないかの確認をする時、一枚の紙切れが落ちた。

 数日前に買ったロトだ。今回は7つの数字の内、5つも数字が一致していた。長い間買い続けているが、ここまで惜しかったのはこれが初めてだった。換金すれば小遣い程度にはなるはずだが、こういう時に限って僕の選んだ数字は、僕という人間と結びつくことで意味を持ち始める物が多過ぎた。こんな些細な所から僕等の素性が明らかになるとは考え難いが、軽はずみな行動は慎まねばならない。怨むなら数字を決めた自分自身だろう。もっとも、その数字を選ばなければこの当選はあり得ないというわけだが。

 21世紀末葉にIDカードを用いたセキュリティは最先端では無いが、まだまだ多くの場所で使用されている。我々の組織のセキュリティ周辺の管理はスグルという日本人の祖父を持つ男が担当している。国や人種といった境界がほとんどなくなったこの時代に愛国心とも言えるような考えを持ち合わせているというのは、それだけでも羨望に値するものだろうが、彼はそんな男だ。

 やや古風な考え方を好む傾向があるからか、ある程度の視力調整なら個人でも行えるこの時代には珍しく、彼は朝から晩までずっと眼鏡をかけている。何でも、彼の祖父からもらった物だから肌身離さず持っていたいのだそうだ。

 少しくらい古いということは何も悪いことではない。問題はそこではないからだ。彼の作ったシステムは、僕等の組織をきちっと守っているのだ。だから彼の仕事に文句を言うものは誰もいない。

 さて、あまりゆっくりもしていられないから少し急ごう。


 18時23分。

 リニアメトロの駅まで、少し足早に歩く。できるだけ管理のしやすいように整備された町並みはキーボードの配列に従い、綺麗に区画分けされており、僕の住むD区画から駅のあるF区画までは10分足らずで付く。

 F区画に入る直前の路地裏で2人組みの男が声を潜めて会話をしているようだった。

 僕は少し迷ったが、警告するくらいの余裕はありそうだったので足早に近づくと、すぐに会話をしていた内の一人がこっちに目を向けてきた。どうも都合が悪いようで僕に向けた視線をすぐに逸らして踵を返し立ち去ろうとしたのを見て僕もまた駅の方へ体を向けた。余計かどうかは別としてこういう時に無駄な時間は少ない方がいい。


 18時32分。

 駅の改札を抜けると、僕を通り越すように急ぐ人がいた。後ろ姿からわかることは、彼女が女性だということと、これから僕の向かう街の方向へ向かおうとしているということだけだった。

 リニアの進む方向が太陽の沈む向きとたまたま一致しているだけという理由で単なる憶測に過ぎないが、いざとなれば役立つこともある。

 出発の時刻まで確認していなかったので助かったと思った。彼女について行くと間一髪のところで滑り込めた。僕は先程余計なことをしなくて良かったとその時になって安堵した。もしかしたら彼らにとってこの決断は、不幸な選択を招くことになるかもしれないが、僕だって急いでいたのだし、もし良からぬことになってもそれは仕方のないことだ。

 静まり返った車内では、本を読む者、マルチデバイス越しに外の景色を見る者、その日起こったニュースをどこか気難しい顔で見るものと様々だった。

 途中まで追いかけていたこともあって、先程、僕の前を走り去った彼女も同じ車両に乗り合わせていた。

 音楽でも聴いているのだろうか、少し俯いたままだったので正確にはわからないが、雰囲気から年齢は僕と同じか一つ下くらいだろう。

 車内の人々は皆風貌は様々で考え、感じていることも千差万別だろう。ただし、こちら側にいるという事実は、我々がただ一つだけ共通点を持っていることを意味している。

 ただ一つの共通点、それは僕等の脳にはマイクロチップが埋め込まれているということだ。この計画自体はもうだいぶ昔から様々ところで囁かれてきていたが事の真相を知る物が果たしてどれくらいいたのか、それさえもわからずに世界は争いの渦へ巻き込まれた。

 それにしたって不思議なのは、どうしてここまで巧く人類をシステム化できた連中が、僕等の様な存在にその事実を知られるようなへまをしでかしたのかということだろう。小さな解れが後にどれ程大きな影響をもたらすのかということは、そういう連中が一番よく知っているはずなのにだ。

 もちろん今のところその解れは大きくならずにいる。その証拠にほとんどの人間がこの事実を知らされないまま違和感もなく生活をしている。ほとんどのという言い方がこの場合適切かどうかはわからないが、もちろんこのことを知る者は僕等以外にも僅かながらいるとされている。

 頭の中を間接的にではあるが見ることを許される医療従事者は恐らくそれに当てはまるが、僕がその僅かに入っているというのは僕の所属するガラパゴスという組織がしていることにも関係している。その一方では、解れが大きくならないことにも一役買っているのだから、僕等の存在は複雑に絡まった糸のようになっている。或いはこのことが僕等の存在が明るみに出るのを防いでいるのだとすれば、これは文字通りの意味で解れた穴を修復しているのが僕等ということになってしまうのだが……。

 

