45.ごめん、来ちゃった~陸~
まだ消化できていないことは多々ある。しかし、梨花の秘密のことは整理ができた。一度冷静になって考えたらすんなりと受け入れられたのだ。だからと言って俺から梨花に対する気持ちは変わらない。これからもしっかりと自分の気持ちに向き合い、付き合っていくつもりだ。
とは言え、梨花はどういう気持ちで俺と紗奈が付き合うことを受け入れたのだろうか。しかもそれでも一緒に暮らしていきたいと思ってくれている。ただそれを考えたところで、俺にできることは梨花の気持ちを尊重し、紗奈を不安にさせないことだけだ。
そしてそれ以外に多くのことが引っ掛かっていて、煮え切らない。そんな気持ちをよそに俺は実家の玄関ドアを開けた。時間はもう夕方だ。
俺は無言で靴を脱ぐ。二階建ての木造住宅。どこにでもあるごく一般的な戸建て住宅だ。すると俺の帰宅に気づいた母さんが玄関まで出迎えに来た。
「陸。おかえり。ささ、上がって」
「ただいま」
俺は細々とそれだけ言葉を返した。物腰が柔らかく穏やかな表情をしている母さん。けどそれは教育によって身に着けた仮面だ。この人は人形のように感情がない。本心ではどれほど子供のことを考えているのだろうか。
「ご飯もうすぐできるから先にお風呂入ってらっしゃい」
俺はそれに返事をすることなく二階へ上がった。そして俺が足を踏み入れたのは中学の時まで俺が使っていた部屋だ。6畳の広さで収納がある。ごく一般的な中高生の部屋だと思う。学習デスクとベッドは当時のまま残っていて部屋が綺麗だ。母さんが掃除をしたのだろうか? 俺はとりあえず荷物を置き、風呂へ向かった。
一坪の浴室に納められたユニットバス。その湯船に浸かって考える。部活のことと仕事のことだ。両立なんてできるだろうか? いや、恐らくできない。今はできても来年の4月、会社設立の準備が始まったら無理だ。なら会社設立を諦めるか、若しくは先延ばしにするか。
「はぁぁぁぁぁ」
深いため息が出る。会社設立は社会人の俺にとってチャンスだ。仕事が順調な今こそが決断の時だ。しかし、部活は学生のうちしかできない。単純に将来を見据えるなら仕事が優先だ。学業はすべてそこに繋がっているのだから。けど……。
俺は風呂を上がると再び二階へ上がろうとした。それを母さんに呼び止められた。
「ご飯できたわよ」
階段へ向いていた足を止め、俺はリビングに向かった。
リビングドアを開けると父さんが食卓に着いたところだった。父さんは俺の顔を見るなり言う。
「陸、おかえり」
「ただいま」
母さん同様俺は細々と言葉を返した。イラつく。この両親を揃って見ていると。仮面の母さん。そして目の前にいるのは、生気のない父さん。今日も会社を定時に終えて真っ直ぐ帰ってきたのだろう。
家で何をするわけでもない。趣味もない。息子や娘と交わす話題もない。母さんから振られる話に時々相槌を打つくらいだ。もう少し行動力と野心を養ったらどうだと思う。
そして無言で食事を取り始める俺に、母さんがしきりに東京での生活を聞いてくる。食事の席でのただの話題だろう。別に俺のことを心配しているわけでもなかろうに。それならそんな話題は反って迷惑だ。
俺は夕食を手早く済ませると二階の部屋に篭った。漫画も何もかも東京の自宅に移した。学校の宿題も持ってきていない。やることがない。俺は鞄からタブレットを取り出し、仕事を始めた。ここは東京の書斎ではないので、できることは限られているが。
するとしばらくしてスマートフォンが鳴った。それは電話で、着信の相手は紗奈だった。
「もしもし?」
『あ、先輩?』
「どうした?」
俺はタブレットを学習デスクの上に置き、操作しながら応対した。スマートフォンはスピーカーにして、タブレットの隣に置いている。
『特に用事はないよ。声が聞きたくて』
「なんだよ、それ」
『愛しの彼女なのに、用事がないと電話しちゃいけないの?』
紗奈が不服そうな声で言うので、なんだかおかしくなってしまった。この部屋にいる時に彼女として紗奈と電話をする日が来るなんて。
「全然いいよ」
『へへん。(ビュー)何してたの?(ビュー)』
「仕事かな」
『ん? タブレットで?』
「そう。紗奈は久しぶりの実家なのに俺と電話してていいのかよ?」
『昨日からいるからいいもん。(ビュー)』
なんだかさっきから風の音が聞こえる。紗奈のスマートフォンが風を受けているのだろうか。……ん?
