オトリガミ

八六 七

ヒキサキ



 田山のどか、十七歳。高校二年生。黒い髪を首元で一つに束ね、青い縁の眼鏡をしている。趣味は読書と編み物。好きな食べ物はプリン。

 大人しくて目立つ方ではないが、優しくおおらかなで真面目な女の子。心密かに想いを寄せている人もいるし、親友と呼べるほどの幼馴染がいて、多くはないけれど友達だっている。両親とも仲がよく、何の不安も不自由も感じない生活を送っていた。

 そんなある日、のどかは両親の結婚記念日にサプライズプレゼントをするため、バイト帰りに雑貨屋に立ち寄る。両親の喜ぶ顔を想像すると、自分の心も弾んだ。あれこれと散々迷った挙句、ようやく手にしたのはふたつでワンセットにされた淡い桃色と透明感のある青いグラス。これを綺麗に包装してもらい、のどかが店を出るときには客はのどかで最後のようだった。腕時計を見るともう二十二時を過ぎている。

「もうこんな時間……。急がないと」

 のどかは学校指定の黒いバッグにプレゼントをしまい、早足で駅へと向かう。

 雑貨屋のある場所から駅に行くためには暗くて細い路地を通ればすぐだ。気味が悪くていつもはその路地を迂回するのだが、今日はいつもと違い時間が押している。のどかは気後れしながらもその路地を通ることにした。

 人一人通るのがやっとの暗くて汚い路地。街灯などあるはずもなく、少し先にある大通りから入ってくる光だけが頼りだった。人々の喧騒が大通りの方から遠くに聞こえる。不気味な路地から明るくて賑やかな大通りを目指して、のどかが半ば駆け足になろうとしたときだった。のどかの後頭部に激しい衝撃が走る。痛みを感じる間もなく、のどかはその場にばたりと倒れた。のどかのバッグは投げ出され、アスファルトの上をずずずと滑ってやがてゴミ箱に衝突して止まった。


 ゆっくりと瞼をもたげ、一度瞬きをした。それと同時に後頭部に鋭い痛みが走り、のどかは激痛に顔を歪める。声にならない悲鳴は苦痛の吐息となってのどかの唇からこぼれ落ち、きんきんと、そしてどくどくと痛む場所に触れようとして気が付く。体の自由がきかない。くしゃりと歪めた顔のままうっすらと目を開くと、六畳くらいの洋室が見えた。よく見ると洋室というよりはログハウスのような内装をしている。カーペットなどは敷かれておらず、ところどころ黒く汚れたフローリング。部屋の中央辺りに三脚があり、こちらにレンズを向けてビデオカメラがセットされている。それ以外は冷蔵庫と吹き抜けになっている二階への階段くらいしかなく、人の気配もない。

 何処だろうと思いつつも、のどかは頭を巡らせて動かせない手足の状況を確認する。両手は交差させられ、その上から手首をガムテープで固定されている。足も同様に固定されていた。幸い、口には轡のようなものはされておらず、口を使って手首のガムテープを外せるかもしれない。

 のどかは不自由な手を床につき、横になっていた体を起こす。動くたびに頭が痛く、そちらに気を取られて緩慢な動きになってしまった。のどかは今一度室内を見渡し、人がいないことを確認する。いないと確信するや否や、のどかは手首のガムテープに歯を立てる。が、思っていたほど簡単には剥がれそうにない。

 ここは何処。どうしてこんなことになったの。私はどうなるの。誰か……。

 不安と恐怖がのどかを急き立てる。急げば急ぐほどうまくガムテープを噛み切れない。それでも必死になって続け、なんとか手首のそれを排除することに成功した。両手が自由になったのどかは恐る恐る後頭部に触れてみた。触れた瞬間ずきりと痛んだが、血は出ていないようだった。その代わりに特大のたんこぶができていた。出血していなかったことにほっと胸を撫で下ろす。そうして、さあ足のガムテープを剥がしにかかろうかという時だった。おそらく玄関口の方だろう。かちゃかちゃと鍵を開けるような音がした。

「ひっ……」

 悲鳴をあげそうになる口を自分の両手で塞ぎ、のどかは音のした方向を見つめたまま動くことができない。恐怖で体が硬直し、思考回路も停止してしまっている。

 逃げなきゃ。

 思考回路が復活し、警笛を響かせ始めたときにはもう扉の開くような音がしていた。のどかは足首のガムテープを音をたてないよう神経を張り詰めて剥がしていく。無音にはならないが、思い切りいくよりは音を抑えられる。手元作業を止めることなく、のどかは隠れられそうなところや外に続く窓を探した。けれどここにある窓はすべて外から板のようもので打ち塞がれおり、窓からの脱出は不可能。隠れられそうな場所も、ほとんど家具のないこの空間では無理だった。だからといってこのまま見つかってしまっては何をされるかわからない。殺されるかもしれない。