 18時46分。

 車内が少しだけ慌ただしくなった。突然入場してきたアンドロイドが一人の男の前で止まると、眼球を覗き込むような形でしゃがみ込んだ。何かを確認しているようだった。

 確認が済むと男は何も言わずに立ち上がり、アンドロイドの後ろを歩き出した。

 誰も彼も意に関せずというような様子を見せながらも横目には連行される男を見ている。

 彼らはもちろん、僕だってその男がどこへと連れて行かれるのかは知らない。車内の様子が落ち着きを取り戻した頃、隣の車両から肌の白い女を連れた男が姿を見せた。

 男は、女の方に絶えず視線をやっているせいか、周りの様子には気付いていない様子だった。


「Have an eye!」


 女連れの男が、アンドロイドと肩がすれ違いそうになった時、そう叫んだように聞こえた。

 このようなことが日常化したのは、世界が大きく2つに分断されたことによる対価の様なものだろう。

 1度目の戦争では原子力兵器の使用こそなかったものの生物、化学兵器に加えて電子兵器によって決して少なくない数の犠牲者が出た。

 それから数年後に起こった戦争は世界規模になった。終戦の末に勝利した側は敗戦した側にいくつかの条件を出した。人間がもう二度と同じ過ちを犯さぬようにという願いの元に作られた条約に基づくそれは、一般市民は愚か、国のトップにでさえも知らされていないような内容も含んでいる。ことの真相が知れ渡ればそれこそ各地で再び多くの争いが起こるかもしれない。

 だからこそ真実を知ってしまったものは、これまでの生活を送ることが許されない。車内には乗客以外の人間は乗っていないはずだから、先刻彼らを連行したのは、文字通り血の通わない機械の類だ。


 18時51分。

 目的の駅に到着して扉が開くと、残り時間を確認する僕をまたしても風の様な勢いで追い越したのは彼女だった。まるで陸上競技者の様な爽快な走りに一瞬見蕩れるような形になったが、あれは僕が本気で走っても追いつけないかもしれないと思わせるほどに見事な走りだった。

 慌てて我に返ると目的地へと急いだ。たまたま僕の向かう方向に彼女が向かっているのだろうが、それにしたって僕はどうしてさっきからこの女の子の背中ばかりを追っかけているのか。少しの疑問も持たなかったことが今になって不自然に思えた。

 しかし、そのことを不自然に感じたのは僕だけではなかったようだ。僕のだいぶ前を走る彼女の姿が見えなくなった気がした次の瞬間、突然人影から姿を現した彼女は、まるで不審者でも見るような目で僕を見ながら言った。


「そんなに急ぐと素敵なスーツが台無しですよ。それとも、他に理由があってさっきから私を付けているの?」


 だんだん荒くなる言葉遣いから彼女の警戒の意図を感じた。


「僕の向かう先も同じ方向なもので。ほら、あのビルです」

 できるだけ不安を煽らないようにゆっくりと話をした。

 彼女は、僕の指差す方向は見ずにこちらを訝しげに見ながら、彼女は不満そうに頷いた。


 18時58分。

 目的地到着。これ以上あらぬ疑いをかけられぬようにと少し遠回りをした為、予定より数分遅れたがなんとか間に合った。急いでエレベーターに乗り込み目的の25階を目指す。

 日は未だ暮れていない。それどころか地上からだいぶ離れたこの場所からでは昼過ぎともとれるくらい太陽の輝きは強かった。ここでも昼の時間は夜より大幅に長い。

 僕はこの招集が長引かないことと帰りには太陽が沈んでいることを祈りながら、IDカードを入口にかざした。指紋認証ディスプレイに浮かび上がった「G」の文字を一筆書きの要領でなぞる。

 扉が開くと、外の明るさがまるで嘘のように真っ暗な部屋の中に人影が浮かび上がった。部屋の暗さに目が慣れる前に聞こえたのは、やはりというか彼女の声だった。

 いつもに増してせわしない様子だったのは彼女だけだったが、僕の方を見るなり少し驚いた様子で言った。


「あら、いつからそこにいたの? 遅刻の連絡もないからいよいよお別れかと思ったのに。意外としぶといのね。話は落ち着いた後でするから、この子を奥の部屋に案内して頂戴。今日から私たちと一緒に仕事をすることになる大事なメンバーよ」


 目はすっかり暗闇に慣れていたから見間違えるはずはない。そこにいたのは紛れもなく先程の女の子だった。


「年齢はフィル、あなたより一つ下の17歳よ。ようやく後輩ができたのだからもう少し喜んだら?」


 僕のした予想は当たったわけだが、それより重大な事実の前にそのことは大した意味を持たなかった。

 奥の部屋へと向かう途中、彼女は俯きながら言った。


「先程は、その……大変失礼しました。仕事柄、警戒を怠るわけにもいかず」


「それはお互い様です。我々は晴れて仲間になったわけですから、これ以上の説明は不要でしょう」


 そう言うと彼女は少し安心した様子でさっきとは全く違った表情で微笑んだ。

 それから皆のしているのと同じバッジを彼女に渡しながら続けた。


「ようこそ、ガラパゴスへ。ここは知らざる者の中で真実を知ってしまった者たちで構成された組織です。メンバーはあなたを含めて5人。平均年齢18歳のハッカー集団です」




Chap.0 プロローグ END.            

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