「紗奈、もしかして外にいる?」
『あ、バレた?』
「どこにいるの?」
『えへへ』
俺はハッとなった。そして部屋のカーテンを開けた。玄関の先にある家の前の道路。そこに紗奈はいた。自転車に跨り、スマートフォンを耳に当てている。紗奈は俺の部屋を見ていた。
それを確認すると俺はスマートフォンを学習デスクに置いたまま階段を駆け下りた。そして玄関にあった誰のかもわからないサンダルを足に突っ掛けると、勢い良く玄関ドアを開けた。紗奈は既に敷地の中に自転車を停めていて、立ってこちらを見ている。
「ごめん、来ちゃった」
「紗奈……」
俺は紗奈に駆け寄り、勢い良く紗奈を抱きしめた。紗奈は絶対に俺を心配してここに来た。笑顔ながらも、心配そうな紗奈の表情からそれが読み取れたのだ。
「う……、苦しい」
そう言いながら紗奈も俺の背中に腕を回す。俺は少しだけ力を緩めた。辺りはもう暗くなっている。
「そらの家に行って来るって言って出てきた。10時までには帰って来なさいだって」
俺の胸の中で紗奈が言う。
「そらは大会中だから寮から帰って来ないじゃん」
「そんな細かいことまでうちの親には説明してないよ」
「そっか」
俺は紗奈の体を解放した。優しく俺を見つめる紗奈の表情が、実家に帰って来たというストレスを和らげてくれる。すると紗奈が切り出した。
「あのさ……」
「ん?」
「先輩のご両親に彼女ですってご挨拶しちゃだめ?」
「え?」
俺の親に? あまり近寄りたくないのだが。だから紹介する必要なんて……。そもそも紗奈はそらと親しかったのだから俺の親とは面識があるだろうに。
「先輩のお部屋に上がりたい。だから先輩の彼女だって紹介してほしい」
「紗奈……」
「陸先輩のご両親だって娘を持つ親でしょ? 女の子を部屋に上げるってなったら気にするんじゃない?」
娘を持つ親か……。確かに戸籍上の娘は持っているな、うちの親は。しかし娘に対して親の心は持っているだろうか? 息子に対しても言えることだが。とは言え、紗奈の言いたいことはわかった。
「わかった。行こう」
俺は紗奈を引き連れて家に戻るとリビングに入った。母さんはキッチンで洗い物をしていて、父さんはソファーで寛いでいる。紗奈の姿を見るなり母さんが言った。
「あら、紗奈ちゃん。今東京よね? いつ帰ってきたの?」
「陸先輩と梨花と一緒に昨日」
「そうだったの。そらならまだ帰ってきてないわよ」
「はい、知ってます。今日はご挨拶に来ました」
「ご挨拶? 私達に?」
「はい。……先輩」
紗奈は俺に向き直り、先を促す。紹介するのか。まぁ、するんだよな。
「えっと、紗奈が東京に来てから俺達付き合ってる」
「まぁ!」
母さんが目を丸くした。父さんは視線をこちらに向けてはいるが無表情だ。相変わらず生気がない。イラつく。やっぱり紹介しなきゃ良かった。
「いつから?」
だから東京に来てからだって言っているのに。具体的なことを聞いているのだろうが。
「えっと――」
「紗奈はここに来ること言って出て来てるから、部屋に上げるわ」
俺は答えようとする紗奈の言葉を遮って、紗奈の手を取った。そして階段を上がり、元自室に入った。
「先輩、もう少しお話しても良かったんじゃない?」
紗奈が咎めるように言う。俺はそれには何も答えなかった。とりあえず紗奈をベッドに座らせ、俺は学習デスクの椅子に座る。