 どうしようどうしよう。お父さんお母さん助けて……。

 考えれば考えるだけおぞましくなり、今の自分の状況が最悪であることに絶望する。やがてその絶望はのどかの目の前に現れる。

 扉の閉まる音。フローリングが軋む。誰かが歩いて来る。

「田山のどかちゃんだね?」

 ガムテープを剥がし終わり、立ち上がった状態ののどかの前に現れたのは巨漢。背丈はのどかの頭ひとつ半以上は差がありそうだ。脂肪の鎧でも纏ったかのような丸い体躯に、ぎょろりとした目玉がダルマを彷彿とさせた。

 ガタガタと震えるのどかに向かって男は薄気味悪い笑みを見せ、一歩近づく。

「生徒手帳に書いてあったんだ。のどかって名前可愛いね」

 男が一歩近づくと同時に、のどかは反射的に一歩後退る。怖くて仕方がないのに、目の前にいるのどかを襲ったであろう男から目離せない。近寄らないでと言いたくても喉が張り付いて声すら出せない。

「逃げないでよ、ほら」

 言いながら男がまた一歩踏み出す。のどかが一歩後退する。と、同時に笑みを浮かべていた男の顔が一気に般若の形相になり、怒鳴った。

「逃げるな! って! 言ってるだろ!!」

 怒声に萎縮し、まどかは思わず身を屈める。それを待っていたかのように、男はわざとらしく大きな足音を立てながらのどかに近づき、のどかの髪をわし掴んだ。

「こっちを見ろ! お前はもう俺のモノなんだ。言うことを聞かないとどうなるかな? 教えてあげよう」

 言葉尻になるにつれ口調が元に戻り、男は怖がらなくて大丈夫、などとのどかに声をかける。しかしそんなことを言っているくせにのどかの髪を引っ張り、引きずるような形で冷蔵庫の方へと向かう。髪を庇うためにのどかは自分の髪を掴む男の手を持ち、這いずってされるがままに着いて行く。

 冷蔵庫の前で男は立ち止まり、のどかの髪を離す。のどかは崩れ落ちるようにその場に倒れ込んだ。

「これを見てごらん。のどかちゃん、君も俺の言うことをきかないとこうなるんだよ。俺だって本当はこんなことしたくなかったんだ。でも仕方ないよね。俺の言うことを聞かなかったんだから」

 男が冷蔵庫を開ける。のどかは嫌な予感がして、そちらを見る気にはなれなかった。だが、男がまたのどかの髪をわし掴み、無理矢理に冷蔵庫の方へと顔を向けさせた。

「……っえ……あっ、え……」

 冷蔵庫の中から漂ってくる冷気は異臭を孕んでいて、それがその四角い箱の中に押し込まれている少女の臭いだとわかるまでに僅かな時間を要した。人形だと思った。そう思いたかった。でもそうじゃない。のどかの目に映る血まみれの少女は人形じゃない。腐敗が始まっている臭いがする。

 なにこれ……死んでる? 殺されたの? 私もこうなるの? 殺されてしまうの? どうして!?

 口元を手で塞ぎ、こみ上げる吐き気に耐える。のどかの大きな瞳に涙が滲む。

「鳩尾から包丁を入れてね。ゆっくり下の方に引く。刃こぼれのひどい包丁だったからやりにくかったけど、それにしてはうまく捌けてると思う。そう思わない?」

 少女の死体から目を背け、俯きがちになって震えるのどかに向かって、男が再度同じことを問うた。しかしのどかはその問いに答える余裕はおろか、内容を聞く余裕すらなかった。

「聞いてる!? 思うよね? ねえ! 思うだろ!?」

 返答の出来ないのどかに向かって発狂しながら、男はのどかの後頭部に平手打ちする。無防備なのどかはその衝撃で前のめりに崩れ落ちる。

「……ます……」

「何!? 聞こえない!」

「お、思います……」

 震える声を振り絞り、のどかはなんとかそれだけ返事をした。

 男が何を言っていたかなどわからない。でもこの人は自分の思うようにならないと突然怒り狂って……あの女の子のように私も殺す。死にたくない。死ぬのは怖い。どうすればいい? どう逃げればいい……。失敗すればきっと殺される。どうすれば……。