「俺も紗奈のご両親に挨拶した方がいいか?」
「してくれるの?」
弾んだ声で反応する紗奈。そうしないとフェアじゃないよな……。
「そりゃ、まぁ……」
「嬉しいな」
紗奈はご機嫌な顔を向ける。こんな紗奈の無邪気な笑顔が俺は好きだ。
「けどね。お姉ちゃんにしか言ってないんだ」
「そうなの?」
「うん。やっぱり親元離れて暮らしてて、しかも大家である先輩と付き合ってるって言ったら絶対心配されちゃうから」
「確かに……」
紗奈には二歳年上の姉がいる。つまり俺の一歳年上だ。中学の時はバスケットボール部に所属していて、そらがよく可愛がってもらっていた。その繋がりもあって、そらは紗奈と梨花と親しくなった。
「変わってないね、先輩のお部屋」
部屋を見回してそんなことを言う紗奈。腰の横でベッドに手をつき、身を乗り出すように部屋を眺めている。二段ベッドを解体してできた布団を敷くタイプのベッドで、両側の手すりは中学時代に撤去した。
「俺の部屋に入ったことはないだろ?」
「あるよ。中一の時から先輩がいない時頻繁に。そらと梨花と一緒に」
「……」
それはプライバシーの侵害ではないか。何てことをしていたのだ。
「タンスの一番下の引き出しを外して、床の上にできたスペースにエロ本を隠してたよね?」
「げ……」
男子中学生の秘密の隠し場所を掘り当てるなんて、それは触れてはいけない神聖な場所だぞ。とんでもないことをしてくれたものだ。
コンコン。
すると部屋がノックされた。返事をして入室を促すと、母さんが飲み物とお菓子を持って入ってきた。
「紗奈ちゃん、ご飯は?」
「あ、もう食べました」
「そう。これおいしいから良かったら食べて」
「ありがとうございます」
ジュースとお菓子は部屋にある小さな円卓に置かれた。母さんはすぐに部屋を出て行った。親元で暮らしていれば、これが彼女を部屋に呼んだ時の本来の高校生の付き合いなのか。尤も今の時間は遅いが。
俺と紗奈は円卓を挟んで斜向かいに、床に座り直した。ストローを使ってジュースを吸う紗奈を視界に捉えると、途端にその唇から目が離せない。東京ではたくさん重ねた唇なのに、今ここで見ると変に意識してしまう。
「そらが帰って来るまで毎日ここに来てもいい? 門限は10時だけど」
グラスを置くと徐にそんなことを言う紗奈。心配を掛けているのだろう。俺がもっとしっかりしなくては。
「そんな顔しないで」
「え……」
「私は先輩の彼女なの。先輩を支えるのは当たり前だよ。もう少し私のことも頼ってほしい」
読み取られてしまったようだ。こういう精神状態の時は敵わないな。
「仕事では十分助けてもらってるけどな」
「仕事だけじゃなくて精神的なことも。重いかな?」
少し遠慮がちに紗奈が言う。重いだなんてとんでもない。ここにいるうちは感情のコントロールがうまくできない。甘えるべきか。いや、甘えたいのが本音だ。
「じゃぁ、紗奈の家に迷惑が掛からない程度でお願いしようかな」
「うん。任せて」
そう言って紗奈の表情が優しい笑みに変わった。自分の心が癒されるのがわかる。紗奈が尽くしてくれている。俺はこれから何を返していけるだろうか。
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