 はらはらと大粒の涙を零しながら、のどかは嗚咽が漏れないようにぎゅっと口元に当てた手に力を込める。

「のどかちゃんは利口そうでよかった。いい子にしていれば痛いことは何もしないよ。だから安心して。怖くないからね」

 男はそっと冷蔵庫を閉め、しゃがみ込んでのどかを覗き込む。口角を釣り上げ、不細工な笑みを浮かべるその顔に向かってのどかはこくりと頷いた。 


 反抗すれば殺される。しなければ殺されない。男の言い分を信じることなんて到底出来ないが、今は生き延びるためにそれを信じて従順な態度を取ることがのどかに出来る精一杯のことだった。

 三脚から少し離れたところに立たされ、男からの質問に答えさせられる。

「のどかちゃんはいくつ?」

「……じゅ、十七です」

「恋人がいたことは?」

「ありません……」

「へえ! じゃあ処女なの?」

「は、はい……」

 小動物のように怯えながらののどかの返答。しかし男は至極嬉しそうに顔をほころばせたあと、三脚からビデオカメラを外し、それを持ってのどかへと近づく。

「こんな可愛いのに処女なんだね。セックスのよさ知らないなんてもったいないよ」

 のどかの頬を撫でながら、男はのどかの表情をビデオカメラで撮影している。そしてのどかの頬を伝い、男の指がのどかの首元に下がり落ちる。制服の襟の内側に人差し指を入れ、外側に引っ張った。

「ピンク色のブラか。いいね。俺そういうの好きだよ」

 男はのどかの耳元で囁きながら、開かれた襟の中へと視線を送っている。

 気持ち悪さと恐怖が混ざり合い、このままされるがままでいいのか、それともイチかバチかで逃げようとするのがいいのかわからなくなってきた。このままではこの男に好きなように弄ばれるだろう。少女の死体のある、こんなところで。想像するだけで嫌悪感で頭がおかしくなりそうだ。

「少しここで待っててね」

 男の吐が耳にあたり、ぞわりと身震いする。

 男はのどかに待つように告げたあと、ビデオカメラを三脚に戻して二階へとあがっていった。

 今なら逃げられる! 今を逃したらもう次はないかもしれない!!

 のどかは二階にあがり、男の姿が奥の方へと消えるのを待つ。姿が見えなくなると、そのまま二階を見上げながら、玄関口の方へと向かう。

 あと少し。あと少し。

 のどかの見つめる先に、未だ男の姿は映っていない。冷蔵庫の前を過ぎ、玄関口に繋がっているであろう薄暗い廊下が見えた。今すぐ駆け出したい気持ちを抑え、玄関のドアノブに手をかける。もう片方の手で鍵を探り、開ける。

「え、どうして……」

 鍵を開けたのに、扉が開かない。のどかはドアノブ付近に他の鍵がないかと調べてみるが、暗くてよく見えない。

「ここの鍵はひとつ開けただけじゃ出られないよ」

 体が緊張でびくりと波打った。背後からあの男の声。殺されるかもしれない。出口は目の前にあるのに、出られない。

「全部で四つついてるから」

 怒声ではないものの、妙に静かでそれが恐怖を倍増させた。

「一応聞くけど、逃げようとしたの?」

 がちがちに固まった体を男の方へと向き直らせ、のどかは引きつった笑みを浮かべる。

「お、トイレを……お借りしたいな、って……」

「そっか。トイレはそっちじゃない。こっちだよ」

 緊張と恐怖で停止しそうになる思考をなんとか働かせ、思いついた言葉はあまりにもひどい嘘だった。でも男は気にしていないふうに言って、のどかに手招きをする。

 大きな深呼吸をし、ゆっくりのどかは男の方へと歩み寄る。男との距離が三十センチをきったところで何の前触れもなく男の腕が振り上げられ、呆気に取られたのどかは振り上げられる腕を目で追った。

 ばちん。大きな手のひらがのどかの頬を打った。

「次っ! 同じような! ことがあれば足の指を全部!! 落とす! わかったな!?」

 肩を掴まれ、ぐらぐらと体を揺すられる。頭が痛い。

 男はのどかを乱雑に担ぎ上げると、先ほどまで居た部屋に戻った。そしてのどかが立たされていた場所にのどかを放り投げる。のどかは受身を取ることも出来ずに体を床に打ち付ける。それから気づいたが先ほどとは違い、そこには汚い布団が敷かれていた。ここで今から自分が受けるであろうことが脳裏を過ぎった。

「あぁあああぁあああ!!」

 自分の体を抱きながらのどかはその場で身を丸めて奇声を上げる。

 私はこの男に犯されるか殺される。どっちもかもしれない。どうして! なんで! 嫌だ! 死にたくないしこんなやつとセックスなんて絶対したくない! 嫌! 嫌、嫌、嫌!!

 今ある現実を受け止められなくなった。逃げることは出来ない。どう足掻いてもどうにもならない。どうしようもない絶望感と恐怖と憎しみで脳が正常に機能出来なくなっていた。

「怖いの? 大丈夫だよ?」

 怯え、泣き叫ぶのどかにそっと擦り寄る男。のどかの背中を優しい手つきで摩りはじめた。

「怖がってるのどかちゃん凄く可愛いよ……」

 はあ、と熱の篭った吐息を漏らし、背中を摩っていた手でのどかを押し倒す。のどかは体を抱いたままうつ伏せに転がった。

「嫌っ! やめて! お願い……」

 うつ伏せになったのどかのスカートをめくりあげ、男はのどかの淡い桃色の下着に顔を擦り付ける。必死ににおいを嗅ごうとする男の鼻息が熱く感じられる。のどかは足をばたつかせ、体を捻って抵抗するが巨漢にとってその程度の抵抗は抵抗とも呼べない些細なものだった。

「はぁあ……のどかちゃんいい匂いだね……。これからのどかちゃんのハジメテを貰ってあげるからね」

 男はそう言うとのどかの腰に腕をねじ込み、四つん這いにさせようと腰を起こそうとする。だが、のどかは全身に力を入れ、腹から太ももが引き剥がされないよう抵抗した。

「痛い痛い!!」

 のどかの抵抗が鬱陶しくなったのか、男はのどかの尻に噛み付く。男はじわじわと顎に力を入れ、やがてのどかはその痛みに負けて全身から力を抜いてしまった。

「お願いっ……やめて……やめてぇ……」

 腰を持ち上げられ、膝をつかされる。尻だけを突き上げた体勢になりながら、のどかは泣きじゃくる。

 そんなのどかを見下ろしながら、男は目の前の若くて瑞々しい脚をいやらしい手つきで撫で回す。やがて男の手がのどかの下着に伸ばされ、今まで誰に見せたことも、触れさせたこともない大切なところを晒された。もうのどかは声もあげず、嗚咽を漏らすだけだった。


 言われるがままに指示されたことをする。そのことに対して憎しみや恐怖を覚えていた頃のことが懐かしかった。遠い昔のような気がする。

 のどかは必死に腰を打ち付けてくる巨体の見慣れた顔を目の前にしながら、そんなことを考えていた。

 誘拐されてからどれくらいの時間が経過したのか、時計もなく日差しも届かないここでは予想も出来なかった。唯一時間の経過を測れるものといえば、自分の髪。随分と伸びた。でも髪の伸びる早さで時間を割り出すのはやはり難しいな、とのどかは思う。

「のどかちゃん最近ガバガバになっちゃったねえ」

 のどかの膣に拳をねじ込み、男が困ったふうに眉尻を下げた。

 そうしたのはお前だろう、のどかは心の中で哄笑する。

「笑わないし喋らないし。そろそろ潮時かな?」

 体だけでなく心をも破壊されたのどかは潮時という言葉に希望を感じた。解放してくれるのだろうか、などというものではなく、違う意味での希望。

 ぶつぶつ呟きながら、男がキッチンの方へと歩いて行った。男の後ろ姿を見るとよく殺意を覚えたが、今ののどかにその殺意が芽生えたとしてももうどうにも出来ない。子宮内で射精され、妊娠しては腹を殴られ蹴られ、子宮以外にも損傷を受けたまま何の手当もなく過ごしてきた。のどかの体はもうぼろぼろで、腹には血が溜って張っている。それに二度目の逃亡失敗時に足の指をすべて切断され、うまく歩くことも出来ない。

 このままでも死ぬけど、いっそもう殺してくれとのどかは思っていた。出来るだけ早くこの現実から逃れたい。消えてしまいたい。汚れ切った自分自身を受け入れたとき、のどかは家に帰ることを望まなくなった。

 こんな自分を見て悲しむ家族をみたくない、汚れてしまったことを知られたくない。もう死ぬしかない。

 それがのどかのたどり着いた答えだった。

 のどかは暗がりの天井を見上げながら、数を数え始めた。消え入りそうな掠れた声に気づいたのか、キッチンから戻ってきた男がのどかの口元に耳を近づける。

「どうしたの? ……何を数えてるの?」

 男は訊ねるがのどかは答えず、数を数え続ける。男は不思議そうな顔をしたが、それ以上何も言うことはなかった。

 のどかの横たわる布団の傍らに、牛乳瓶、トイレブラシ、線香、ペーパーナイフを几帳面なまでに等間隔に並べ出す男。のどかはちらと一瞥したが、すぐにまた天井に視線を戻した。


 のどかが数を数え終わったの時の数字は3600だった。


 

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